micco

 金魚とは、ひとヒレ毎に自分が何処に居るのか忘れてしまう様な迂闊な動物と思っていた。しかし違う様だ、と判ったのは何時の事だったか。


 夕食を摂れば読書に没頭するのが常で、居間を暗くし机上の小さな電灯を点け揺り椅子に掛ける。神無月ともなれば夜の訪れは殊更早く、薄ぼんやりとした室内で灯を反射させるのは見開いたペエジと金魚鉢の朱鱗のみ。頁を捲る間に見遣れば只1匹だけの金魚は鰭をピクリとも動かさずに浮いて居る。灯を絞り暫くすれば眠ってしまう様だ。雖然けれども浮かんで居られるのだから不思議な物だ。

 私が頁に視線を戻し欠けた時、視界の端で件の朱が大きく揺れた気がした。オヤ今し方迄寝ていたはず、と再び見遣る。清潔な鉢の水は澄み切って居りほとんど闇に同調する水泡だ。金魚は其の透明な檻中で朱鱗をチカチカとさせて前後に揺れていた。矢張目を醒ました様だ。鉢の真中には申し訳程度に水草が起立して居り金魚は何に恐慌したか、その周りを狂った様に泳いで居た。チカチカと鱗を光らせまるで牛酪バタァになった虎の様な一心不乱さだった。

 其時は金魚も寝惚る事があるのだろうと気にも留めず次の頁に目を落とした。


 霜月に入ると其れは木曜の夜の殆ど同じ時分に起こると判った。

 其の異様な金魚の様子がこの時間だけと判れば身構えるのが人間であろう。

 この月の木曜は四度。二度までは平然と居られたが、不可思議な現象が細かな手順を踏んで行われて居る様だ、と気付いた時には怖気が走った。

 三度目の夜の事。何かまともな物に縋りたいと時計を初めて持込んだ時の事だった。先ずおもむろに窓と逆の方から温度の低い空気が漂い、晒した喉が冷える。悪寒に背を丸め持ち込んだ時計の秒針とただ微睡む金魚を横目で見比べて居ると、金に縁取られた黒目が穴じみて見え震えを喚ぶ。其れが前後にぶれ揺れ始める。──此辺で私は寒くて堪らなくなる。

 くるりくるりと速度を上げる朱。私は湧上がる恐怖に気づかない振りをしながら頁を捲る。し其れを止めて仕舞えば若し顔を上げてしまえば、瞳の虚ろな幽霊が私を覗込んで居る気がするからだ。怖気が先走って居る丈、と無理に文字を追う。指がかじかむ癖に挟む紙にはじわりと汗が染む。紙の擦れる僅かな音を態と立たせ乍ら狂った様な朱の回転が収まるのをじっと息詰め待つ。アァ早く終わってれ!

 然しこの日より更に妙な事が起き始めた。灯が消え欠けた。手に持つままの頁に刹那ごと消え欠ける電球の青白い光。通電に問題があろうかと怖々こわごわ窓の外を見遣ってもこの部屋の外に異常は見当たらず、顔を元に戻した私はまさかと息を呑んだ。何か鉢の辺りから暗闇が濃くなる気配に頁の端を歪ませた。するとジジ、と通電の微かな音が鳴り始め頁の白さと細かな文字が点滅した。チカチカチカチカチカチカ。然う成るとまるで目を瞑っても灯が点滅し続けて居る錯覚を起こし、吐き気が込上げた。然し目を閉じれば目蓋の奥の闇に目眩を起こし欠け、その儘で居られなくなる。

 アァ気が触れる──! と思う刹那、喉に刺さる様な冷気が消え去った。睫毛の間の灯に眩しく目蓋を持上げた時には、点滅は収まり金魚が悠揚と鉢を泳いで居た。

 恐怖の去った気配にドッと額から汗が噴出した。其れを手で拭い私はようやく安堵の息を吐き、平然と通電する灯の下の時計をふと見遣った。秒針は狂い逆回りに時を刻んで居た。

 これが二度続いた。


 師走に入り夕食後の読書は止めてしまおうかと思いあぐねる。人に話すにはたかが金魚と通電に異変が生ずるだけで気が滅入って居ると思われたくはなかった。然しアレは必ず来るだろう、と予測が出来た。

