第19話
二十一、
眼が痛い、と朦朧とした意識でサラは思うのだった。
(いつまでこんなことが続くのだろう……)
今日は朝からずっと硬い椅子に座らされっぱなしだった。
「告白」した日に大立ち回りを演じたサラはその後、ブリル大湿原産の
今度は、シクマもアクバも誰も姿を見せない。はじめは苛立ち焦っていたが、今はただ消耗していくだけだった。さらには、誰でもいいから顔を出して欲しいとさえ願い始めていた。水すら与えられず、気力と体力が削られていくのがわかる。寝込んでいる間は食事もろくに摂っていなかったので腹が減っているはずだが、胸がむかついて何も喉を通りそうにない。これが形を変えた拷問だと気づくが、次第に何も考えられなくなってきた。
薬の影響か、重い頭を抱えてサラは、無気力に
どれほどそうしていたのかーー。
壁の向こうを移動する
しばらく間が空いた。
やがて、そろりと扉が内側に開いた。
アクバは、狭い隙間から体を滑りこませると、音を立てないように扉を閉めた。
「サラ殿!」
「おかわいそうに。もう大丈夫です」
「大丈夫?」
おうむ返しにきき返す。
「はい。わたしが話をつけてまいりました。さあ、お家に帰りましょう」
アクバは体を支えるようにしてサラを立ち上がらせた。膝に力が入らない。足許がふらつく。思いがけない言葉に思考が追いつかない。
「さあ、こちらです」
雲の上を歩くような足取りでサラは、廊下に出た。自分が
「……ジクロや……ジナは?」
辛うじてそれだけが言えた。
「お二人は、ひと足先にお帰りになられました」
アクバが歩き出す。
「サラ様のお解き放ちにだけ手間どったもので。二人には無理をいって先に出てもらったのです。ああ、こっちです」
サラが向かおうとしたのとは反対の方向を、アクバは指した。正面玄関とは逆に行くことになる。
「なにしろ、
廊下の曲がり角で、アクバはサラを制した。素早く左右に視線を走らせる。こちらです、と進んだ先は建物の裏手、東の端の通用門に面した小さな潜り戸だった。
開け放たれた潜り戸から、明るい
「今日のところは、ひとまずお
アクバの口調は淡々としていたが、
「お骨折りいただいて……何とお礼を申し上げたらよいか……」
アクバはゆっくり首を振った
「ガイウス様のことを存じていると申し上げたのは、偽りではござません。決して間違ったことに手を染めるお方ではございませんでした……」
アクバの、ごつごつとした手が、サラの手を優しく包んだ。
「私がきっと疑いを晴らしてごらんにいれます」
それは、ここ数日のあいだでサラの耳にした、もっとも心強い言葉だった。
さあ、と促されてサラは、何日かぶりの外界へ歩き出した。
陽射しがすでに強い。
風の匂いを、思いきり吸い込んだ。久しぶりの新鮮な空気。
足どりも自然に軽くなってくる。
思考が、眠りから覚めたように澄み渡ってくる。
ああ、わたしは外に出られたのだ。
歓びが体中に広がってくる。
裏門に差しかかったところでサラは、後ろを振りむいた。
アクバはまだ、潜り戸の傍でサラを見送っていた。
サラはもう一度、頭を下げた。感謝してもし尽くせない。
アクバの柔和な顔が、くしゃっとゆがんだ。笑ったようだった。その笑顔のままで、アクバが叫んだ。
「しまった! 娘が逃げ出したぞ!」
呆然とするサラの耳に、獄卒の鋭い
反射的に、地面を蹴っていた。
*
肺が
手近な塀を乗りこえて、どこかの建物の庭を横切る。再び路地へ。道の選択は直感で行ったが、
追っ手の気配はさっきよりも随分遠くなった気がするが、影法師のようにべったりと貼りついていて完全に消え去ってはくれない。
人目を気にしつつ進み、ようやっと官庁街の
前方に人影が見えた。素早く物陰に身を隠す。
土壁に背を預けた。目を
やられた。その言葉だけが頭の中でぐるぐると回っている。ひとつだけ言えることがある。アクバは、とんだ
