第32話

三十三、

 宮城きゅうじょうの、太極宮おもてごてん脇の柱廊を塞いで立ったサラとラムルを、赤獅子候ヨン・ベルデラントが傲然ごうぜんと見返したのは、翌日の下午ひるすぎのことである。西の園林ていえんに降り注ぐ陽光が、廊下に円柱の影を投げかけて縞模様を描いている。

「閣下、カリムは一命を取りとめましたぞ」

 ラムルが静かに言い放った。

 赤獅子候は凝然ぎょうぜんと佇立してたままだ。サラはいつでも対応出来るように、そろり、と腰に手をやった。

 昨日、サラたちは瀕死のカリムを担いで、アシド家の医師リユンの元へ走った。傷口こそ肩のみであるが、出血が激しく老齢のカリムの心臓がもつか不安だった。当主の無惨な姿に一時は呆然としたリユンであったが、医師の本分を取り戻すと、夜を徹して不眠不休の治療に当たった。

 献身的な看護の甲斐もあって、払暁あけがたにカリムは意識を取りもどした。そして、家族の身の安全と引きかえに、すべてを自供することを約束した。なんとなれば、アクバはまだ野放しでありどんな累が及ぶか想像もつかなかった。カリムが庇護を求めたのもむべなるかなである。

 すぐさまラムルは、アルキン及びガスコンとつなぎをとった。そして何故か顔が広いアルキン叔父の伝手つてを辿って、カリムの証言が執政に伝わったのだった。

 そこからは秘密裏かつ大車輪で、物事が動いた。

 カリムの話に基づいて毒物などの証拠がアシド家から押収される一方、太守家への根回し、そして万が一の場合に備え、赤獅子候麾下きかの士族たちを制圧する手はずを整えたのだった。交渉は上手く行き、今日のジクロとジナの刑執行は取り止めになった。赤獅子侯に悟られないよう厳重に秘されているが、今ごろは解放されていることだろう。

 今や赤獅子候に対する包囲網は完成していた。実は園林ていえんは、合図ひとつで宮中警護の衛士たちが押し寄せることになっている。

 だが、サラには、その前に確かめなければならないことがあった。

「閣下。父上を殺したのは閣下であらせられまするかーー」

 赤獅子候は答えなかった。

「お答えいただこう。父は……」

「だとしたら、どうするというのかね」

 声にきょうがるような響きがあった。面憎つらにくいほどの落ち着きぶりである。

「斬ります」

 サラはゆっくりと鞘を払った。自分でも驚くほど落ち着いていた。頭は真冬の空気のように、きん、と冴えわたり、反対に体は熱くたぎっていた。

 横でラムルが、憂患うれいに沈んだ表情おももちでいることは知っていた。これはまったくの私闘であり、いわば不必要な修羅の巷でもある。しかしサラの決心はゆるがなかった。

 ラムルに眼を送ると、意外にも強く見返してきたが、その眼に懊悩は深い。サラが危ういとなれば、迷いなく衛士をつぎ込むつもりに思える。

 赤獅子候は無言のまま、自ら柱廊を出て園林ていえんに下りていった。サラもそれに続く。石畳の敷かれた広い舗道に着くと赤獅子侯は、無造作に剣を抜き、だらり、と手に下げた。

 サラは、疾風のように殺到して肩を打った。赤獅子はかわしざま腕を狙ってきた。体を捻って受けた。刃が打ち合わされ、ぎいん、と鈍い金属音が起こる。一見、無防備に見える赤獅子候の体勢は、その実、まったく隙がなかった。

(やはり父を討ちとったのはこの男に違いないーー)

 間合いを取りながらサラは、ひとりごちる。対手の喉元に切っ先を合わせる基本の構えである。赤獅子候は、やはり剣は下げたままだ。間違いなくこれまで出会った中で最強のーー父を除けばーー剣士だった。

(気迫で遅れをとってはいけないーー)

 自分に言いきかせる。こちらから勝負を仕掛けていかねばならないと思った。

 再び殺到し切り結ぶ。赤獅子侯は今度もまた、サラの斬り込みを外して反撃してきた。サラもそれを読んでいてかわし、胴を払う。が、これも外された。気づけば赤獅子侯はほとんど立ち位置を動いていない。

 手練れの剣士ほど、対手の剣を「見切る」ことが可能となる。彼我の間合いや剣の軌道を読んで、受けたりかわしたり出来るようになるのだ。どうやら赤獅子侯は、この「見切り」ーーそしてそこからの「返し技」ーーの名手のようであった。

 続く数合でサラは、己の目算が甘かったと思いしらされた。矢継ぎばやに繰りだした攻撃は、ことごとくかわされ、返され、反対にサラを翻弄し始めた。上衣が所々切り裂かれ、あかく染まる。

