第30話 シャリア・グランベルグ

 ディールは入り口から、恐る恐る講義室の中を覗く。木製の机がいくつも並んでおり、すでに何人か座っている。ディールは目立たないよう、こっそりと講義室へと入って行った。

 ここは広さも含め、初参入者ニオファイトが集まる講義室と同じ造りをしている。いつもの習慣から、ディールは普段彼が座っているのと同じ位置にある席へ着いた。


「あら、貴方は」


 背後から聞こえた少女の声にディールは大きく体を震わせた。机に置こうとした写書板を落としてしまう。


「驚かせてしまったみたいね。ごめんなさい」


 聞き慣れない、だが聞き覚えのある声にディールは思わず振り向いた。

 自分を見つめる青い瞳。立っていたのは栗毛の髪を後ろで結い上げた少女だった。


「えっと……シャリア様?」


 恐る恐るといった様子でディールは彼女の名前を呼んだ。


「ええそうよ。貴方は確か……ディール・シュタットだったわね」

「はい」


 答えてから、ディールは視線をシャリアの背後へと向けた。彼女以外の姿はない。


「へゼル様ならこの講義はとってないわ。あの方は古代語の読み書きはおできになるから。それに……貴方は何か勘違いしてそうだけど、わたしだっていつもへゼル様と一緒にいるわけではないのよ」


 視線の意味に気づいたシャリアが言う。顔には、淡いがそれでも笑みと分かる表情を浮かべている。

 その様子にディールは少し驚いていた。柔らかい口調と表情。シャリアと会ったのは登校初日に二度だけ。それも直接話したわけではない。だが、その時に感じた印象と今の彼女はあまりにも違っていた。


「どうしたの?」


 呆けたように黙ってしまったディールを不思議そうにシャリアが見ている。ディールは我に返ると慌てたように口を開いた。


「い、いえ。シャリア様にお会いするとは思っていなかったもので……」

「どちらかと言うと、珍しいのは貴方の方ね」


 対するシャリアはどこか呆れたふうだ。


「僕……ですか?」

「ええ。魔術師が古代語を学ぼうというだけでも珍しいのに、貴方は初参入者ニオファイトでしょ? 学ぶにしても普通はある程度、魔術を修めてからよ」

「えっと……古代語に興味があったので」


 興味を持った理由を聞かれはしないか。ドキドキしながらディールは答える。古代語を学ぼうと思ったのは魔法の知識を深めるためだ。だがそれをシャリアに言うことはできない。


「そう」


 しかしシャリアがそれ以上訊ねることはなかった。ひと言で言葉を返すとディールの横の席へと座る。


「え?」

「何? 今度はどうしたの?」

「あ、いえ……」


 まさか自分の横に座るとは思っていなかったディールは、驚きを誤魔化すように落とした写書板を拾った。それから横目でシャリアを見る。

 シャリアはディールを気にしたふうもなく、机に写書板をおいて筆記具の尖筆スライタスを出していた。


「…………」

「…………」


 互いに何も喋らない。シャリアの方は自然な感じで、まだ講師のいない教壇の方を見ている。


「えっと……シャリア様はなぜ古代語を?」


 沈黙に耐えられなくなったディールが、思わずシャリアに話しかけてしまう。


「……聖典には古代語で書かれたものもがあるからよ」

「聖典……ですか?」


 シャリアはディールの方を向くと、当たり前のことを話すように答える。だがディールは戸惑いながら問い返した。

 通常は、魔術書のことを聖典とは言わない。なにより古代語で書かれた魔術書は発見されていない。そして聖典と呼ぶものがあるとすれば、それはジルラディア大陸で信奉される神々についての書物などだ。だが、魔術学院では神学の講義は行われていない。


「グランベルグは元々神官の家系だからおかしなことはないでしょ? 皆、モルデカイの敬虔な信徒なの」


 シャリアはジルラディア大陸で信奉されている六柱の神のうちの一つ、戦の神モルデカイの名をあげた。モルデカイは武力による戦いのみならず、論戦などを含むすべての争いを司るとされている。また火を司るともされ、鍛冶の神として信仰する者たちもいる。


「まさか……知らないの?」

「えっと……すみません」

「ディール・シュタット」シャリアの表情がきつくなる。「あなたの実家はシュタット商会なのでしょ? 取引相手には貴族も多いと聞くわ。なら、リィスバルでも有力視される家系の特徴くらいは覚えておきなさい」


