第44話 時と世界を繋ぐもの


 ハスミュラとキシネリコが見守る中、エマトールはシキミの枝を時の泉に浸した。元どおりの水量に戻った泉の水が、白い光を放つ。

 二人に向かって頷くと、エマトールは静かに泉の中へ入り、中央へ向かって踏み出した。光が全身を包み、エマトールの姿は消えた。




 目を開けると、そこは崖の上に突出した足場だった。と、エマトールは平衡感覚を失ってよろけ、地面に膝をついた。その勢いで、フードがバサッと頭を覆った。


 膝をついてしまった理由は歴然としている。この場所は、天地が逆転しているのだ。上を見上げれば岩肌から木々が逆さに生え、遠く下を見れば空が広がり雲が沈んでいた。


 四つん這いになったエマトールの視界、広く平らな足場の先端に、巨木の根元が見えた。天から逆さに生える木々とは逆に、この足場から上に向かって伸びている。



─── よく参った、新たなシキミよ ───


 エマトールが目を上げると、固く乾いた地面から生えた巨木に絡めとられているようなモノが在った。それと一瞬目が合ったが、そのあまりの神々しさに反射的に目を伏せ、こうべを垂れる。

 それはところどころ巨木と一体化した姿で、真っ白な長い髪を風になびかせ、青みがかった白い肌に銀色の双眸を持つ、明らかに人ではない何か。その背中には透き通った大きな翼が揺れている。



─── 恐れることはない。顔を上げなさい ───


 エマトールは再び顔を上げた。片手と片膝をつき、畏まってそのモノを見上げる。強い風がさっと吹き、エマトールの黒髪とそのモノの白髪を揺らした。緋い眼と銀色の眼が見つめ合う。

 周囲が目に入ると上下の感覚が狂い転倒しそうになるため、エマトールはその銀の双眸に集中した。


 見下ろす銀色の眼がわずかに細められ、美しい唇がかすかな弧を形作る。それは小さなそよ風にもさらわれてしまいそうな、儚げな微笑みだった。


─── あちらとこちら、そして、黄泉。世界は時を軸として、縄なう様に紡がれる。老いた時の守神もりがみ時間ときの重さに耐えかねて、いつしか狭間へ滑り堕つ。そのまま命を終えたなら、全ての世界は時を止める……それを食い止め、時間と世界を進めるのがシキミの使命 ───


 打たれたような衝撃が胸の中に走った。シキミの本当の役割とは、人の死の時を告げることではなかったのだ。


─── 人の死がわかる力は、その副産物のようなもの ───


 まるでエマトールの心の中を読んだかのように、それは優しく語りかけた。



─── 遠い遠い昔、マガリコを喪った少年が居た。少年は嘆き、運命を恨み、他人を呪った。人に宿りし悪を食べるハナサキは、彼の放ち続ける膨大な「悪」の感情を喰らい、その重みに耐えきれず時の狭間に落ちたのです。私は彼に、使命を負わせた。老いたハナサキをそのくびきから解き放ち、新たな身体を与えること……シキミは、そうして生まれました ————


「じゃあ、ヒタキが死んだのは、ハナサキが人の悪をたくさん食べたからなのですか? シキミが必要になったから、ヒタキは死んだの? どうしてヒタキじゃなきゃならなかったのですか?」


——— 人から悪は無くせない。悪が蔓延れば争いが起きる。だからハナサキがそれを喰らい、ハナサキが堕ちればマガリコが死ぬ。それがこの世界の道理となった………どうしてヒタキだったのか。それは、わからない。ただ、結果としてそなたは、時を繋ぐという試練を果たしてくれました。他の者では果たせなかったかもしれない ───


 エマトールは唇を噛んだ。そして思った。悪が蔓延り、争いに満ちたこの世界を。そんなのはごめんだ。だからハナサキは……必要な存在。それが道理。

 花が萎れるように死んでしまった、可哀想なヒタキ。ヒタキを喪った自分の身も憐れんだ。

 でも、この悲しみを味わったのが、もしハスミュラだったら。そう考えると、マガリコを喪ったのが自分で良かった……



——— シキミという職を、まだ嫌っている? ———


 エマトールは首を振った。以前は確かにそうだった。怪物のような緋い眼も、不吉な能力も嫌で堪らなかった。でも今は、違う。


「人の死がわかるというのは、正直、とても恐ろしい。それが親しいものであれば、なおさらです。でも普通、人はいつ死ぬかわからないという恐怖とともに生きています。どちらが不幸なのか幸せなことなのか、僕にはわからない。でももし、死ぬ時期がわかれば、その準備を整えることは、できます。悲しみを少しでも……減らせる、かもしれない」