 僅かの隙をついて猛然と襲ってきた一撃を、サラは受けるだけで精一杯だった。迅速はやさと重さの乗った剛剣であり、こらえ切れず弾き飛ばされた。背が黒い庭石にしたたか叩きつけられ、痛みで目の前が白熱した。咄嗟に横薙ぎに剣を振るう。が、予想していた追撃はこなかった。代わりに嘲弄ちょうろうがサラを打ちえた。

「どうしたガイウスの娘! その程度か!」

 屈辱に身がかれた。焦って立ち上がろうとするが、脚に力が入らない。手の中の剣が途轍もなく重く感じられた。 

 それは恐怖がサラを打ちのめしているからだった。手の出しようのない対手の剣位けんいだった。赤獅子候に死角は見当たらず、なす術がなかった。

 視界の端でラムルが助けを呼ぶ。すぐに衛士がたち現れたが、赤獅子候のひと睨みで呪縛されたように動けなくなった。無理もない。少しでも間合いに入れば、たちまち切り捨てられるだろう。怯懦きょうだではなく、死を避ける生命の本能がそうさせるのだ。

(父上!)

 相打ちでいい、せめて一太刀なりとーー。サラは両足に力を込めて立ち上がると、萎える心を叱咤しったし構えを取った。

 赤獅子侯が低い声でわらう。

「ふむ、相打ちを狙うかーー。それともわしに勝つつもりか? どうやらそちにはまだ〈絶望〉が足りぬようだな」

 どういう意味であろう、と思案を廻らす間もなく、赤獅子侯がじりっ、と間合いをつめた。そして意外な挙動に出た。まるで歌い出すかのように、口を開けたのだった。

 その瞬間、ビリビリと空気を震わせて、見えない何かがサラ目掛けて放たれた。ふいに激烈な痛みが頭を襲った。そのあまりの鋭さに一瞬、耳がーーいや頭部が削り取られたのかと思った。反射的に、頭を庇って膝をついた。

「ガイウスの娘よーー。〈絶望〉とはこういうことを言うのだ」

 涙の滲んだ目を無理矢理こじ開ける。少し離れた場所の衛士たちですら、耳を押さえてうずくまっている。

 赤獅子侯が語り掛ける声はひずみ、ひどく聞き取りづらかった。サラの周りには今、いびつな音の膜がベットリと貼りついていた。ナリン砂漠の大砂嵐の只中ただなかに放り込まれたごとき風の唸りーーいや、数え切れないほどの悪霊どもが一斉に上げる苦鳴くめいのようであった。このときは判らなかったが、サラの鼓膜は破損していて、そのために耳鳴りに襲われていたのだった。耳孔じこうからしたたる血が、円領まるえりを濡らす。

「苦しませはせぬ。父のもとけーー」

 赤獅子侯が、近づきながら無造作に剣を振り上げ、振り下ろした。

 サラの反応は、狙いすましたものではなかった。常日頃の稽古で染み込んだ套路かたが、咄嗟に出ただけである。

 片膝をついた姿勢から、鞭のようにしならせた斬り上げを敵の右上体に飛ばした。このとき持ち手は柄頭ぎりぎりにあり、対手には刀身が長く伸びて映る。そこから高速の切り返しが、対手の右脚、さらに身体の左胴を襲うのだ。

 元より片膝立ちの姿勢での剣技わざは、ホーロン剣術では珍しい。廻国かいこく修行をしたラウド・アルサムならではである。ベルン修練場〈飛燕ひえん〉と言う。

 ガイウスがもたらした奇跡のように、サラには思えた。振るった斬撃は、赤獅子侯の左胴を深々と切り裂いていた。赤獅子侯はニヤリ、不可解な笑みを浮かべると、口腔の鮮血を吐き出した。剣を取り落とす。ほうがみるみる朱に染まる。どう、とその場に倒れ臥した。

「サラ!」

 ラムルが、駆け寄って来る。サラもまた立っていられないほどの疲労を感じ、虚脱感に見舞われた。すとんと腰を落とす。

 剣術には、対手に剣を「見切らせない」ための技術が幾つか存在する。構えの時点で刀身の長さを悟らせない〈隠剣おんけん〉や、〈縮地しゅくち〉など歩法で間合いを見誤らす技は、「距離を盗む」術と言える。目で追いづらい下段からの〈斬り上げ〉を使う手法もある。「東を打つと見せかけて西を打つ」〈虚剣きょけん〉もそうである。〈飛燕ひえん〉はこれらを複合させて組み立てられた技であった。

(父上ーー)

 ラムルに身を預けたサラの眼に、園林ていえんの緑が耀いて映る。その美しさと死闘の血腥ちなまぐさがひどく場違いだった。

 長い旅が終わったのだ、と思った。


「本当にお気をつけて行ってらっしゃいまし」

「大丈夫よ、何度も行っているところだもの。夕方には帰るわ」

 サラは笑って答えた。

「でも、お耳がまだ……」

「鼓膜はもう塞がったって、杏林おいしゃさまにも言われたから平気よ」

 それでもジナは心配そうな表情おももちのままであった。牢暮らしでやつれていた頬は元に戻りつつあったが、父の不在も相まって少し気が弱くなったように感じるのが痛ましかった。