道に目だけをそっと出してみる。母子連れの姿はなくなっていた。
耳をすます。
上空で、
追っ手の声はさらに遠ざかっていた。
よし。
再び走り出した。
ぐずぐずしている余裕はなかった。身を隠すには、繁華な
しかしそうした
勘で進んできたが、方角は間違っていないはずだった。突き当たりにまた士族の邸第があった。正面の門から中を窺う。人の気配はなさそうだった。
「橋なら、北へ行くのが一番近いですよ」
身体が凍りつく。
ゆっくりと声のしたほうを見る。
「どうしてここが……」
アクバが、
サラはすぐさま反対方向に駆け出した。
そのサラの眼前に、ふわりとしたものが舞い下りた。
驚愕でわが眼を疑った。
「なあに、簡単なことです」
微笑を絶やさずに、アクバは話し出した。
「御史台から最短距離で遠ざかろうと思ったら、ここらに出ることになるんです」
再び反転したサラは、喋りながら音もなく地面に降り立ったアクバにまたも対面する羽目になった。
「いやはや、サラ殿はなかなかに優秀でござるな。おかげでわたしの仕事も増えました」
「それは皮肉でございますか」
精一杯強がって答える。
「いえいえ、褒めているんですよ」
しれっとした調子で、肩を竦める。
「初めから嵌めるつもりだったのね」
だから拷問をしなかったのだ。逃げられる体力を残すために。
アクバは答えない。その代わり、わずかばかり近づいた。
「わたしをどうするつもり」
単純に罪に陥れるなら、あのまま放っておけばよいはずだった。ということはーー。
「殺すつもり、ということね」
(ーー出来るのだ、この男は)
その剣気の圧よりも、実力をまったくサラに悟らせなかったことに戦慄を覚えた。
「ザビネを殺したのはあなたーー?」
アクバがまた距離を詰めた。
サラはじりっ、と後退する。腰に手をのばすが、無論のこと剣は取り上げられている。万事休すとはこのことだ。
「陛下を
また下がる。
「まさか父上も……?」
言い終えぬうちに、無言でアクバが突っ込んできた。肩への鋭い斬撃。サラは後ずさりし、辛うじて初撃をはずした。アクバは横なぎの第二撃を送ってきたが、サラはこれも右に飛んでかわす。河岸の土塀を背にした。アクバが少し引いて構え直した。
剣先が、ピタリとサラの喉元に突きつけられた。微動だにしない構えの奥で、アクバが口の端をつり上げる。邪悪な笑みだった。いたぶっているのだ、とサラは唇を噛んだ。いつでも殺せるのに、手加減してサラを愚弄している。
サラの耳に、街の喧騒に混じって、追手の声が聞こえてきた。無論、アクバも耳にしたようだった。
アクバが笑顔のまま、ゆっくりと
だが、一か八か、やるしかない。
ジリッ、とアクバが足を踏み出して攻撃に移ろうとしたそのとき、それが起こった。
「ぎゃっ!」
音もなく、影を感じる
(ーー
それは間違いなく、
「くそっ! 〈
呆然とするようなその乱闘のうちにさらに、ぐおっと獣の咆哮があがった。ふいにアクバが顔を抑えて
「おのれ……!」
上げたアクバの
アクバの双眸が、獣じみた光を放った。
「サラ!」
聞き覚えのある声に、振り返った。
「こいつはどうにも分が悪い」
いうなりアクバは、塀に向かって疾走した。瞬く間にアクバの身体は、塀の上にあった。手をかけてよじ登ったのではない。壁を蹴って斜めに駈け登っていったのだ。目を見張るような
「サラ! 大丈夫か!」
ラムルが駆け寄ってきた。
「ラムル!」
それ以上、声が出ない。
ラムルが、素早くサラの手をつかむ。力強く引き寄せられた。そのまま胸に飛び込んだ。
苦しくはない。暖かさだけがあった。
だがそれも一瞬だった。
「逃げるぞ!」
言うなり、全員がいっさんに走り出した。
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