7時12分、決断の時

飯塚摩耶

7時12分

「すみません、少々お話をいいでしょうか」


 声を掛けられて、僕は振り向いた。

 声の主は、明るいグレーのパンツスーツに身を包んだ若い女性だった。金色がかった飴色の、ほそい髪の束が、ギリシャの神殿の石柱みたいに、華奢な肩を飾っていた。


「とても大事な、お話なんです」


 大きな目。吸い込まれそうな、透き通った琥珀色の瞳。なだらかな山脈に似た、美しい眉は、どこか悲しげに下がっている。


 僕は、腕時計を見た。

 針は、午前7時12分を指していた。


「ご安心ください」

 と、女性は言った。「お時間について、ご不便はおかけいたしませんので」


 静まり返ったコンサートホールに渡る演奏の、ひどく控えめな第一音のような声だった。

 僕は、ねじれてしまったコードを真っすぐにするように、慎重に相手に体を向けた。


「話って、なんの?」

「あなたのことです」

「僕?」

「はい。あなたの、これからのこと」


 僕と女性とは、1・5メートルほどを隔てて、立っていた。

 互いに手を伸ばし合っても、ギリギリで指は触れないだろう。それでいて、相手の表情の変化は、仔細に見て取れる。

 とても微妙な、距離。


「今日は、どのように過ごされる、ご予定ですか?」


 僕は、呆気にとられた。どう過ごすかだって? 

 そんなことを訊ねるために、この人は、わざわざ僕の足を止めたっていうんだろうか?


「つまり今朝、ベッドから起き上がられた時、どういったことを漠然と考えていらしたか、ということです。今日が、どういった一日になると、思っていらした?」

 そこまで言って、女性は、ふと眉をひそめた。

「お宅は、ベッドではなく、お布団でしたか……?」

「いや、ベッドです。シングルベッド」

「ああ、よかった」


 女性は、ふっと笑った。硬い結び目が、ようやくほどけるのに似た笑みだった。

 ……変な人だな。


「別に、いつも通りです。会社に行って仕事して……帰って、飯を食って寝る。それだけ」

「もう少し具体的に、お願いできますか?」

「面白かないですよ」

「うかがいたいんです。お願いします」


 からかわれているのか?

 でも、女性の顔つきは真剣だ。


 僕は、腕時計を見た。

 針は、午前7時12分を指していた。


「……わかりました。少しだけなら」

「ええ」


 僕は唇を舐めた。今日が、どんな一日になるか?

 そんなこと、敢えて意識したことなんて、今までなかった。


「なんだかな。難しいものですね」


 僕が、そう言うと、女性は、にっこりと微笑んだ。


「ええと……起きたのは、6時だったんですよ。アラームは15分にかけているんだけど、いつも、それより早く目が覚める」

「もったいないですね。寝直すわけにも、いかないでしょう?」

「いや、これはこれで、悪くないんですよ。残った15分、ベッドの中で、漫然とゴロゴロできるっていうのも、ささやかな贅沢だ」

「そういうものなのですか?」


「ええ。揺るぎない平和がありますから。ベッドの中って」

 知らず、言葉に力が籠もった。「起きた瞬間から、ベッドから抜け出すため総力を上げるなんて、イヤですよ。ゆっくりがいいんです。のんびりと、気持ちを作るんだ。今日も一日が始まる、仕事に行くんだっていう」


「つまり助走ですか?」

「そう」

「なるほど」

「それで……質問の、答えですけど」

 と、僕は言った。

「ああ、今日も仕事に行くんだなって感じですよ。用を足して、コップ一杯ぶんの水を飲んで、顔を洗って、歯を磨いて……寝癖を直して、髪をセットして、服に袖を通して……そういう、出勤の禊みたいなものを、ひとつひとつ済ませながら、気持ちを作っていましたね。さぁ行くぞ、って感じで」

