第19話

二十一、

 眼が痛い、と朦朧とした意識でサラは思うのだった。房室へやの小さな明りとりから射す光芒が、眼を閉じていても瞼の上から刺すように眼球をさいなむ。

(いつまでこんなことが続くのだろう……)

 今日は朝からずっと硬い椅子に座らされっぱなしだった。

 「告白」した日に大立ち回りを演じたサラはその後、ブリル大湿原産の黒蓮散こくれんさんという鎮静薬を飲まされた。しかし効き目が強すぎたため、昏蒙こんもう状態におちいったのだった。寝藁に埋もれて二日が過ぎ、三日目の今朝になってようやく起き上がれたのだが、意識が瞭然はっきりしたと見るや、すぐに獄卒にこの房室へやへと連れ込まれた。

 今度は、シクマもアクバも誰も姿を見せない。はじめは苛立ち焦っていたが、今はただ消耗していくだけだった。さらには、誰でもいいから顔を出して欲しいとさえ願い始めていた。水すら与えられず、気力と体力が削られていくのがわかる。寝込んでいる間は食事もろくに摂っていなかったので腹が減っているはずだが、胸がむかついて何も喉を通りそうにない。これが形を変えた拷問だと気づくが、次第に何も考えられなくなってきた。

 薬の影響か、重い頭を抱えてサラは、無気力に懵然ぼんやりと前方の壁を眺めた。あの「告白」の原因について考えねばならない、と理解してはいるのだが、集中できないのだった。

 どれほどそうしていたのかーー。

 壁の向こうを移動するひそやかなあしおとが、耳に入った。あしおとは入り口の扉の前で止まった。

 しばらく間が空いた。

 やがて、そろりと扉が内側に開いた。

 アクバは、狭い隙間から体を滑りこませると、音を立てないように扉を閉めた。

「サラ殿!」

 低声こごえで声をかけると、真っ直ぐサラの元へ寄ってきて肩を抱いた。

「おかわいそうに。もう大丈夫です」

「大丈夫?」

 おうむ返しにきき返す。

「はい。わたしが話をつけてまいりました。さあ、お家に帰りましょう」

 アクバは体を支えるようにしてサラを立ち上がらせた。膝に力が入らない。足許がふらつく。思いがけない言葉に思考が追いつかない。

「さあ、こちらです」

 雲の上を歩くような足取りでサラは、廊下に出た。自分が足枷あしかせなしで外に出ているという事実が、まだ認識できていなかった。

「……ジクロや……ジナは?」

 辛うじてそれだけが言えた。下午ひるさがり御史台ぎょしだいの廊下は、暗いあなぐらの中のようだった。奥まったこの一郭に人の気配はなく、夜の底のように静まり返っている。

「お二人は、ひと足先にお帰りになられました」

 アクバが歩き出す。

「サラ様のお解き放ちにだけ手間どったもので。二人には無理をいって先に出てもらったのです。ああ、こっちです」

 サラが向かおうとしたのとは反対の方向を、アクバは指した。正面玄関とは逆に行くことになる。

「なにしろ、官方こうしきには皆様方はまだ罪人なのですから」

 廊下の曲がり角で、アクバはサラを制した。素早く左右に視線を走らせる。こちらです、と進んだ先は建物の裏手、東の端の通用門に面した小さな潜り戸だった。

 開け放たれた潜り戸から、明るい戸外そとが覗く。戸口は、そこだけ別世界が切り取られ、ぺたりと貼りつけられたみたいで、不自然に周囲から浮き上がって見えた。通用門までは、数歩の道のりだ。

「今日のところは、ひとまずお邸第やしきでお体をおやすめください。ただ残念ながら、これで無罪放免というわけには参りません。お邸第に帰るのは一時的な措置ということになっておりますので、後ほどまたお伺いに上がることになるでしょう」

