第12話

十四、

 夕刻の、物の影が道に長く伸びる頃だった。金吾衛の建物の前には大きな往来が走っていて、この時刻、道行く人々の足どりは、我が家を、あるいは夜の街を目指し、白天ひるまよりせわしなくなっているようだった。

 サラは、金吾衛の向かいにある茶肆ちゃみせで籐椅子に腰かけていた。

 このみせもそうだが、官衙やくしょの近くにある茶肆ちゃみせ旗亭りょうりやなどは、官人たちのたまり場になっていることが多い。とりわけ金吾衛近くの店は、捕吏やその下働きをする者たちが、情報交換を行ったり打ち合わせをしたりするのによく使われていた。

 ガイウスは、家族がつとめの場所に近づくをあまり好まなかったので、父に連れられてきたことはない。しかしサラは、小さかった頃、ガスコンにおねだりして、この店で父を待ち伏せしたことがあった。

 士族スキュロの子女が、随従とももなくひとりで茶肆の卓子テーブルにつくのは、はしたないこととされているのだが、さいわい客の中にサラと顔見知りの捕吏がいて、うまく入りこめたのだった。

 はす向かいの、金吾衛の門牌ひょうさつの下では、扉の両脇にいかめしい顔の門衛が微動だにしないで立っているのが見える。

 負傷したラムルを見舞った帰りだった。自宅に戻ったラムルは、私室へやベッドで療養していた。元気そうにふるまってはいたが、金創きんそう(刀傷)の炎症による発熱で苦し気なのは隠しきれない。ラムルの体に障るのと、サラ自身のいたたまれなさが合わさって、長居はできなかった。

 サラは、お茶うけのなつめ蜜煮みつにを指でつまんで口に放り込んだ。お行儀がいいとはいえないが、ジナがいないと、つい適当になってしまう。

 冷茶をすすりながら、ぼんやりと昨日の出来事を反芻した。バソラ邨で話を聞いたことで、父の死の様子が、少し見えてきたように思えた。

 あの日、ガイウスは何者かとバソラ邨で接触していた。呼び出されたのか、呼び出したのかはわからない。いずれにしても、辺鄙な場所での会合は内密のものであるはずだ。

 一方、父は表沙汰にできない、なんらかの事件を追っていたふしがある。

 一たす一は、二……。

 順当に考えれば、バソラ邨での会合相手は、その事件の関係者の可能性が高いのではないかと推測できた。しかしそれは、サラがたどりつける限界を画してもいた。なんとなれば、肝心のガイウスの事件がどんなものなのかが、まったくつかめていないからだ。事件の輪郭も登場人物もわからないのに、相手を想定できるわけがない。あるいは、ガスコンならば、詳細を調べることができるかもしれないが、それをサラに教えてくれるとはとても思えなかった。つまり、サラにできることなど、もう何もないのだった。

 それにジナの目もあった。剪径おいはぎとの遭難は不可抗力だが、危険な目にあったのは事実なので、サラの外出によい顔をしないのだ。かといって、邸第やしきの中にじっとしているのも気づまりである。

 金吾衛に足を向けたのに、深い意図はない。先般、ガスコンに父のことをたずねたときの態度に微妙な違和感があって、記憶を反芻するうちそれが、少しずつ膨らんできてしまったからだ。

(ーー小父さんは、なにかを隠している?)

 それは、根拠のない直感だったが、サラにはなぜか確信があった。もっとも、帰りしなを狙おうと考えたのは、不意をつくためというよりも、このみせで父を待ち伏せした幼い頃の思い出に浸りたかっただけなのだがーー。

 サラが漫然と門に眼を向けていると、ガスコンの強面がのぞいた。

 門衛に挨拶してガスコンは、通りを左に歩き始めた。銅銭おかねを卓子においてサラは、あとを追いかけた。

「小父さま」

 ふりむいたガスコンは、サラを見て怪訝な表情になった。意外な場所で、意外な人物に声をかけられたと思っているだろう。

 色々考えてはいたが、出てきたのは直截な問いであった。

「小父さま、わたしに何か隠してませんか?」

 真正面からガスコンを見つめる。百戦錬磨の〈赤髭ガスコン〉が、一瞬、途方にくれた顔になって目をおよがせた。彼がいま二重写しに見ているのは、幼い時分のおしゃまなサラなのかもしれない。

