最終話

「う、うぅ……」


 目を開くと、そこはいつかの放課後の教室だった。窓から差し込む夕日の光も、遠くから風に乗って聞こえる虫の声も、すべてが変わらない。いつも、夢で見ている光景だ。今座っている机と椅子に付いている傷や汚れも寸分違わず。


「あぁ、いつも見ている夢か」

「さあ、それはどうかな」


 声のする方を向くと、そこには見慣れた、しかしいつもの夢においては見慣れない人物の顔があった。 


「……真?」

「久しぶりだな、良平。どうだ?久々に」


 目の前にいた真が手にしていたのは、俺達がよく放課後に二人で遊んでいたチェス盤だった。

 真の顔を見て、すぐに教室の窓ガラスに映る自分の顔を確認した。ガラスの向こうに映っていたのは、正真正銘本物の柚木良平の姿だった。

 真はこちらの返事など聞こうともせず、手際よく俺の座る机の反対側に座り、盤の上に駒を並べ始める。


「まさか、こんなところで会うとは思わなかったよ」

「ここはどこなんだ?というか真、なんでお前がいるんだ?お前はあの日———」

「あぁ、あの日俺は死んだよ。お前の、柚木良平の身体と一緒に」


 チェスの駒を並び終えた真は、自陣のポーンを前にニマス前進させた。


「ここは、この世とあの世の中間。中途半端に死んだ人の精神が行き着く場所だ」

「?俺は死んだってことか?」


 こちらもポーンをニマス進める。


「中途半端にな。現実にいるお前の———いや、正確には俺の身体になるのか。とにかく今現実のお前の身体は意識不明の状態にでもなってるんだろうな」

「あぁ、そうか。思い出した。俺、琴葉を助けようとして道路に飛び出したんだ」

「そうだな。良平のおかげで妹は無事みたいだ。ありがとう」

「別にいいよ。というか」


 目の前に本物の真がいる。真に言いたいことが、沢山あったはずなのに。


「ん?どうした?」

「いや、お前にいろいろ文句言いたいこと沢山あったんだけどさ。なんでだろ。こうして面と向かうと全然言葉が浮かんでこない」

「それは単にお前が今の状況を理解できていないからだと思うよ。でも、まぁ———そうだよな」


 こちらのビショップの駒を取り、代わりにポーンの駒を置くと、真は神妙な面持ちで俺を見た。


「すまなかった。お前に、俺の人生を押し付けることになってしまって」

「気にすんな……とは言えないな、さすがの俺も。お前として生きるの、大変なことが多すぎた」

「あぁ、自分も経験していたことだから想像はつくよ。だから、今から俺が言うことは、あくまで俺個人の希望だ」

「ん?」


 真のルークの駒を取り、代わりに自分のナイトの駒を置いた。多分、次の手で向こうのクイーンにこのナイトは取られる。


「お前には、“一ノ瀬真”としてではなく、お前として生きてほしい」

「それができれば———」


 とっくにそうしている。いくら俺がそう願っても、世間は俺のことを一生“一ノ瀬真”として認識し続けるんだから。完璧で公明正大で清廉潔白だったあの一ノ瀬真として。


「あぁ、お前の言い分も分かる。俺もそうだった。名家に生まれ、幼い頃から両親に期待をかけられ、それに応えれば応えるほど周囲の注目を集めてしまう。周りの目や言葉が鎖みたいに自分を縛りつける。いつだったか、『二人の囚人』の詩を教えたの覚えてるか?」

「あぁ」

「俺は、与えられた境遇と役割に縛られていた。ずっと、泥を見ることしかできなかったんだ」

「……」

「だから、お前には星を見てほしい。今のお前の身体は確かに一ノ瀬真のものかもしれない。お前がいるのは柚木の家ではなくて一ノ瀬の家かもしれない。周りの奴らはこの先ずっとお前のことを“一ノ瀬真”として見続けるのかもしれない。でも、お前がお前であることはこれから先も変わらない」