 アクバの口調は淡々としていたが、端々はしばしに暖かみが感じられた。彼の尽力じんりょくによって自由の身になれたのだと実感した。サラは胸が一杯になった。

「お骨折りいただいて……何とお礼を申し上げたらよいか……」

 アクバはゆっくり首を振った

「ガイウス様のことを存じていると申し上げたのは、偽りではござません。決して間違ったことに手を染めるお方ではございませんでした……」

 アクバの、ごつごつとした手が、サラの手を優しく包んだ。

「私がきっと疑いを晴らしてごらんにいれます」

 それは、ここ数日のあいだでサラの耳にした、もっとも心強い言葉だった。

 さあ、と促されてサラは、何日かぶりの外界へ歩き出した。

 陽射しがすでに強い。

 風の匂いを、思いきり吸い込んだ。久しぶりの新鮮な空気。

 足どりも自然に軽くなってくる。

 思考が、眠りから覚めたように澄み渡ってくる。

 ああ、わたしは外に出られたのだ。

 歓びが体中に広がってくる。

 裏門に差しかかったところでサラは、後ろを振りむいた。

 アクバはまだ、潜り戸の傍でサラを見送っていた。

 サラはもう一度、頭を下げた。感謝してもし尽くせない。

 アクバの柔和な顔が、くしゃっとゆがんだ。笑ったようだった。その笑顔のままで、アクバが叫んだ。

! !」

 呆然とするサラの耳に、獄卒の鋭い呼子笛よびこふえの音が鳴り響く。

 反射的に、地面を蹴っていた。

 

 肺がけるように熱かった。心臓は跳ね上がり、ぎりぎりと締めつけられたように悲鳴を上げる。

 手近な塀を乗りこえて、どこかの建物の庭を横切る。再び路地へ。道の選択は直感で行ったが、宮城きゅうじょうから離れるようにしなければならない。官衙やくしょのある里坊にいてはいずれ追いつめられてしまう。

 追っ手の気配はさっきよりも随分遠くなった気がするが、影法師のようにべったりと貼りついていて完全に消え去ってはくれない。

 人目を気にしつつ進み、ようやっと官庁街の牌楼もんを後にした。士族スキュロの住居が集まる里坊に入った。

 前方に人影が見えた。素早く物陰に身を隠す。男孩しょうねんとその母親らしき女性の二人連れだ。追っ手ではない。ほんの少しだけ安心する。

 武館どうじょう通いで鍛えた身体とはいえ、全力疾走にも限度がある。

 土壁に背を預けた。目をつむり呼吸を鎮めようとする。まだ自分の置かれた状況を把握できていない。何で逃げなくちゃいけないんだっけ。軽い混乱。

 やられた。その言葉だけが頭の中でぐるぐると回っている。ひとつだけ言えることがある。アクバは、とんだ騙子くわせものだということだ。

 道に目だけをそっと出してみる。母子連れの姿はなくなっていた。

 耳をすます。

 上空で、紅隼ちょうげんぼうが、キイキイと鳴いている。

 追っ手の声はさらに遠ざかっていた。

 よし。

 再び走り出した。

 ぐずぐずしている余裕はなかった。身を隠すには、繁華な里坊まちに紛れ込むしかないとサラは思った。少なくとも、それしか浮かばなかった。たとえばザビネのいた〈乳鉢小路〉のような。

 しかしそうした里坊まちに至るには、城内を分かつ橋をいくつか渡らなければならない。橋と里坊の牌楼もんふさがれたら一巻の終わりだ。素早さが勝負だった。

 勘で進んできたが、方角は間違っていないはずだった。突き当たりにまた士族の邸第があった。正面の門から中を窺う。人の気配はなさそうだった。看門狗ばんけんの姿も見えない。身を低くして走り抜ける。裏手に回り、塀に両手をかけて一気に乗り越えた。塀の向こうは水路沿いの河岸で、竜木樹が立ち並んでいる。後は渡れるところさえ見つかれば……。

「橋なら、北へ行くのが一番近いですよ」

 身体が凍りつく。

 ゆっくりと声のしたほうを見る。

「どうしてここが……」

 アクバが、さんぽの途中にでも出会ったかのような顔で、立っていた。

 サラはすぐさま反対方向に駆け出した。

 そのサラの眼前に、ふわりとしたものが舞い下りた。

 驚愕でわが眼を疑った。戯法てづまのような鮮やかさでアクバは、サラの眼前に降り立った。驚くべき身の軽さであった。

「なあに、簡単なことです」

 微笑を絶やさずに、アクバは話し出した。

「御史台から最短距離で遠ざかろうと思ったら、ここらに出ることになるんです」

 再び反転したサラは、喋りながら音もなく地面に降り立ったアクバにまたも対面する羽目になった。

 曲技かるわざーーいや、厳しい修練によってのみ会得できる体術ーー軽身功けいしんこうだ。あらかじめ予測地点があったとはいえ、尋常ならざる身ごなしがあればこそ、サラの先回りをすることが出来たのだろう。