「それも、助走?」

「そういうことになるのかな」

「では、これから、あなたは真っすぐ、お勤め先に?」

「その前に朝飯ですね。会社の近くの喫茶店でモーニングを食います。ここの卵サンドが、世界一うまい卵サンドなんです」


 薄くスライスされた、自家製の食パン。

 純白の生地は、無数の綿毛を幾重にも織ったように、きめ細かく、滑らかで、少しもささくれていない。

 真っ平らのようでいて、目を凝らせば、その表面は、ふんわり膨らんでいる。


「たぶん風を閉じ込めてるからだろうって、思います」

「風を?」


 晴れた昼下がりに、そっと肩を撫でていく、追い風だ。

 あの控えめで、照れたような暖かな一吹きを、純白の網目の間に仕舞っているんだと、僕は思う。

 その封を解いてしまわないよう、慎重に指を添わせて、支え上げ、口元へまで運んでいく。


 芳醇な小麦の香り。

 まるで少量の粒子をまとわせた指先を、そっと擦り合わせたような、予兆にも似た気配だ。


 誘われるように、歯を立てる。

 ふわりと柔らかさに沈む感触の後で、歯の根に湧く甘み。

 たとえば霜に指を触れた時、さくりとした手ごたえに遅れて、冷たさがやってくるような、小さくも鮮烈な存在感。


 その向こう側に辿り着けば、ついに濃厚な卵フィリングが溢れだしてくる。

 さっきまでの慎重さがウソのように、一瞬にして、半熟の黄身とマヨネーズとが合わさって、もったりと舌にまとわりつく。

 まるで薄いヴェールの向こうから、熱い湯が湧き出してきたかのよう。

 僕は溺れまいと、上下の顎に巻き込まれたパンを押し戻して、フィリングと噛み合わせていく。

 そうして二者が混じり合い、ようやく丸みを帯びた味わいに、優しい塩気が立ち上がる。

 大波に砕ける泡のように、プチプチと白身の欠片が弾ける……。


 それらを咀嚼し、嚥下した後も、舌の上には鮮やかな夕焼けのように、あのクリーミィさが残っている。

 それを酸味の立つブラックコーヒーで、流し込む気持ちよさと言ったら……。


「どんなに仕事が辛くても、あの味を思うと、自然と会社に向かえる」

「でしたら、是非にも召し上がらなければ」

「いや……今日は、やっぱり、やめておきます」

「なぜですか?」


 その問いに、僕は首を振り返して、腕時計を見た。

 針は、午前7時12分を指していた。


「時間を気にしなくていいっていうのは、本当なんですね」


 セイコーアストロン──初任給で買ったヤツだ。地球上のどこにいようとも正確な時刻を取得できる、というのがウリのソーラーGPSウォッチ。シルバーのボディは涼しげで、文字盤のブルーが、シリウスのように輝いている。


 僕は肩越しに、背後を見やった。

 一軒の、民家がある。

 燃えていた。ちょうど熱によって窓ガラスが砕け、黒い煙が噴き出たところだ。家壁は、紅蓮の炎に舐められて茶色く変色し、その上に黒い煤の化粧を施されていた。

 ごうごう、という燃焼の唸りが、聞こえてきそうである。

 でも、静かだ。鳥の鳴き声も、風の音さえもない。

 だからだろうか?

 とくん、とくん──

 体の芯から起こる脈動が、こんなにも突き抜けていく。


「あなたが、止めてるんですか?」

「ええ」

「……あっさり頷きますね」

「その通りですから」


 女性は凪いだ瞳で、僕を見つめている。細い髪もまた、わずかのもつれも生まないまま、真っすぐに流れ落ちていた。


「じゃあ僕、行かないと」

「お勤め先に……では、ありませんね?」

「はい。その前に、やることができたから」


 あの、燃える家の中に、人影を見た気がする。

 叫び声を、聞いた気がする。

 ……だから。


「なぜ、あなたが行かなければならないのです?」

「だって、僕しかいないから」


 建物は木造住宅だ。きっと、一瞬で燃え上がったんだろう。消防車も救急車も、来ない。誰かが呼んでいたとしても、間に合わないに違いない。


「今、僕が行けば、まだ……」

「間に合わないとしたら?」


 僕の言葉を遮った、女性の表情は曇っていた。伏せられた瞳が、長い睫毛に半ば隠れる。口調も、相変わらず物静かだったけれど、どことなく歯切れが悪い。


「たしかに、あそこには人がいます。生きてもいます。でも、例えば……」

 と言って、女性は唇を舐めた。「煙を吸いこんで、もう体は動きません。完全に虚脱した、大柄な成人男性の体を、あなたは一人で運び出さなければならないのです」

「例えば?」

「ええ……例えば、です」


 女性は、うつむいたまま先を続けた。

「もちろん時間は、有限ではありません。灼熱と、酸素の薄い空気の中で、あなたは、それをしなければなりません。煙と、炎に捕らえられるよりも先に、です」


 想像してみる。僕の身長は、全国平均に少し届かない程度。体重も相応だ。たっぷり脂肪のついた、7、80キロの骨と肉の塊を、上手く運べるだろうか?

