19

 夜半。侍女の足音が遠ざかっていくのを聞き、私はそっと寝台から抜け出した。

 今日の未明が、待ち望んだ約束の時。

 カーテンを開けると、月明かりが部屋に差し込んでくる。そのわずかな光に目を慣らすと、私はこの館に来る時着てきた、自分の服を取り出した。

 私は貴族として生まれたが、一人で身支度を調えられる。

 地方に赴く際、学院の限られた予算では、侍女などとても同行させられない。だから一人で身の回りのことができるようになるのは、学者として必須だった。だから私の仕事着は平民のものと同じような、脱ぎ着も動作も苦労しない形で作らせている。

 伯爵は私に自分の趣味に合わせたドレスを何着もあてがい、私もそれに従っていたが、着てきた服を手元に確保しておくことには何とか成功した。もしこの先、脱出の機をうかがうならば、あんなにコルセットでぎゅうぎゅうに締めつけられるドレスでは、身動きがままならないと思ったからだ。

 とはいえ、この服でもまだ裾が長い。ああ、こんなことなら開き直って移動用の乗馬服で来ればよかった。

 私はお針子からもらった鋏で、思い切りよく裾を切り詰める。着替えてみると、ちょうどふくらはぎの中程。はしたないにもほどがある格好だが、背に腹は代えられない。

 まずは私が全力で走れなければ、脱出などままならないだろう。

 あのお針子は、城とマリコーンの街を占領すると言った。つまり救出の軍勢は、大人数で攻撃を仕掛けるつもりでいるということ。それだけの兵力が来ているということ。

 その時伯爵は、メルル・ブラン王女とサフラノの近衛は、どう動くだろう。

 伯爵は当然、館の中にいる自兵で迎え撃つだろう。

 問題は王女だ。彼女は当然、その軍勢の主が誰かを知ろうとするだろう。そこに賢者の意志があるのか否か。そして賢者が、今ここに来ているのか否を。

 だがそれは、彼女の手勢が救出軍と真っ向から対峙する、となるとは一概に言えない。

 王女にとってグリマルディ伯爵とこの館に集ったアルバ貴族は、捨て駒だ。はなから見捨てるつもりでいる。

 彼らのために戦う義理は、王女にも他国の間諜たちにもない。

 彼らの標的はただ一つだけ――賢者カイルワーン、それだけなのだから。

 その時、彼女はどう動く? その時、私をどうしようとする?