 此日遂に私は今夜又其れが起これば金輪際此処で読書はせぬ、と決心して揺り椅子に掛けた。外の曜日の読書も微かな物音に怯えてしまう様になって居たのだ。金魚に餌を遣るのも億劫になって居た。

 冬の自然な寒さで吐く息が白く濁り、頁を捲る指先がかじかむ夜だった。雪が降っても可笑しく無いと湯気の立つミルクを時計の隣に持ち込んだ。不思議な事に逆回りの時計は翌朝には元に戻るのだ。今夜も青白い灯の下でだまともに動いて居る。ミルクの温かな燻る空気が私を落ち着かせた。アァ今夜は大丈夫かも知れない、アレは来ないかも知れない。然う言い聞かせる心持ちに本を持つ手がじとりと湿った。金魚は瞳に虚を宿して此方こちらに黒目を向けていた。

 ──お出ましだ。口を付けない儘ミルクに薄ら膜が張った頃、ひぅと喉が冷えた。次は朱の回転。壊れた玩具の様に只回る金魚。時計は未だまともに回って居る。暫くイヤずっと時計を見て居る訳で無いから時間は判然としないが、兎角待つと灯が点滅し始めた。チカチカチカチカチカチカ、灼く様な白黒の点滅から目を逸らし息を詰めた。頁は湿って跡がついている。イヤ此は先週の跡か。目を逸らした先には狂った金魚が此方もチカチカチカチカと鱗を光らせ何処を向いても目眩をもよおす有様だ。私はとうとう目を閉じた。

 但し今日で最後かと思えば人間も僅か余裕が出来るらしかった。

 サア後は収まるのを待つばかり。目を開ければ終わりが訪れる。決めた通り此処を閉切れば良いのだ、と歯の根の合わぬのを何処か遠くで感じて居た。

 雖然けれども此夜は其れで仕舞いにならなかった。

 目蓋を挟んでも未だ点滅の止まぬ気配と凍えそうな程冷え続ける部屋にカチカチカチカチと私の歯は鳴り続けた。アァやっと気が触れそうだ、と脳天に痺れが走った時、突如灯が消えた。初め其れは判然としなかった。何しろ目を開けたか閉じた儘か判らぬ闇の中で、私の目は点滅を反芻し続けて居たからだ。但し、定かで無い視界の隅から何かの気配が近付いて来る事は判った。アァアレが此処に来る──!

 高まる恐怖で思わず目をくゎ、と見開いた時、ミルクの水面がぴちょりと弾けた。揺れたのでは無くまるで何かが一口舐めた様に雫を飛散らせたのだ。間髪入れず右手の甲につぅ、と何かが触れて行った。

 私は不思議な事に点滅する視界の中でその飛散った丸い雫達の再びミルクに帰る様子がはっきりと視え、そしてヒィ、と恐怖の所為で咄嗟とっさに触れられた手を払った。厭だ止めろ!

 然し次の瞬間、其れは唐突に私の遠い記憶を揺すぶった。私は子供の時分猫を一度だけ飼った事があった。小さな捨てられた猫を二晩だけ納屋に匿ったのだ。其の猫は私の用意したミルクを舐め、手に甘えて躯をこすり付けた。私は其の可愛らしさに夕食に遅れ、当然母に所在を知られてしまった。そして無情にも猫は何処かへ遣られた事を思い出した。

 ──アァ猫だ! これは猫の幽霊だったのだ!

 自らの閃きに手を打ちたい気分だった。間違い無い。金魚が幽霊を感じ取るかは判らぬけれども、猫の気配ならば本能じみた危機を覚えても無理は無かろう。ミルクを舐めるのも猫しかあるまい。アァ其れならば良い。私は読書も続けられる、と満足した。然うと判れば何も恐ろしく感じなく成るから不思議であった。私は心底安堵し揺り椅子に何日か振りに深く腰掛けた。ぞっと汗が周囲の気温で冷やされ身震いをした。

 灯がジジ、と息を吹き返して鉢の金魚が緩く回る様子を見ればすでに幽霊は去ったのだろう。くるりと水草を回った金魚は朱を反射させながら殊更ゆっくりと回った。穴の様な黒目が此方を見て居た。時計は矢張只管ひたすら逆回りを続けていた。


 

