第32話

「私が学校で好きな瞬間は、部活が始まるときとその終わったとき。今やっと起きたみたいにみんな着替えて、鳥籠の扉が開いたみたいに騒ぎだすの。そして一日が終わるみたいにみんな喋り倒して帰っていく。……実際、そんなことはないかもしれないけれど、私にはそんな感じがするの。勉強が嫌いな訳ではないし、部活がつまらない人もいる。でもずっと机にしがみつくと、ふと風による窓の軋みや雲の流れ、どこからともなく聞こえる自然と生活の音、それらへの興味を押し固めたものが最後のチャイムで弾ける感じ。……それが好きなの」


 秋さんの話は何だか的外れなように聞こえた。僕が知りたいのは、その好きな瞬間に、彼女が誰とどう過ごしたかだった。知りたい? いや、実のところ知りたくはないのだろう。もう殆ど彼女のことについては僕の中で答え合わせが済んでいる。

 もし和明がくだらない嘘をついてないとしたら(勿論、その可能性は考えたけれど、その曖昧な希望にかけるほど僕は信心深くない)、彼女は和明と付き合っていた。それがどうして僕といまこうして家出旅行をしているかはわからない。でも、どうでもいいことだ。

 僕は和明に劣っている。何だかそういう気がまたぶり返してくる。あれほど振り切ったと思ったのに。父の鋭い人を裁く目が説得力を増していく。僕は振り切ったんじゃなくて、忘れていただけなんじゃないか。


「……ねえ、ひとつ聞いていい?」と僕は訊ねた。


「なに?」と秋さんは声だけ返す。まだ夢に浸かってるみたいに、瞳は僕を見てくれない。


「……なんで、僕を誘ったの」


「なんでって、貴方しかいないと思ったの。川にひとりで入っていく貴方を見て、理屈はないけれどそう直感が言ったの。家出をするならこの人って」


「本当に?」


「本当にって、本当もなにも……」


 秋さんはようやく振り返り、少し考える表情をした。そして途端にハッとした。


「ごめんなさい、私、気づかなかった……」


 彼女はそう言って教室を出た。僕は一度も通ったことのない教室に放られた。

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