 読めない。ただ一つだけ判ることは。

 兄様への人質となり得る私を、王女がただ放っておくことなど、ありえない。

 脱出しなければ。この部屋で座して待っているのでは、私はサフラノの手に落ちる。

 私は寝台から敷布を引き剥がすと、鋏を入れて細長く切り裂く。結んで編み、寄り合わせてロープを作りながら、私はふと遠い日を思った。

 そういえば、初めて兄様と陛下にお目にかかったあの日。私は『銀嶺の間』の兄様の寝室で、やはり敷布でロープを作ろうとしたっけ。

 あの時十一歳だった私は、敷布を裂くことができなかった。そんな私が二十五になったら、鋏で敷布を切っている。それはどんな巡り合わせ、どんな皮肉だろうか。

 私は大人になっても、やっぱり非力だ。

 あの日と同じく、自分の力だけで逃げ出すことは叶わない。けれども一本の鋏をこっそりと手渡してくれる人がいた。それを願い、叶えることはできた。

 兄様。私は満月の月明かりの下、祈る。

 兄様、どうか私にご加護を。どうか私を両陛下の下へとお導きください。

 そしてもう一度。もう一度だけでいい、レーゲンスベルグへ。あの人のところへ。

 私はまだ、あの人に何も言っていない。自分の気持ちを、あの人に伝えていない。

 言わなければ。

 愛していると。

 そして、愛してほしいと。

 たとえそれで、今度こそ完膚なきまでに拒まれたとしても。二度とあの館に足を踏み入れることが叶わなくなったとしても。

 そう、逃げていたのは私だ。だけどもう逃げられない。

 逃げてはいけない。

 私はそうして時を待つ。私が捕らえられている客間は三階。露台に続く出窓からは、マリコーンの市街を望むことができた。

 マリコーン全域を制圧するとなれば、軍勢は相当な数のはずだ。それだけの人数がこの夜間に行動するとなれば、必ず松明を灯すはず。

 城壁の外から攻め入るのか、それともすでに市内に潜入しているのかは判らない。けれども進んでくる彼らの灯りは、絶対ここから見える。

 私がここから抜け出すのは、その時だ。

 闇に目をこらしていると、突如赤い点が浮かんだ。そしてそれは、瞬く間に視界いっぱいに広がっていく。

 その光景は、私を驚愕させた。

 私を助け出すための軍勢、とは聞かされた。この城だけではなく、マリコーンを制圧すると言った。だがその意味が、ようやく実感できた。

 本当に、城と街を同時制圧できるほどの数が、来ているんだ。

 だけどそれを叶えたのは、誰だ。

 これほどの軍勢をここに送り込んだのは、そしてこれを指揮しているのは、一体誰だ。

 あのお針子は、アルバ廷臣に仕えていると言った。けれどもそれがバルカロールではないことは明らか。父の配下であるのならば、私にそれを隠す必要などない。そしておそらく、伯爵の手の者に監視されているだろう父に、これだけの軍勢を秘密裏に差し向けられるはずもない。

 けれども、父ではないとしたら、一体誰が。

 いや、今はそれを考えていても仕方ない。あのお針子の言葉を信じ、この目の前に広がる赤い光の主を信じ。

 行動、あるのみだ。

 私は作り上げた二本のロープを露台の欄干に結びつけると、一本を階下に垂らし、一本を命綱として腰に結びつける。そうして呼吸を整えること幾ばく。意を決して身を乗り出した。

 ところどころ作った瘤を足がかりに、慎重に下へと降りていく。そのまま地上まで降りられればよかったが、そこまでの長さは作れなかった。目標は、一階下の部屋の露台。

 無論落ちたらただではすまない。急場ごしらえのロープが、保ってくれるかどうかも判らない。私は恐怖心と焦燥感に苛まれながら、懸命に、けれども着実に下へと降りていく。

 階下の欄干に足がかかる。飛び降りるというより、転がり落ちるように露台の内に辿り着いて、私は荒い息を吐いた。命綱を切る鋏を使う手が、どうにも震えて仕方ない。苦心惨憺の後ようやく自由になって、私は立ち上がる。

 窓には鍵がかかっていたが、これも鋏を振り下ろしてガラスを叩き割った。階下の部屋が食堂であることも、外鍵もついていないことも把握済み。私はそっと食堂の扉を開けて、廊下の様子を伺う。

 ここからどうする。

 悲鳴が、怒声が遠くに聞こえた。軍勢はすでに、館の内部に突入している。

 彼らに保護を求めるにしても、一兵卒までもが私の顔を把握しているはずがない。誰が軍勢を指揮しているか判らないが、私がロスマリン・バルカロールであることをまずは信じてもらわなければならない。

 だがそんな考えは、杞憂だった。

 なぜならば、一兵卒までもが、私の顔を把握していたのだから。

「ロスマリンさん! ご無事で!」

 私は事態を把握するのに、一瞬の間を要した。

 私が彼らに遭遇したのは、館の中心部にある大広間。近づいてくる足音から逃げ続けた結果、私は館の中へ中へと進んでいたらしい。誰が着けたのか判らないが、そこにはすでに灯りが灯っていた。

 ここならば見通しがきく。味方がこの館の制圧に成功するまで、身を潜めておける場所はないか。そう思って調度を見回していたところだった。

 私が入ってきた扉と逆側の扉が開き、十人ほどの男たちが駆け込んできたのだ。反射的に身をすくめた私に、青年たちはぱっと顔を輝かせてそう叫んだのだ。

 今あなたたちは、私のことを何と呼んだ?