 師走も中頃とはえ習慣をねじ曲げる程の多忙を味わえず、暮れになる頃には猫幽霊との逢瀬を楽しみと思う様になった。登場の手順は同じく彼女──件の猫は雌だった──が部屋に入ると喉が冷え、金魚が恐慌するのち灯が点滅し始める。そして勿体つける様灯を消してミルクを舐める。然うしてとうとう私の右手に触れ腕に触れてれる。この頃は揺り椅子の背に移る。背を愛おしくなぞる様な愛撫。すでに本等投げ出している。幽霊ながら、すり寄ってくる体温すら感じそうな熱烈さで私に甘える。猫は可愛いとは思って居たが此程愛おしい動物とは知らなかった。

 然して彼女の愛撫は少しずつ長くなる様だった。今日は背の中頃まで届いた次は肩に届くだろうか、と彼女の去った暗い部屋でひとり次の逢瀬を待つ。半ば恍惚とし彼女のほか等考えられない夜を過ごす。青白い灯が逆回りの時計を照らし朱鱗をチカチカチカチカアァ来週はカーテンを引こう年末の喧騒が邪魔するといけない時計も灯も無くして仕舞おう。

 一切の闇と何の物音も聞こえぬ部屋で待ち兼ねた事は彼女を喜ばせた様だった。

 普段は暗がりに浮かぶ様な鉢を懸命に回る金魚も、青白く文字を照らす灯も見えない所為か、事は性急だった。アァ何故此迄彼女と二人きりにならなかったのだろう、と私は後悔した。今夜の彼女はミルクに見向きもせず触れて来た。

 予告なくつぅ、と指先を痺れさせて腕を脇腹を、背をなぞられた。なぞられた皮膚からゾクリと愉快とも苦痛ともつかぬ酷い快感が這い上がる。まるで自慰に興じて居る様だ、と私は腰を揺らした。猫に気を遣りそうになる等、と我ながら酷く淫靡で僅か羞恥が浮かんだ。同時に彼女の姿を捉えたい衝動が沸き、瞑って居た目を開いた。彼女の発する濃い闇が顔中の穴から入込む様だった。私は躯が溶けた様に感じ、陶然と愛撫の先を求め其の儘身を委ねようと抑えきれぬ息を吐いた。吸った空気からも容赦なく闇はからだに入込み、彼女に全て塗り潰される妄想に恍惚とした。

 然し猫は勿体つけながら又背を撫でる。丁度心臓の裏側か。顔を擦りつけて居るのかと目を瞑って愛おしい妄想にふけり焦れた。遂に肩口に足を引っ掛けられた様だ。右肩に確かな重みと首筋に何かが触れるくすぐったい感触に思わず背を丸めた。

 ぬら。

 首筋を頬を耳を食まれ丁寧に舐め取られた。已に私は目を開け居るのか瞑って居るのか平衡感覚すら失って居た。細く薄い舌と唇の愛撫に狂いそうな快感に身を委ねた。アァと私が声を出したが最後耳朶を強く食み彼女は去った様だった。

 

 全身の毛穴が開き闇が抜けて行く粟立つ感覚に翻弄されながら、事後の虚ろな気怠さの中、私は狭く埃っぽい納屋の暗がりを思い出して居た。母を遣り過ごす為の息を殺す間、彼女の舌が頬を1度だけ舐めた事を思い出して居た。寄せた柔毛の心地に子供乍らに此を守らねばと抱いた記憶を掻集める。滑りの無い硬い舌がざりと頬に這った感覚を喚び起こした刹那、背に怖じ気が走った。

 アァ、アレは私の知る猫の舌では無かった――! 其の発想に私の歯は再び根の合わぬ音を立て始める。猫で無いなら何か。ぬら、と耳朶に残ったアレの唾液が夜の空気に凍るが如く、恐怖が私の血を凍らせた。今更に得体の知れない物に身を委ねていた己の浅慮にかち合わぬ歯の隙間から唾が垂れる。

 然しアレは何かと確かめるすべは既に無い様だ、と眼球を無理に引き攣らせ乍ら周囲を見る。灯に照る朱の回転は緩慢になって居り、時計は逆回り、ミルクは出来たての儘に湯気を立てて居た。何もかも正常。只、私丈がカチカチカチと鳴って居り、脳味噌が電気信号を誤って仕舞った様だ。