 予想通り、俺のナイトは真のクイーンに取られた。


「お前は、お前らしく生きていいんだよ。良平」

「———それ、俺に言ってるようには聞こえないぜ?」

「……仕方ないだろ。もう、琴葉には俺の声は届かないんだから」

「やっぱり、俺がお前になりきるのは無理だったらしいな。お前ならあの子になんて答えるのか考えて言ったつもりだったけど、ものの見事に不正解だったし」

「当たり前だ。身体が入れ替わったとしても、俺はお前じゃないし、お前は俺じゃないだろう?」

「だな。どうも、俺はずっと無駄な努力をしてたみたいだ」

「無駄かどうかは分からないけどな。でも、お前が俺のいなくなった後を埋めようとしてくれたのは嬉しかったよ」

「そうか、お前にそう言ってもらえただけで報われた気がするよ———ほい、次どうぞ」


 ポーンの駒を敵陣に進め、次の一手でキングの駒を捉えるところまで来た。まぁ、どうせ逃げられるか事前に備えられるのがオチだろうけど。

 そう思っていたが、真は意味不明な手を使った。


「ん、何やってるんだ真?なんでルークとキングの駒を一度に入れ替えた?イカサマか?」

「イカサマじゃないよ。これは“キャスリング”だ」

「キャスリング?」

「キングとルークの駒の位置を入れ替える移動のこと」

「へぇ、そんなのあるんだ。物知りだな真は」

「そんなことより、これでチェックメイト」

「げっ」


 見れば、確かに自陣のキングは今しがたキャスリングで位置が変わったルークと、先程こちらのナイトを取ったクイーンの移動可能範囲に追い込まれていた。

 降参、と言って俺は両手を上げる。


「やれやれ、また負けたか」

「これで、俺の五十一戦五十一勝ゼロ敗だな」

「死んでも腕が鈍ってないのは流石だ」

「皮肉は上手くなったんだな、良平」

「ひでぇ」

 

 そして、どちらからともなく俺達は笑う。今この瞬間だけは、あの頃と何も変わらない穏やかな時間がそこにあった。でも、この時間は永遠には続かない。そのことを、俺も真も心のどこかで分かっていたと思う。

 終わりの時は、意外とすぐにやってきた。


『お兄ちゃん、目を開けてよ!』


 どこからか響く琴葉の声。教室の入り口にも窓の外にも琴葉の姿はない。となれば、“向こう”から呼ばれているんだろう。

 どうやら琴葉の呼ぶ声は真にも聞こえたらしい。


「———やれやれ。そろそろ帰る時間みたいだな」

「あぁ、そうらしいね」


 俺は椅子から立ち上がり、教室の出口に向かって歩いていく。でも、やっぱり少し名残惜しい。せっかく真に会えたのに、今を逃すと言いたいことが死ぬまで言えなくなってしまうかも。

 でも、何を言う?

 恨み言?

 いや、違う。

 

「なぁ、真」

「ん?」


 ———言うべきは。


「ありがとう」

「……こっちの台詞」

「じゃあ、行ってくるわ」

「あぁ。琴葉のこと、よろしく頼む」


 返事の代わりに笑顔を浮かべ、俺は教室の扉を開いた。


***


「……行ったか」


 ———何が“ありがとう”だ。

 ———礼を言うのは俺の方だろ。

 ———お前には、恨まれても仕方ないのに。

 ———本当に、ごめん。

 ———……ありがとうな、良平。


 一人しかいなくなった茜色の教室に、一筋の涙が零れ落ちた。


***


「……?」

「お兄、ちゃん……?よかった、目が覚めたの?」


 最初に目を覚ました時、自分を出迎えたのは見慣れない部屋の天井の白と、その色をバックにこちらを覗き込むように見つめる琴葉の顔だった。


「琴葉……?俺、どうしたんだっけ………?」

「お兄ちゃん、私を庇って車に撥ねられたんだよ。ごめんね、私の、私のせ、いでっ……、本当にごめんなさい……!」


 琴葉は大粒の涙を零しながら顔を伏せ、何度も何度も謝罪の言葉を口にする。

 彼女に言われて思い出した。そうだ、俺は車に撥ねられそうになったこの子を突き飛ばしたんだ。それで———。


「なぁ、琴葉」

「え……?」

「ごめんな。琴葉を傷つけるようなこと言って」

「ううん、ううん。そんなのいいよ。お兄ちゃんがいてくれたら、私それだけで———」

「琴葉」


 “あいつ”からの伝言、ちゃんと伝えないとな。もう一度眠ったら忘れちまいそうだ。


「今度、二人でお父さんとお母さんのところに行こう。琴葉の進路のこと、四人でちゃんと話し合おう。大丈夫、“お兄ちゃん”はお前の味方だ」

「え……?」

「俺は琴葉じゃないし、琴葉は俺じゃない。俺の人生は俺のもので、琴葉の人生は琴葉のものだ。俺は俺の思う通りに生きる。だから、琴葉も琴葉のやりたいように生きていいんだよ。お前が正しいと思って選んだ道なら、それがお前にとっての正解だ」

「お兄ちゃん………」


 琴葉はいっそう顔をクシャクシャにして寝ている自分の胸元に顔を埋め、大きな声で泣いた。騒ぎを聞きつけた病院の医者や看護師が何事かと部屋にやってくる。

 医師がいろいろとこちらに声をかけてくるが、なんだかまた眠くなってきた。


 ———これで、いいんだよな。真。

 ———この先どこまでやれるか分からないけど、俺も琴葉も、やりたいようにやってみる。

 ———だから、そこから見ててくれよな……。


 眠りに落ちる前に見えたものは、病室の窓の外に広がる夜の空。

 そこには雲一つなく、冬の夜に瞬く満天の星があった。

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二人の囚人 棗颯介 @rainaon

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