 腕を見下ろしてみる。細い。もともと文科系で、中高と茶道部、大学では日本文学研究会に所属していた。当時でさえ運動は苦手だったのに、今では駅まで歩く程度。会社に着けば社用車を乗り回して、営業先を回る日々だ。

 ……筋トレくらい、やっておくんだったなぁ。


「いかがです。可能だと、思われますか?」

「あの家に、そういうことが待っているんですか?」

 と、僕は訊いた。「例えば」

「ええ」


 ああ……なんとなく、わかった。

 例えば。

 あそこへ行けば、僕は、その名前も知らない男を背負うのに難儀して、自分も煙を肺まで吸い込む羽目になるだろう。

 そして身動きできなくなった僕に、炎が近づいてくる。紅蓮の舌が、ぺろりと肌を舐める。皮膚が、じりじりと焼けていって、肉に熱が通って凝固して、眼球からは水分が蒸発する。それは、どれほどの痛みだろうか? 僕は叫び、暴れる。それでも、まだ僕は、死なない。ゆっくり、ゆっくりと燃えていく……まるで巨大な、あぎとに捕食されるみたいに。


 彼女は、その未来を知っている。

 そして本来であれば、彼女は、そのことを僕に打ち明けてはいけないのだろう。


 ──例えば。


「いずれ死ぬなら……老衰がいいですねぇ」

「ここで真っすぐ会社に向かわれるなら、それが叶いますよ」


 そうなのか。

 そうなんだろうな。


「行くことは、ありません。ご自身を大事にしてください。多くの方が、あなたに、いてほしいと願っています。この世界は、貴方の生存を望んでいるんです」


 女性の語りは、相変わらず静かで、淡々としている。

 それでも、そこに一抹の懸命さが窺えたように思うのは──僕が、そう思いたいだけだろうか。


「僕ね、小説家になるのが夢だったんですよ」


 気づけば、僕は、そんなことを喋っていた。


「よく書いてました。高校生の頃から。大学生の頃なんか、次から次へと作品を量産していました。何本も投稿サイトに上げて、称賛されたり貶されたりしました。小説賞に応募して、そこそこ、いいとこまで行ったこともあるんです」

「今も書かれてるんですか?」

「たまに。なんだかんだ、趣味ですから。でも、もう小説家を目指してはないです」

「それは、なぜ?」

「作品を世に出さなくてもいい、って思っちゃったからです」


 かつて、僕は僕だけの世界を持っていると思っていた。

 それを示したかった。

 披露して、称賛されたかった。

 僕は、ここにいるんだぞって、世界に知らしめたかった。

 書くことは、そのための手段で、作品は、そのためのツールだった。


「あなたの代わりは、いないって皆が言う。それを鵜呑みにしていました」


 そんなこともない、と知ったのは、読者からの感想が切っ掛けだった。

 そこには絶賛と共に、こう書いてあった。

 まさに私の考えと同じことが語られていて感動しました。


「こんな考え方が、あったなんて──僕は、そう言ってほしかった。だから正直、その時はムッとしました。お前に僕の何が分かるんだって。変な話です。僕を分かってもらうために、書いていたはずだったのに」


 他の作家と、ネタが被ったこともあった。

 似ている、と第三者から指摘されて気づくことがあり。温めておいたのと同じ仕掛けを、ふと手に取った作品の中に発見することもあった。

 そのたびに、新しい何かを考えようと必死になる。斬新で、他の誰にも真似のできない、何にも似ていない、僕だけが持っている、誰もがアッと驚くオリジナルな何かを。

 探す。

 探して、探して──


「僕は他人のレビューを見るのが好きです。通販サイトとか、批評サイトとか、SNSとか」

「それを参考に、購入を検討される?」

「見るのは現物に触れた後です。実態を知って、個人的な感想や考察を得た後で、他の人の意見を見る。そしたら、だいたい見つかります。自分の感動や落胆を、そっくり同じに代弁している声が。そういうのに出会うと──」


 そうそう、そうなんだよ! と、僕は嬉しくなる。

 同時に、それが僕だけの感覚ではなかったことを、ちょっぴり残念に思う。


「僕は、思うんです。僕と、まったく同じ人間はいない。でも、僕という人間を、どこまでも細分化していけば、その分割された要素を共有する人が、どこかにいる」


 ある本を読み、僕と同じポイントで感動する人がいる。

 ある商品を買い、僕と同じ理由から落胆する人がいる。

 誰かが僕と同じように怒り、別の誰かが僕と同じように泣いて。

 世界にとって、その情報が僕由来のものか否かなんて、どれほどの違いがあるだろう?