「父上が〈乳鉢小路〉のハーリム医師のもとに通っていたわけを、なんとしてもお教えいただけませんか」

「……」 

「お役目の上のことならば、お答えいただけなくても仕方ありません。しかし、そうでないならば、父のこと是非ともお教えいただきたいのです」

 サラは食い下がった。

 ガスコンは、うつむいたまま動かなくなった。

 サラはじっと待った。

 白天ひるまの名残をはらんだぬるい風が、肌をなぜた。かわたれどき、ガスコンの巨体の輪郭が、薄闇に溶けていくかと思われた。

 ガイウス様に固く口止めされていたのです、とガスコンがようやく重い口を開いた。

「父上は亡くなってしまいました。小父さまが約束をたがえたとは言わないでしょう」

 なおも逡巡を見せたが、あきらめたのかガスコンは結局、話しはじめた。

「……ガイウス様がお亡くなりになる少し前のことですがーー。久方ぶりに帰路かえりみちをご一緒したときに、わしの横でガイウス様が咳き込まれたのです。苦しそうに身体をかがめられて……そのうちこれくらいの血塊けっかいを手に吐き出されて……」

 思いがけない告白に、サラのほうが動揺していた。父に関する秘事とはまさかーー。

「父はその……病だったということですか?」

「ええ、ガイウス様がご自身でおっしゃっていました。肺臓にこぶが出来ているらしいと。それもかなり重篤なーー」

 腰の辺りがすうっと冷たくなった。父が病だった? 

「しばらくして咳がしずまってからガイウス様はわたくしに、このことはくれぐれも他言無用とおおせでした」

 わたくしの知っていることはこれだけです、とガスコンは告白してむしろ、ほっとした様子でそうしめくくった。夕闇が迫ってきていた。礼もそこそこに、サラはきびすを返した。

 しだいに足が速くなる。

 薄暮の曖昧な物影のなか、サラの胸は早鐘のように打ち鳴らされていた。


「隠していたのね」

「まあ、まあ、突然どうなさったんでございますか、小姐おじょうさま

「ごまかさないで」

 邸第に戻るなりサラは、厨房に乗りこんだ。かまどの前に立つジナを睨みつけ、食ってかかった。

「父上のご病気のことよ」

 みるみるジナの顔色が、変わった。

「やっぱり……。どうして黙っていたの? 一体いつから?」

 父が病にかかっていたとしたら、ジナにだけは打ち明けているのではないかという予想は当たったようだった。ジナは野菜の皮を剥く手を止めて、サラの眼を見返した。

「……おっしゃるとおり、旦那様はご病気でいらっしゃいました。それも治る見込みのない……。お嬢様にお話しなかったのは、旦那様のお考えです。余計な心配をかけたくないと」

「どうして? どうしてそれが余計な心配なの? 家族でしょ?」

 ジナはそっと息をついた。

「わたくしもそう申し上げました。ですが旦那様は、どうしてもと……」

「いつからなの?」

「三月ほど前になりましょうか。お杏林いしゃ様に診立みたててもらったのだとおっしゃられて。あと半年だと言われたそうです」

 杏林いしゃとはハーリム医師のことだろう。父が足繁く通っていたのはこのためだったのだ。それを自分は、さかしげに嗅ぎ回っていたと言うわけだ。

「ご自分のことは覚悟ができている、と旦那様はおっしゃいました。ですが残されるサラ様ことが気がかりだと」

「じゃあ、あのお見合いは……」

「はい。ガイウス様なりに、精一杯、サラ様へのお気持ちを表されたのだと……。あのような形になってしまったことを、旦那様はとても悔やんでおりました」

 そういって、ジナは眼を伏せた。

 サラは絶句した。父の顔が頭の中をぐるぐるとまわった。卑怯です、とサラは言った。そうかも知れぬな、と父は答えた。あの時ほかに、どんなことを言えたろう。どんな言葉があったろう。父と交わす、もっと違う言葉を自分は持っていたのだろうか。

(どうして、どうして、こんなことになってしまったのだろう)