 ジナの憂いとは裏腹に、空の高い、よく晴れた朝だった。

 ときは移ろい、ホーロンは羚羊れいようの月に入った。まだ暑い日が続いているが、空気に涼秋りょうしゅうが感じられる。

 赤獅子候の「自害」で幕が下りた陰謀劇から、一月が経とうとしていた。

 首謀者たる赤獅子候本人が亡くなっているためか、ベルデラント家の者や麾下の士族が不穏な動きをすることもなく、混乱は比較的少なかった。

 ベルデラント家は断絶には至らず、扶持ふちや財産を縮小して継続することとなった。異例の寛大な措置である。なまじ御家断絶などの沙汰で不平士族を作るのは得策でないという政治的な判断であった。王位は現太守アデルが引き続き守り、復帰した黒獅子候をはじめ四執政がこれを盛り立てることで落ち着いた。アガムも黒獅子候を輔弼ほひつするだろう。

 サラは赤獅子候との決闘を包み隠さず告白した。禁じられている私闘をしたのだ。処分はあまんじて受けるつもりだった。だが処分は下りず、それどころか一切お咎めなし、その代わりこのことは他言無用と言い含められた。サラにはわからない力学が働いて、つまりはそのほうが万事上手くいくということで決着がついたらしい。ガイウスの、そしてハーリムの濡れ衣が解け名誉が回復したのだから、それで良しとすべきなのかもしれない。

 釈然としない思いがある一方、そんなものかなとも思う。それよりも今のサラには、もうひとつの重大事で、頭が一杯なのだった。

「では、行こうか」

 ジクロが言う。ジクロもまた獄に繋がれたことで、かなり衰弱していた。しかしサラが、バソラ邨に赴いてリオ老にことの経緯いきさつを報告する。合わせてラウドの墓参をするというと、無理をしてでもついて行くと言い出したのだった。ジクロはバソラ邨のラウドのもとで療養していたことがあるので、感慨もひとしおなのだと思う。ジクロの快復と非番を待って、今日これから二人は発つ。

(いつかもう少し、体も心も落ち着いたら……)

 アルキン叔父さんやラムルも一緒に、旅に出たいとサラは思った。〈黒嶺〉は無理でもザイロン辺りで、マルガや、赦されて還ったボルに会いたい、ジクロにも会って貰いたい。そう願っていた。

 じゃあ行ってくるね、とサラは手をふって、歩き出した。

 二人は連れ立って、里坊の牌楼もんを抜けた。それは、かつてあった日常に限りなく近い光景だった。兄と歩く朝の景色。父がもういないなんて信じがたかった。

 城市まちを行く人々は、ホーロンがあわや引っくり返る事態に陥ろうとしていたことなど知りようもない。

「もう、ジナったら、いつまでも子ども扱いなんだから」

「ジナにとっちゃ、僕たちはいつまでも子どもなんだろうね。まあ、でも無理もないよ。あんなことがあったんだから」

 本当に自分が今、こうして生きていられるのが不思議なくらいだ。赤獅子候を討ち果たしたあと、ジナとジクロの顔を見たサラは、それまでの緊張が解けたのか、人目も憚らず号泣したのだった。それにーー。サラは人知れず顔を赤らめた。ジクロに強く強く抱きしめられた。その感触の残滓がまだ生々しい。

「……そうね。随分心配かけたものね」

「ジナは心配なだけじゃないよ。寂しいんじゃないかな」

「……」

「サラがもうすぐいなくなってしまうと思っているんだ」

 サラは思わず黙り込んだ。それが、もうひとつの重大事だった。サラの心を揺らす変化ーーそれはラムルが、麟台りんだいを辞めると言い出したことにかかわっていた。辞めたあとは金吾衛の捕吏とりかたになるのだという。その為、これまで縁のなかった剣術を習おうとベルン修練場にも通い出した。

 ジナがーー或いはジクロでさえもーーサラとラムルが一緒になってアルサム家を継ぐことを望んでいるように思えた。

 おこがましいことかもしれないが、そんなラムルを支えたい、という気持ちも心のどこかにないではなかった。今度の騒動で、ラムルの優しさや献身にどれほど救われたことか。不遜な言い方になるが、それですべてが「丸く収まる」のかもしれないとも思うのだった。

 だがそれは、己の心を裏切ることでもあった。

 ラムルとともに生きるか。

 ジクロへの叶わぬ想いを抱いて生きるか。

 己の心に素直になるというと聞こえはいいが、それはすなわち、ジクロを道連れに、破滅へ導くのにほかならないのではないか。サラの懊悩はいまだ深く、先に道がひらけるのかどうかも定かではない。

 そんなときに、一日とはいえ、ジクロと二人で旅を過ごすのだ。千々に乱れ、不安と期待とがないまぜになった心持ちで、サラは城門を目指したのだった。

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