 様、ではなく。姫、でもなく。私のことを気安くそう呼ぶのは、あの街の人たちだけ。

 まさか。

「あなたたち、まさか、レーゲンスベルグ傭兵団!?」

「はい。一番隊第二中隊隊長、ジリアン・ゴールドラクスです。ロスマリンさん、お助けに参りました!」

 来てくれた。他でもない、あの人たちが来てくれたんだ。

 それは私に目眩を感じさせるほどの衝撃を与えた。

 目尻に涙がにじむ。本当はへたり込んで泣きだしたいくらい、嬉しかった。けれども崩れそうになる自分を叱咤し、期待にはやる胸を押さえて確かめる。

「一番隊? ということは、ウィミィが来てるの?」

 私の問いに、ジリアンはこの上なく嬉しそうに破顔する。

「いいえ、部隊長は別件の任務をこなされた後、都市防衛団の指揮をされてるはずです。こちらには、もっと凄い方がいらしてますよ」

 お楽しみに、と意味ありげに笑った後、ジリアンは表情を引き締めた。

「でも、ロスマリンさん。三階の客間に監禁されているとの情報を得ていたんですが、どうしてこんなところに」

「えーとそれは」

 さすがにそれは、気心が知れた相手にも言えない。何とか自力で脱出した、と答えた私に、ジリアンは焦りを見せた。

「まずいな、行き違った。本命の救出部隊は、一直線に三階を目指してしまっているんです。俺たちの任務は本来、二階の制圧でして」

 伝令、と彼は部下を呼ばわる。

「第一中隊に伝えろ。目標はこちらが二階中央大広間で確保、至急合流されたし、と」

 二人一組で走り去っていく部下を見送ると、ジリアンは緊迫した顔つきで私を見た。

「城外も制圧戦の最中なので、脱出しても安全とは言い切れません。館を制圧し敵を完全に無力化するまで、城内のどこかで安全を確保すべきかと」

「ええ」

「我々にとってもあなたは、大切な方です。必ずお守りします」

 この言葉の意味を――ジリアンの気持ちを、私は量りかねた。だが今はそれを問うている場合ではない。

 そして問うている時間もなかった。

「そこまでだ、ロスマリン」

 地を這う不快な声に、私は声の主を睨む。こちらの倍以上の敵勢が広間になだれ込み、私たちを囲む。

 やっぱり伯爵は、敵襲を知って真っ先に私の確保に動いたのか。

 メルル・ブラン王女と近衛の姿は、まだない。

 ジリアンが、そして他の団員たちが私を背に庇うようにして取り囲み、闖入者たちに対峙する。

 剣術や戦闘に疎い私にだって、この状況は判る。

 明らかに、多勢に無勢だ。

「お前は私のものだ。逃げ出すことなど許さない」

 傲岸に言い放つ伯爵に、私は叩きつけるように叫んだ。

「ふざけるな、他人の力を借りなければ、私に手を伸ばせもしない臆病者が!」

「なに?」

「この私が欲しいというのなら、まず先に何もかもかなぐり捨てて、己と愛を語ってみせろ! それもせずに他国人の口車に乗せられて反乱など、片腹痛い!」

 怒りが収まらない。二週間もの間、この男は私の敬愛する人たちを愚弄し続けた。それがどれほど私の心を苛んだことか。

 そんな男が私を愛しているだと。自分のものだと。寝ぼけたことを抜かすな。

「私は未来永劫、カティス陛下とマリーシア陛下、カイルワーン閣下の臣だ! 何が起ころうとも、私の何が踏みにじられようと、それだけは変えられはしない。それがロスマリン・バルカロールだ!」

