コーヒーと雨と先輩

空乃ウタ

第1話

「知ってるか?コーヒーに入ってるカフェインはな。実はとても小さな生物なんだ」


 そんな突拍子もない事を言うのは、私の前に座っている先輩であった。


「その小さな生命体であるカフェイン達が体に侵入する事で、体内で暴れ始める。だから人はコーヒーを飲むと眠れなくなってしまうのだ!!」


「のだ!! じゃないですよ全く……。てか何ですかその微妙に気持ち悪い嘘」

「ちなみに足は六本だ」

「キモさを上乗せするなぁ!!」


 先ほどまでは真面目に勉強していたはずなのに、どうもこの人は飽きると変な事を言い出す謎の癖がある。そんな人が学年でぶっちぎりトップだなんて笑ってしまう。


「まあまあ冗談だ。気にするんじゃないよ」

「知ってますよ!」


 この人との出逢いは偶然である。ある日、家の前で猫が倒れていた。その猫は首輪をしていて飼い猫という事は分かったが、ひどく衰弱していたので動物病院に連れていく事にした。そして、連れて行った病院がなんと先輩のご実家でさらには、私の拾った猫は先輩の家の飼い猫だったのである。どうやら二週間ほどいなくなっていたようで、半ば諦めていたらしい。飼い猫と再会した時は、涙を流し喜んでいた。


 猫を見つけて貰ったお礼にと、先輩は私にこう提案した。


(何でも一つ言うことを聞いてやる)


 普段から食欲も睡眠欲も、物欲も、ありとあらゆる欲がない私がふと言葉にした願いは「勉強教えてください」だった。


 それから私は週に一回、学校近くのカフェで先輩に勉強を見てもらっている。


「そういえば、前回の中間テストはどうだったんだ? 私が君に教え始めて、最初のテストだ。もちろん良い成績をとったのだろう?」


 先輩は得意げに腕を組む。先輩が腕を組むときは、確信がある時だけ。私はそのカッチカッチの自信を渾身の右フックで打ち砕いてやった。


「いえ、むしろ下がりました」

「はうぅ!!」


 さすがに効いたらしく、縮こまっていく先輩。いつもよりも五センチほど小さく見える。


「この私が教えているというのに、全く君という奴は……。コーヒーでも飲んで反省したまえ」


 そういって自分が飲んでいたブラックコーヒーを差し出す。さっき変な話をされたせいで、コーヒーの中に変な生き物が見える気がする……。


「遠慮しておきます。私、苦いの無理なんで」

「そ、そうか……」

「それにずっと言おうと思ってたんですけど……」

「ん? なんだ? 愛の告白か!?」

「先輩、勉強教えるの下手だと思います」

「ぐぅはっ!」


 再び渾身の一撃を喰らった先輩はノックアウト寸前だ。ここぞとばかりにダメ押しの連撃を繰り出していく。


「説明の時擬音が多すぎて意味分からないし」

「うぅ……」

「そもそも普段の会話からして、理解できないし」

「あがぁ!」

「一緒にいるの結構恥ずかしいし」

「ひぐぅ……」


 さすがにそろそろ可愛そうになってきたので、この辺でやめておくことにしよう。


「せんぱ~い。息してますか~?」

「あぁ、大丈夫だ。私のメンタルを舐めてはいけないよ。ついこの間を達成してしまったからね! しかも制服で!」


 確かに、華のJKが一人でさらに制服で牛丼屋に行くことは中々凄いかもしれないけど、いばれる事ではないと思う。やっぱりこの人は少しずれている。


 こんな調子では今日はもう勉強はできないと思い、参考書を鞄にしまう。テーブルの上のグラスを見ると、最初に頼んだ紅茶は飲みきってしまっていた。もう一杯飲む気にはなれなかったので、お冷を取って来ようと席を立つ。