 シャリアの台詞は自分の家を有力貴族と言っているようのなものだが、彼女自身に自慢している様子はない。実際、グランベルグはリィスバル王国の中でも影響力の大きい貴族の一つだ。


「でないと商会を継ぐ時に困るわよ」

「商会の方は……兄が継ぐはずです。僕は他にやりたいことがありますし……」

「あら。貴方は嫡男ではないのね。では本気で魔術師メイジになる為に魔術学院に?」

とうさ……ちちには反対されましたが」


 自分が目指すのは〝魔術師〟ではなく〝魔導師ソーサラー〟だ。しかしそれをシャリアに言うことはできない。魔法について話さなければならなくなるからだ。だから否定も肯定も、はっきりとは口にしない。


「……そう」


 ディールの言葉にシャリアは一瞬、不意を突かれたような表情を見せた。それから何か言いかけるように口を開く。だが言葉を継ぐことはなかった。彼女の可愛らしい唇が閉じられる。


「シャリア様?」


 ディールは不思議そうにシャリアを見る。


「何でもないわ」


 まるでその言葉が合図だったかのように、講義室に講師が入って来た。白いローブに身を包んだ初老の男性だ。歳はウォールロックと同じくらいだろうか。

 二人の会話はそこで途切れた。


        ☆


 魔術学院の門を出ると、短い橋が掛かっている。シャリアは橋の先に停まっている馬車へと歩みを進めた。馬車にはグランベルグの紋章が描かれている。

 シャリアの姿を見つけると、御者が降り立ち扉を開けた。彼女は軽く頷いて乗り込む。

 扉が閉められて、馬車はゆっくりと走り出した。


 魔術学院の敷地内まで馬車で乗り込むことは可能だが、彼女はいつも手前の橋で降りる。帰るときも同じく、橋の前に馬車を待たせている。それは魔術学院に通い始めてからの習慣だった。同じく馬車で通学してくるへゼルを待つためだ。

 へゼルも馬車でやってくるが、学院内まで乗り込むことはしない。乗って来る馬車も、立派ではあるが紋章が描かれていない質素な馬車だ。


 朝はシャリアが先に来て馬車を降りて待つ。帰りはへゼルが馬車に乗り込むのを見送ってから帰る。それが日課だった。

 だがここ数日、へゼルは魔術学院に来ていない。公爵家としての仕事に駆り出されているのだ。来年には魔術学院を卒業してしまうことを見越して、お披露目を兼ねてへゼルに経験を積ませているようだった。


 シャリアの乗った馬車は区画の区切りである川をいくつも渡り、王都にあるグランベルグ家の別邸へと入って行った。

 館の前の馬車回しには、すでに馬車が一台停まっていた。車体に描かれているのは戦の神モルデカイの紋章だ。車体は質素な造りをしており、質実剛健といった雰囲気を漂わせている。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


 馬車から降りたシャリアを、中年の男性が頭を下げて迎える。後ろに撫でつけられた茶色い髪に黒いスーツ姿。別邸での家務を取り仕切る、執事のパーヴァスだ。


「誰か来ているの?」


 先に停車場へと走り去る馬車を見ながらシャリアが言う。


「シャレド様がお越しになっております」

「お兄様が?」


 言いながらシャリアは屋敷の中へと入って行く。その後ろを、パーヴァスが続く。


「お兄様はどういった用件でおいでになったのか言っていた?」

「いえ。まだ、何も」

「……そう」


 シャリアは五つ年上の兄の顔を思い浮かべていた。彼女と同じ茶色の髪に青い瞳。年齢はまだ二十代前半だが、実年齢以上に落ち着いた雰囲気を持つ青年だ。


「お兄様はお部屋に? ご挨拶に伺うわ」

「はい。祭服を着ておられましたので着替えをなさると」


 グランベルグは元々神官の家系であり、貴族となり領地を治めるようになった今でも神官位を持つ者が多い。若い頃は神殿に預けられ、神官としての修行を行う。そして嫡子以外はそのまま聖職者として領地を出る。