「いやはや、サラ殿はなかなかに優秀でござるな。おかげでわたしの仕事も増えました」

「それは皮肉でございますか」

 精一杯強がって答える。

「いえいえ、褒めているんですよ」

 しれっとした調子で、肩を竦める。

「初めから嵌めるつもりだったのね」

 だから拷問をしなかったのだ。逃げられる体力を残すために。

 アクバは答えない。その代わり、わずかばかり近づいた。

「わたしをどうするつもり」

 単純に罪に陥れるなら、あのまま放っておけばよいはずだった。ということはーー。

「殺すつもり、ということね」

 假面具かめんのように微笑を貼りつかせたまま、アクバは腰のものに手をかけた。すらりと抜き払う。途端に、小柄な身体が何倍にも膨れ上がったように見えた。凄まじい剣気けんきだった。

(ーー出来るのだ、この男は)

 その剣気の圧よりも、実力をまったくサラに悟らせなかったことに戦慄を覚えた。

「ザビネを殺したのはあなたーー?」

 アクバがまた距離を詰めた。

 サラはじりっ、と後退する。腰に手をのばすが、無論のこと剣は取り上げられている。万事休すとはこのことだ。

「陛下をころしたのもあなたの仕業なの?」

 また下がる。

「まさか父上も……?」

 言い終えぬうちに、無言でアクバが突っ込んできた。肩への鋭い斬撃。サラは後ずさりし、辛うじて初撃をはずした。アクバは横なぎの第二撃を送ってきたが、サラはこれも右に飛んでかわす。河岸の土塀を背にした。アクバが少し引いて構え直した。

 剣先が、ピタリとサラの喉元に突きつけられた。微動だにしない構えの奥で、アクバが口の端をつり上げる。邪悪な笑みだった。いたぶっているのだ、とサラは唇を噛んだ。いつでも殺せるのに、手加減してサラを愚弄している。

 サラの耳に、街の喧騒に混じって、追手の声が聞こえてきた。無論、アクバも耳にしたようだった。

 アクバが笑顔のまま、ゆっくりと剣尖けんせんをおろす。すりあげるようにつかう剣だ。本気でし止める気になったようだ。サラも身構えた。が、こちらは白手すでである。無刀取りなどさせてくれる相手とは思われない。まして下方からの攻撃では難事なんじきわまりない。

 だが、一か八か、やるしかない。

 ジリッ、とアクバが足を踏み出して攻撃に移ろうとしたそのとき、それが起こった。

「ぎゃっ!」

 音もなく、影を感じる時間ひまもなかった。急下降してきた飛鳥ひちょうが、突如アクバに突っ込んだのだった。

 くちばしの攻撃をまともに頭に受けたアクバが、思わず悲鳴を上げる。泡を喰いつつも剣を振り回してそれを追いはらおうとするのだが、鳥は軽々と斬撃をかわした。

(ーー紅隼ちょうげんぼう!?)

 それは間違いなく、紅隼ちょうげんぼうであった。しかしその様子は、ただの走獣そうじゅう飛禽ひきんの類いとはとうてい思われなかった。紅隼ちょうげんぼうは、不可解なほど敵意をむき出しにして、濁声だみごえを荒げ、剣をかわし、執拗にアクバを攻撃している。 

「くそっ! 〈異腹はらちがい〉だな!」

 呆然とするようなその乱闘のうちにさらに、ぐおっと獣の咆哮があがった。ふいにアクバが顔を抑えてうずくまった。

「おのれ……!」

 上げたアクバのかおあけに染まっていた。右頬から、不自然な物体が生えている。棒状のしゅりけんだった。いつの間にか塀の上に、しゅりけんを構えた女人にょにんが姿を現している。

 アクバの双眸が、獣じみた光を放った。

「サラ!」

 聞き覚えのある声に、振り返った。

 鉄棍てっこんを振りかぶった見慣れぬ禿頭の巨漢が疾走してきた。そしてーーその後ろからやってくるのは、腰間ようかんに手をかけたラムルだった。巨漢が、勢いのままアクバに殺到して鉄棍を振り下ろす。アクバは蜻蛉を切ってそれをかわすと、間合いを取った。

「こいつはどうにも分が悪い」

 いうなりアクバは、塀に向かって疾走した。瞬く間にアクバの身体は、塀の上にあった。手をかけてよじ登ったのではない。壁を蹴って斜めに駈け登っていったのだ。目を見張るような絶技ぜつぎである。そして、あっという間に、塀の向こうに消えてしまった。

「サラ! 大丈夫か!」

 ラムルが駆け寄ってきた。

「ラムル!」

 それ以上、声が出ない。

 ラムルが、素早くサラの手をつかむ。力強く引き寄せられた。そのまま胸に飛び込んだ。

 苦しくはない。暖かさだけがあった。

 だがそれも一瞬だった。

「逃げるぞ!」

 言うなり、全員がいっさんに走り出した。

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