「もう帰るのかい?」

「いえ、お冷を取ってくるだけです」

「そうか。あんなにボロカスに言うもんだから、もう帰ってしまうのかと思ったよ」

「先輩といる時間は好きなんで」

「アメとムチ!! アメとムチがすごい! 乙女の扱い方が分かってるじゃないか」

「いや、乙女には無条件で優しくするでしょ。誰でも」

「ムチきたぁぁ!!」


 何故か体をくねらせながら、悶絶する。そんな情けない先輩の姿を見てため息をつき、セルフサービスの水を取りに行くことにした。


 ――お冷を持って席に戻ると、先輩は窓の外をぼーっと見つめていた。


「雨、全然やまないですね」

「あぁ、梅雨明けはもう少し先になりそうだな」


 季節は六月下旬。梅雨真っ盛りの時期。今年は例年の三倍ほど降水量が多く、二日に一回は雨が降っていた。私は昔から雨が好きではなかった。というより、雨が好きな人などこの世にいるのだろうか。雨の日は毎回髪の毛はうねるし、傘をさしていたって靴は濡れるし服も結局濡れる。雨に降って欲しいときなんか、マラソン大会の時くらいで、それを差し引いたって全然好きになれない。


 取ってきたお冷を飲みながら、憂鬱な気持ちになる。雨が降っている間は帰る気にはなれない。せめて帰るときくらいは止んで欲しいものである。


「そんな顔をするなよ。私は結構好きだぞ。雨の日」


 一生「雨が好き」なんて人とは出会わないと思っていたが、割と近場にいたらしい。


「何でですか? 雨降ってて良いことあります?」

「こうして君といる時間が長くなる」

「……そんな事言っても何もでないですよ」


 不意の言葉に思わずドキッとしてしまう。こういう所があるからこの人はずるい。先輩はまた得意げな顔をして腕を組んでいる。今回はどうやら私の負けである。


「そういえば、先輩はもう志望校決めてるんですか? やっぱり獣医系の学校とか――」

「いや、私は進学は考えていないよ」


 意外な返答だった。うちの学校は県内でも三本指には入る進学校で、その中で圧倒的頂点に君臨している人である。さらには、全国模試で一位を取ったことがあるとかないとか。


「そ、そうなんですか」

「私はね、冒険家になりたいんだ」

「……は?」


 またもや意外な答えが返ってくる。最早意外というか何というか、この人が本当に頭が良いのかバカなのか混乱してきてしまった。


「いやいや。まあ確かに、冒険家って人はいますけど……。何で……」

「だってお宝とか見つけたいじゃないか! この世でまだ誰も発見したことない場所とか行ってみたくなるだろう! いやっほい!」

「ちょっ! 落ちついてください!」


 どういう訳かテンションのメーターが振り切ってしまった先輩は、怒濤のマシンガントークで冒険の素晴らしさを私に語ってくる。


 その後三十分に渡る演説を聞かされ、私の精神は崩壊しかけた。当の本人は満足したようで、また私にコーヒーを勧めてくる。


「まあまあ、コーヒーでも飲みたまえよ」

「いらないって言ってるじゃないですか。飲まなくても分かるんです。私には合わないって」

「――そんな事ないと思うけどな」


 先輩はそう言いながら、寂しそうな顔でコーヒーカップを見つめていた。ふと外に目をやると雨はすっかりやんだようで辺りは暗くなり始めていた。


「そろそろ帰りますね、私。先輩はどうします?」

「私はもう少し残っていくとするよ」

「そうですか。お先に失礼します。あっ今日も勉強見て頂いてありがとうございました」

「気をつけて帰りなさい。また来週ね」


 店を出て、雨上がりの匂いを大きく吸って少しむせそうになる。やっぱり雨はまだ好きそうになれなかった。


 ***


 次の週になり放課後、いつも通りの時間にカフェへと向かう。普段だったら先輩の方が先についているはずだけど、今日は私の方が早いみたいだった。珍しいこともあるものだと思い、先に席につく。窓際の二人用テーブルは私達の指定席になっていた。