「勝手に……わたしの気持ちなんて……」

 きびすを返しかけて、立ち止まった。

 いつの間にか、戸口にジクロが立っていた。

「サラ……」

 無視して脇を通ろうとする。ジクロだって、知っていたに決まっている。腕を捉まれた。振りほどこうと、もがく。

「サラ!」

 有無を言わさない、強い口調だった。

「父上の事件を調べるのを止めなさい」

 はっとして、ジクロを見た。ジクロは、とても哀しそうな眼をしていた。

「お前にまで何かあったら、僕やジナは……」

 言いかけて兄の顔が歪む。言葉にならない言葉だった。ジクロは、心の底からサラのことを想ってくれている。

 大事な〈家族〉として。

 力が弛んだ。振りほどいた。

 自室に駆けもどって、ベッドに倒れこんだ。

 枕に顔を埋めた。きつく目を瞑る。父の顔が、頭の中を巡った。ジクロのがそれに混じった。

 たまらなく哀しい。苦しい。ーーそして、恐ろしい。

 葬儀の夜、サラはどうしても眠ることができかった。ひとつ屋根の下、ジクロが近くにいることが、これまで以上に強く、生々しく迫ってきたからだ。

 体の深奥から、抗いがたく、熱く、烈しく、溢れ出てくるもの。経験したことなどなくてもわかる、それは、まぎれもなく情欲だった。およそ人倫ひとのみちにもとることは、頭では理解できる。でも体はーー。

 心を抑えていた重石が、思いがけずはずれてしまったようで、サラは弾ける寸前まで追い込まれてしまったのだ。

 ーー願い事がかなってしまったら?

 行く手には、おぞましくも甘美な道行みちゆきしかない。

 サラには、あらたな重石が必要だった。それが、ガイウスの死の探索だった。それだというのにーー。

 すがるような思いで、サラは宝物をーージクロにもらったかんざしを握りしめたくなった。気になったら、やもたても堪らなくなった。起きて小物入れを引っ掻き回す。見当たらない。念のためほかの場所も探したが、やはり出てこなかった。

 最後にあれをつけたのはいつだっけ、と考える。父の葬儀のとき。あのとき喪服を着るために外したのが最後のはずだ。あれから出していないはずなのに。

 サラは放心したように、ベッドに座り込んだ。

 やりきれなさが込み上げてきた。

 これまでになく、孤独感があった。


逸、

 店主の愛想笑いに送られて、ザビネは酒肆さかばを出た。おくびをひとつ洩らす。

 欠けた月の明かりで、ぼんやりと浮かびあがった夜道を歩きだした。

 あっちへふらふら、こっちへふらふら。だいぶきこしめしていて、足取りはおぼつかない。

(ーー俺にも運が回ってきた)

 朦朧とした頭で、ザビネはひとりごちた。相手がこちらの要求をあっさりのんだことに気を良くしていた。

(それだけやばいネタってことだ)

 胸のうちで、ほくそえむ。まだまだいくらだって搾り取ることができる。なんてったって俺は、金のなる木を手に入れたんだから。

 深夜の通りに、ひと気はなかった。どこかで野狗のらいぬが悲しげな遠吠えを上げている。

 ザビネは、道の端に寄っていった。下半身に尿意をおぼえたのだ。下帯をほどいて、路傍みちばたに用を足しはじめた。懐に気兼ねなく飲める喜びを噛みしめながら……。

 行く手の路上にさした建物の影、その黒橡くろつるばみ闇溜やみだまりが動いたように見えたのはそのときである。人影にーー見えた。

 ザビネは、酒精に侵された目をしばたかせた。

 闇はじっとそこに動かない。しばらく眼を凝らしてからザビネは、ぶるっと体をふるわせた。

(気のせいか……)

 再び歩きだす。それでもザビネは用心してはいた。暗がりには入らず、辺りに注意しながら、酒肆さかばから漏れる明かりの中を歩いた。

 ザビネの後ろ、警戒していた闇溜りに、ポッと炎が灯った。尋常の炎ではなかった。蒼白く、熱のない鬼火ザザである。その鬼火ザザのぼんやりした明かりの中心に、人のような、そうでないような顔がーー顔だけがーー浮かび上がった。

 ニタニタと無気味なわらいを貼りつかせたそれが、すうっと、横に滑るように宙を移動し始めた。勢いがぐんぐんと増していく。〈顔〉は、声を出さないまま呵呵かか大笑たいしょうした。大口を開けた中に、ぞろりと獣のような太い牙が並んでいた。

 ごぶっという、肉を断つ鈍い響きが路地にこだました。〈顔〉が、ザビネのくびに喰らいついたのだった。

 ザビネが、もんどりうって倒れた。呻き声すら上げなかった。ごりごりと〈顔〉が、ザビネの頚をさらに骨ごと噛み砕く。身体の下から、闇よりもなお黒く濃い血が、地面に広がっていった。

 やがてーー月が傾き、月影がザビネの体を照らすころ、〈顔〉は跡形もなく消え失せていた。

 月影だけが残った。

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