─── それを厭うものがいても? ───


「大切な人たちが僕を思ってくれる。向こうの世界にも仲間が出来た。それで充分。それに、シキミを嫌おうが嫌うまいが、生き物はその時が来れば否応なく死にます」


 フッ、と空気が和らいだ。そのモノが、力の抜けた笑みを漏らしたのだ。


─── 今度のシキミは逞しい。その職に、誇りをお持ちなさい。そなたにしかできない、尊い仕事です ───



 柔らかく爽やかな風が吹いた。

 薄い翼を広げ、気持ちよさそうに風に揺らしながら、それは空を見上げる。トンボの透き通った羽が重なり合ったみたいな薄い翼に、風が吹き抜けてゆくのを愉しむように。

 遥か上空にぶら下がる、山々や集落、遠くの大きな街をゆったりと眺めている。

 風が止むと、それはエマトールに視線を戻した。


─── 年若く頼もしい新たなシキミよ、こちらへ。もっと、近くへ ───


 エマトールは立ち上がり、洞窟の出口を離れて崖の突端へ歩を進めた。険しく切り立った崖の途中、突出した岩の先端に立つそれの足元に跪く。


「これをお取りなさい」そう言って差し伸べた手のなかに、白く丸い石があった。亡くなったエマトールの相棒、ヒタキの一部だ。


「無くしてしまったと思っていたのに」


 驚くエマトールに、静かに語りかける。


─── そう。あの、黄泉渡りの川の中に、それは落ちたのです。他のマガリコ達の石とともに、この世界を形作るものの一部になったのです。でも、それはもう少し後でもいいでしょう。今はあなたが持っていなさい。あなた方が時を繋いでくれた、ご褒美として ───


 エマトールは白い石を両手で握りしめ、頭を下げた。


「ありがとうございます。大切にします」


─── ……そろそろお行きなさい ───


 エマトールは白い石を握りしめ、立ち上がった。だが、なんとなく立ち去り難く、その美しく尊いモノに背を向けることができない。もう二度と会えないことが、なんとなくわかったからだ。


「あの、こんなところに独りで、寂しくはないのですか?」


 ふいに口をついた言葉に、そのモノは儚げに微笑んだ。白い髪に透き通るような白い肌。銀色の瞳の奥に浮かぶのは、遠い星の瞬きのような、微かな揺らぎ。



─── それを聞いて、どうするのです? ───


 エマトールは己の発した言葉を恥じ、再び頭を垂れる。聞いたところで、自分にはどうしようもないことだった。


「……ごめんなさい。馬鹿な質問でした」


─── 良いのです、優しき人の仔よ。もう随分永いこと、わたくしはここに居ます。自分でそうあることを選んだのです。何度も時が尽きかけるのを目にし、それが繋がれるのを見守ってきました。わたくしには世界の全ての物事が視えるし聞こえる。だから寂しくはありません。それに……たまにはこうして遊びに来てくれるものもいる ───


 それは深く微笑んだ。神々しくはあるものの、まるで久々に会う親戚の子供に微笑みかけるみたいな、慈悲深くも親密な微笑み。


─── ただ、ときどき、またあの笛を吹いてくれると嬉しい。ここからでもよく聞こえるから、気が向いたときにでも ───


 すっかり嬉しくなって、エマトールは大きく頷いた。

「はい。必ず」



「最後に、もう一つ、聞いてもいいですか?」


 顔を上げたエマトールに、それは寛容に微笑み頷いた。


「あなたは、《 神 》ですか?」


─── ……さあ、どうでしょうね。わたくしに、名前はありません。ただ、天と地を、全ての世界を繋ぐ、かなめのようなもの ───


 エマトールは、その銀色の目をしっかりと見つめ、頷いた。正体を詮索しても意味がない。ただそこに、その尊い存在は在り続ける。そして世界を見守ってくれているのだ。


「石を、ありがとうございました」

 深く一礼したのち、エマトールはそれに背中を向けた。ゆっくりと歩を進め、洞窟に踏み入った。



─── 幸せに生きなさい。新たなシキミ、エマトール ───


 背中越しに響いてきた声に振り向くと、外の景色は変わっていた。再び洞窟の外へ出てみれば、そこはいつもの山の中。シキミの木がアーチを作る、馴染み深い洞窟の入り口だった。




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