 カフェについてから、一時間ほどたったがまだ先輩が来る気配はない。先輩とする勉強も集中できないときはあるが、一人でするのも中々落ち着かない。いつも目の前にはあの人が座っているからか、誰もいないとなると何だかスースーする。


 少し休憩でもしようと思い、頼んだ紅茶を飲む。スマホを開くとメッセージがいくつか届いていた。先輩からも一件メッセージが届いていて、


『すまん。もうすぐ行く』


 という内容だった。送られてきた時間を見ると十分ほど前だったので、もうすぐ来るだろう。


 しばらくスマホをいじっているとようやく先輩が到着した。


「いや~すまんすまん。教室で先生に捕まっていてね」

「そうですか。別に大丈夫ですよ」

「お詫びにコーヒーでも奢るよ! ――すみません! アイスコーヒー二つお願いします」

「っ! だから私はっ!」

「まあまあそう言わずに。ねっ?」


 そういって下手くそなウィンクをかましてくる。全く……。本当によく分からない人である。


 ほどなくしてアイスコーヒーが二つ運ばれてきた。店員さんは、ミルクと砂糖がいるか聞いてきてくれたが、先輩が断ってしまった為貰うことは出来なかった。私は正直欲しかった。


「コーヒーはやっぱりブラックに限るな。君も飲んでみたまえ。あっ! 知ってるか?コーヒーの中のカフェインは実は――」

「それはこの前聞きました!」


 とりあえず、奢って貰った手前飲まない選択肢は無いと思い、ストローに口をつける。思い切って飲んでみると、瞬く間に私の口の中は苦みに浸食された。


「……苦い」

「どうだい。自分の知らない味に触れるのは。面白いか?」

「……別に面白くはないです」

「そうか。でも、知らない事に触れるってのは凄いんだぞ! 未知はまさに無限の可能性! だから私は冒険家に――」

「それもこの前聞きました! もう!」

「ははっ。ごめんごめん……今日はちょっと話があるんだ」


 いつになく真剣な眼差しで私を見つめる。その雰囲気はいつものおふざけモードではなかった。


「私、来週からもう来れないから」

「……え?」

「いや~私さ、バカだけど成績いいでしょ? だから交換留学に推薦されちゃって。あんまり行く気はなかったんだけど断れなくて……。だから、残りの高校生活は向こうで過ごすことにした」


 話が全然頭に入ってこない。普段の方が訳分からない事言ってるはずなのに……。


「留学自体は来月からなんだけど、準備とか色々大変だしさ。だから、もうここには来れない…。今日もこの後、親と話さなきゃいけないから――じゃあね」

「……まだ外雨降ってますよ」


 今日もまだ梅雨はあけてなくて、外は大雨だった。


「……そうだね」


 そう言って、先輩は店を出て行った。テーブルの上では飲み残したコーヒーのグラスが申し訳なさそうに汗をかいていた。


 ***


 また次の週、先輩は来ないと知っていながらもいつもの時間にカフェに行く。そして、いつもの指定席に一人で座った。店員さんが注文を取りに来て、いつもの紅茶を頼もうと思ったけど、私は無意識にアイスコーヒーを頼んでいた。


「別に気に入ったわけじゃないのに……」


 先輩との関係はそんなに長い訳ではない。二、三ヶ月程度の付き合いでしかも会うのは週に数回だけ。このカフェ以外で先輩と会ったことはないし、遊びにも行ったことはない。学校で話しかけることもなければ、頻繁に連絡を取りあう仲でもない。


 要するにもう会えないからと言って、別にどうこうなる間柄ではないのだ。気にするだけ無駄であって、どうせあと数日経てばどうでも良くなる。学校にも普通に友達いるし。


 さっき頼んだコーヒーが運ばれてくる。店員さんは砂糖とミルクがいるか聞いてくれたが断った。テーブルに置かれたグラスをじっと見つめる。


(知ってるか?コーヒーの中の――)