「あなたと同じ価値観が、世界のどこかに点在し、続いている。あなたがいなくなっても、あなたが発するはずだった感情は、別の人々によって発され続ける。それが、この世界に、あなたの代わりがいる、ということになると?」

「はい」


 女性は、困惑しているようだった。彼女は、ほとんど泣き出しそうな顔で、美しい唇を開いた。


「そのことに、絶望されているのですか? だから、行こうとされるんですか?」

「いいえ。たしかに昔は、ガッカリしたこともあったんですけど。でも、今は、良かったなって思ってます。僕は、誰もが驚く独自性の塊ではなかったけれど……この世界の異物でも、なかった。それって、すごく優しくて、温かいことじゃないですか?」


 そのおかげで、たくさんの楽しいことがあった。

 だからこそ、たくさんの嬉しいことがあった。

 そんな風に、今日まで生きてきたのだし、明日からも生きていこうと思えるのだ。

 この先に待つ未来を、信じられるのだ。


「わかりません。それなのに何故、あなたは死に向かうのですか?」

「死に向かうんじゃない。生きるためです。僕が僕として、明日も生きるために、行かなきゃならない。どうしても」


 探して、探して──

 僕は、オリジナルを見つけたのだった。

 それは、僕だ。

 僕を形作る、さまざまな要素は、どれもこれもが人並みで、世界にとっては容易に代えのきくものなのだろう。

 しかし僕には、僕しかない。

 僕が世界に触れるためには、僕という主観を通すしかない。

 僕にとって、僕という僕は、唯一無二のものだ。

 生まれてから死ぬまで、決して離れることのできない、オリジナルなのだ。


「もし、このまま仕事に行って、遠い未来に老衰で穏やかに死ぬのだとして──」


 すぐ数歩先で、誰かが炎に巻かれようとしているのを横目に、目を逸らせば。

 僕という主観のレンズは、きっと、永遠に煤けたままだろう。

 どんな美しい景色を見ても、どんな美味しそうな料理を前にしても、大切な相手の笑顔が眩しくっても、それを、そのままに受け取ることができなくなる。

 取り換えのきかない、僕だけの視界は終生、濁ったままになってしまう。


「誰も、あなたを責めません。あなたが火をつけたわけじゃない。あなたの手に負えることじゃない。どうしようもないことです。皆が、あなたを許すでしょう」

「そうかもしれない。でも、それは問題じゃないんです」


 もしも世界が、味方だよ、と囁いてくれたとして。

 それが僕を、綺麗に拭ってくれるのだろうか?

 それは、拭ってもらったんだから大丈夫だ、と示し合わせるだけなんじゃないのか?

 やはり僕は、曇ったままで。

 こう言うのか──大丈夫、何も見えなくなったわけじゃない。そもそも、以前から見え方なんて、こんなものじゃあなかったか?


「いいえ、ダメです。誤魔化せませんよ」


 そんな小ズルい交渉は、結局のところ、僕の主観の中で交わされるものだ。

 他の誰が気づかなかったって、僕だけは一部始終を見届けて、一切を把握している。

 忘れたフリをしようったって無駄なことだ。

 いわんや、世界なんかに介入できる余地が、あるわけがない。


「僕は、僕を好きでいたい。世界が僕を、どう思うかじゃない。僕が、僕を、どう思うかが重要なんです」


 だって、それが生きるということなんだ。

 より正確に言うなら、僕が、生きるということなんだ。

 自分に胸を張れないなら──世界に居場所があったって、それが何だというんだろう?


「ありがとうございます。お話しできて、よかったです」


 僕は言う。

 彼女と言葉を交わすのは、とても心地が良かった。

 例えるなら、ベッドの中で漫然とゴロゴロする15分間のような時間だった。

 僕は、そんな、ひと時が、何にも代えがたく好きなのだった。


「いいえ、こちらこそ」


 女性は悲しそうに頷いた。

 僕は、彼女に背中を向け──そうだ、と声を投げかける。


「行ってみてください。さっき話した、喫茶店に。卵サンド、本当に間違いないですから」

「ええ。そうしてみます」


 女性の声が、優しく耳元に感じられた。

 彼女は不安そうに、でも、と呟いた。


「私は、感じられるでしょうか? あなたのように、豊かな感動を持って、その卵サンドを、世界一おいしいと?」


 そうだといいな、と思う。

 そうであってほしい、と願う。

 いま僕の口の中に蘇る、あの幸せの味を共有してほしいと、心から。


 僕は、腕時計に目を落とした。

 時計の針が、7時12分を過ぎようとしていた。

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7時12分、決断の時 飯塚摩耶 @IIDzUKA

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