 悪寒と幽霊がなぞった躯の右側が痛みで再び痺れ始める。何故か快楽の一欠片も無い苦痛が身の内から生じ、意識が歪んでいく。全く揺らがぬ灯の下、酷い痛みに視界すらチカチカチカイヤ此は歯の音か怖いのかアァ違う点滅して居る。私が目を閉じ欠けた時だった。

 ――唐突に部屋の戸が開かれた。

 橙の長方形で入り込んだ光に直ぐさま、私を襲っていた恐慌は嘘の様に霧消した。同時に黒いぐにゃりとした何かが喧しい音を出し部屋に入り込んだ。

「アァ貴方ここに居らしたンですね」「アラ耳の包帯が取欠けてるじゃ有りませンか、血が又」

 私は邪悪な化け物の登場に、突如として湧いた憤慨を以て出て行け! と手を振回した。けたたましい音とくぐもった音が左右の耳から鼓膜に反響する。机のカップが床に転げ落ちミルクが昨日の本をしたたか濡らしていく。紙の乳臭く染みる匂いが橙の影を舞った。然し其の黒い車厘ゼリィはぐにゃと揺れながら図々しく私に近付いた。仄かに温かいであろうカップを奪われる。

「アァ此腐ってるンじゃ有りませンか!」

 車厘の手に嵌められた指環がチカ、と灯を反射し私の目を灼いた。ふと見下ろせば私の左手にも揃いの其れが嵌められて居り、恐慌に陥る。私は立上がり喚き散らすが、車厘は其処等中を勝手に歩き回る。

「金魚鉢もマァこんなに曇って酷い。マァ臭い」

 私は今直ぐ出て行け! と左腕を出鱈目に振るい戸を乱暴に閉めた。振回した拳が寸前、車厘をぐにゃと打ち、気色悪い感触に吐き気が起こった。何か喚いて車厘は居なくなった。

 漸く静かになったが、息が切れ泥の様に重い躯に辟易する。突然覚束無くなった足に踏鞴たたらを踏み乍ら揺れる椅子に必死に掴まった。何故か自由にならぬ躯の右側を引き摺る様に掛ける。

 草臥くたびれ顎を仰反らせて唾を嚥下えんげした。酷い気分に顔中の汗を拭うが、何時の間にか右頬に絆創膏が貼られて居る煩わしさと、脳天が痺れる痛みが貫いた。其処等そこら中が痛み激しく私をさいなんだ。何故痛いのだ私は読書をイヤ猫を、と考える間も無く目の前が点滅し始めた。

 まさか又彼女が来たのか。寒い。チカチカチカチカチカチカチカチカチ――ァア! 気が触れる!


 ひぅ、と凍える闇の気配が舞い戻った。冷や汗を急速に乾かし躯中の痛みすら遠のかせた。然う成れば躯はぞくり、と期待で揺れた。アァ彼女が戻って来て呉れた! 感激と興奮で椅子から身を起こした時、ぬら、と耳をしゃぶり取る如く私の耳は舐め食まれた。激しい愛撫の感覚が私の意識を塗り潰し、ひと息毎に淫靡な心地よさに朦朧としていく。――然うか先程の事は一切合切夢であったのだろう。然うか、彼女はずっと私の傍に居てくれたのだ!

 最早、彼女が何者か等と些事さじであった。口の端から滴る己の涎にすら顎をくすぐられ声が漏れる。君よ、頬を舐めてれ。唇にアァ。暗闇の中、喉元に凍える様な気配が近づくのに甘い唾を忙しなく飲み、私は浅ましくも足を投げ出した。

 ぼうと薄目を開ければ、白く照らす灯が澄み切った金魚鉢を浮かび上がらせていた。金魚は眠って居るじゃないか。よく鰭を動かさずに寝て居られる物だ。誰だ曇っただの臭い等と謂ったのは昨日洗った許りじゃないか! 目の前の灯の下には温かく湯気を燻らすミルクと、昨日読んだ本が歪み一つ無く何時もの様に青白く照らされて居た。全くの正常。何だ真っ暗では無かったのか然うか何時も灯は点いていたのか。つぅ、と青白い暗闇の中彼女が触れた。右手の甲には激痛とも快感とも判らぬ痺れが走って、私は恍惚と朱く塗れた女の手が躯をなぞる様を見て居た。

 

 全てを其の手に委ね目を閉じ欠ける合間、鉢に浮いた鱗がチカと鈍く照った。


 (了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

micco @micco-s

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