 シャリアは屋敷の二階に進むと、一番奥の扉の前で立ち止まった。


「お兄様。シャリアです」

「入りなさい」


 低いが、よく通る声が扉の向こうから聞こえた。シャリアはゆっくりと扉を開けて中へと入る。

 部屋の中には青年――シャレドと、それを取り巻くように侍女が三人立っていた。

 シャレドは紺色のウェストコートにブリーチズ履いており、後ろに立つ侍女がコートを着せているところだった。

 残りの侍女二人はシャレドが着ていたであろう祭服を手に持っている。


「パーヴァス。私は三日ほど王都に滞在します。その後はトランバル領へ。同行の者たちは神殿の方へ滞在していますから。残りの旅に必要な物を届けておいてください」


 シャレドはシャリアの後ろにいる執事に向かって言う。 どうやら彼は旅の途中で王都に立ち寄ったようだった。


「承知いたしました。すぐに手配いたします」


 一礼してパーヴァスは去って行く。それに合わせるように侍女たちも去っていった。部屋にはシャリアとシャレドの二人きりになる。


「ご無沙汰しております、お兄様」

「息災なようでなによりです」


 シャレドは柔らかい笑みを浮かべてシャリアを見る。


「お兄様もお元気そうで」シャリアも自然な笑みを返した。「神殿のお仕事ですか?」

「ええ。見届け人として呼ばれました。領地を廻る諍いですが、少々事が大きくなりすぎたようで。互いに騎士を出しての一騎打ちで話をつけることになったようです」


 モルデカイの教義の中には、争いは常に公平な条件の下行われなければならないというものがある。その為、モルデカイの神官は行われる争い事が公平なものであると保証するために、見届け人として呼ばれることが多い。


「相変わらずお忙しいのですね。お父様はそろそろ領地に戻って来て欲しいとお思いでしょうに」

「私はまだまだ修行の身です。今しばらくはモルデカイの使徒として奔走の日々ですね」


 そう言ってシャレドは悪戯っぽい笑顔を浮かべてみせた。年相応の若者としての表情が現れる。


「それよりもシャリアはどうなのですか? 三年で魔術学院は卒業するつもりですか?」

「はい。へゼル様も三年で卒業されるようですし……これ以上通わせては貰えないでしょう」


 シャリアの表情が曇った。そんな彼女を見てシャレドの眉間に皺が寄った。だがすぐにそれも消え、穏やかな表情を浮かべて口を開く。


「お父様ならこう訊くでしょうね。『へゼル様のお眼鏡に叶いそうか?』と」


 グランベルグの現当主であるレスター・グランベルグは、魔術を軽んじていた。神官位を持ち、神聖祈祷により神の奇蹟を借り受けることのできるレスターには、魔術は児戯に思えたからだ。だから自分の娘に魔術の才があってもまったく関心を示さなかった。

 しかしレスターはある日、魔術の家庭教師をシャリアにつけてくれた。そして魔術学院にまで通わせてくれた。


「分かりません。なるべくあの方の側にいて、わたしなりにお役に立てるようにしているつもりですが……あの方は聡明ですから、お父様の狙いは見抜いておられるでしょうし」


 父親の心変わりの理由は理解している。へゼルの正妻候補となるべく、送り出されたのだ。


「お前の兄としては、お父様のやり方には賛同しかねますが……貴族としてグランベルグの事を考えるなら、仕方のないことなのかもしれませんね」


 兄の言葉にシャリアは俯いた。それから声を絞り出すように言う。


「グランベルグ家の者として政略の道具となることは承知しています。お兄様のように加護を持たないわたしに価値があるとしたら、魔術の才を利用してへゼル様に近づくことでしょうから」


 加護とは神が与える守りであり、繋がりだ。神官であればそれは大きな拠り所となる。

 シャレドは妹の側へとやって来る。そして俯いている彼女の頭に手を置いた。


「お前が真剣に魔術を学んでいたことを私は知っています。小さい頃は魔術師になりたがっていたことも」言いながらシャレドは妹の頭を優しく撫でる。「お前はお前の思う人生を歩みなさい。私はいつでもお前の味方だよ、シャリア」


 シャレドに頭を撫でられながら、シャリアは幼子のように頷いてみせた。

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ロスト・ソーサリー ~ 魔術の基本である魔力の扱いしか教えて貰えないまま破門されてしまった魔術師の弟子。意志を持つ魔導書に師事したことでやがて失われた魔法を使う魔導師となる ~ 宮杜 有天 @kutou10

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