 別に思い出したい訳でもないのに、少ないはずの思い出が次々と蘇ってくる。気を紛らわそうとコーヒーに口をつけた。


「……やっぱり苦い」


 苦みで紛らわせると思っていた感情は、思いの外しぶとくて中々消えてくれない。


「先輩……」


 目の前の景色がだんだんと滲んでくる。


「何で……」


 ――気が付けば、下まぶたでは受け止めきれなくなった涙があふれ出ていた。


 私が泣いていることに周りが気づきはじめ少しざわつきだす。華のJKがカフェで一人、泣きながらコーヒーを飲んでいれば確かに気になってしょうがないだろう。我に返った私は、お会計を済ませ店を出る。外は土砂ぶりの雨だった。


(そういえば傘忘れたんだった……)


 店に戻るのもばつが悪いと思い、入り口で立ち尽くしていると――足下から猫の鳴き声が聞こえてくる


「にゃ~」


 足にすり寄って甘えてくるその猫はどこかで見覚えのある猫だった。


「――あなたは!」


 再び私の前に現れた猫に何か不思議な運命のようなものを感じ、そしてある決心をした。


 猫を抱きかかえ土砂ぶりの雨の中を全力で駆け抜ける。服も髪もずぶ濡れになり、肌にはりつく感触は最悪だった。


 ひたすらに、無我夢中に走り続ける。運動は得意な方じゃないし、走るのなんか論外。しかも、天気は雨。それでも走り続けた。途中で何回も転びそうにもなった。


 どれくらいの時間走り続けだろうか。きっと大した距離ではなかったと思うけど、もう呼吸するだけで精一杯だった。そんなぼろぼろの状態でようやく先輩の家にたどり着く。すると、丁度出かける所だったのか、先輩が家から出てくる。


「どうしたんだ。そんなずぶ濡れで――そうか、またうちの猫を送り届けにきてくれたのか」


 先輩はゆっくりと、私に近づき猫を受けとろうとするがその瞬間私の腕の中から猫は飛び出し、家の方へと逃げていってしまった。


「ははは……。私はあまり好かれていないようでね……。とにかく家に入りなさい。タオルとか貸してあげるから」

「私は……」

「ん? どうした?」


 先輩の瞳を真っ直ぐ見つめて、言葉を続ける。さっきまで降っていた雨はやんでいた。


「……私は嫌いなものが三つあって、それは――コーヒーと雨と先輩です」

「……えらい突然じゃないか」 

「いつもいつも訳の分からない話ばっかりするし、頭が良いのに教えるのは下手くそだし、飲めないって言ってるのに無理矢理コーヒー飲ませてくるし」

「うん、そうだな」

「ちょっと強くあたると何故か嬉しそうで気持ち悪いし、それに……。それに急にいなくなったりするし…」

「……うん」

「だから……だから……えっと……」


 言葉が詰まって出てこない。一番伝えたいはずの思いを上手く表現する事が出来なかった。しかしそれではここに来た意味はない。深く息を吸って頭の中を整理する。そして――力強くその言葉を吐き出した。


「――憧れでした。自分に正直で、バカみたいにきらきらしてて、優しくて……。そんな先輩に憧れてました」


 それを聞いた先輩は優しく私を抱きしめてくれた。


「……君からそんな言葉を聞けるとは思わなかったよ。……君はあまり自分の感情を出さないからね。でも、こうやってちゃんと思いを伝えてくれる人で良かった。これで心おきなく日本を起てるよ。」

「うぅっ……。ひぐぅっ……。うわぁぁぁん!」

「……ありがとう。心の底から感謝するよ」


 暖かい腕の中で、年甲斐もなく泣きじゃくる。たぶん、こんな事をわざわざ伝えたからって何かかが変わる訳じゃないし、劇的な展開が起きるわけでもない。それでもきっと、今夜ぐっすりと寝れる程度には気分は晴れるかもしれない。


 雲の間から夕日がもれて私達を照らす。足下にはさきほど逃げてしまった猫がちょこんと座っていて、何かを祝福するように嬉しそうに鳴いていた。

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