 私の心の中には薔薇が咲いている。白と黒、赤と黄。尊く気高く美しい、アルバの四色の薔薇が。

 それを摘み取られたら、それはもう私ではない。

 そんなことも判らぬ男に、私の何を自由にさせるつもりもない。

「馬鹿な女だ。よほど痛い目に遭いたいとみえる」

 だが伯爵は、私の挑発にも動じはしなかった。ゆらり、と手にした剣を水平に差し上げ、笑う。

 伯爵の兵が、じりじりと間合いを詰める。剣を構え敵に向かい合ったまま、ジリアンが背後の私に告げた。

「俺たちが活路を切り開きます。逃げてください」

「でも」

「この七年、俺たちがどんな思いで、貴女と団長のことを見てきたと思っているんですか!」

 ジリアンの震える叫びを、私は驚きをもって聞く。

「団長は俺たちの親も同然です。俺たちはあの人から、これ以上大切なものが奪われるのを黙って見てはいられないんです!」

 ああ、と私は呻いた。

 判っている、私にも――多分、判っていないのは当の本人だけ。

 あの人がどれほど傭兵団の団員に、そして街の人たちに慕われているのか。

 我が身を省みず、街を守るために働き続けてきた彼に、街の人たちが本当はどれほど感謝しているのか。

 無口でぶっきらぼうでとっつきにくくて素直じゃないあの人のことを、街の人たちがどれほど愛しているのか。その安息を、心の底から願っているのか。

 街の人たちが、団員たちが、そして彼の親友たちが、どうしてあんなに私と彼のことを焚きつけるのか。その真意は、本当は私にも判っていた。

 誰もが望み、願っているのはあの人の幸せ。

 一人の人間としての、平凡でごく当たり前の幸せを、あの人に掴んでほしい。

 どれほど沢山の人がそれを切に願っているのか、本当は私にも判っていた。

 それこそが、ブレイリー・ザクセングルスの十四年に対する、レーゲンスベルグの答えだ。

 ただ判らなかったのは、その相手が本当に私でいいのか。

 彼自身が私のことをどう思っているのか。

 あなたたちが思うように、本当に彼は私を愛しているのだろうか。私を必要としているのだろうか。

 その答えは判らない。

 だけど、それでも。

「俺たちの他にも、沢山団員が来ています。みんな貴女のことは判る。大丈夫です」

 伯爵の手を振りきり、この広間を抜けだし、別の誰かに助けを求めろ。ジリアンの求めに私は頷いた。

 ここで私が伯爵の手に落ちれば、何もかもが無駄になる。

 睨み合い、歩を詰める。きりきりと張りつめる緊張の中、先に動いたのは傭兵団だった。一気に距離を詰め、振り下ろした剣。受け止め、払い、組み合うその一瞬、包囲の形が崩れた。

 その一瞬の隙に、私は囲みを飛び出した。私のために戦ってくれる青年たちの無事を祈り、一直線に扉を目指す。

「逃すか!」

 兵の一人が、私を取り押さえようと手を伸ばしてきた。掴みかかろうとしてきたその腕に、私は隠し持っていた鋏を突き立てる。

 勿論それは重傷を負わせるものにはならない。けれども相手を一瞬怯ませるには十分だった。よろけた相手の払いのけ、一歩先に踏み出した瞬間。

 衝撃が、きた。

「逃がさないと言ったろう?」

 いつの間に近寄ってきていたのだろう。伯爵の拳が、私の鳩尾に入っていた。

 痛みに足の力が抜けた。膝から崩れ落ちた私は、難なく伯爵の腕の中に囚われる。

 ぼやける視界いっぱいに、伯爵の顔が映った。

 勝ち誇ったような酷薄な笑みだった。

 私は懸命に意識を繋ごうと懸命に爪を手のひらに立てるが、それが精一杯。何の抵抗もできずに抱き上げられる。

 耳には剣が激しくぶつかり合う音が聞こえる。ジリアンたちはきっと懸命に戦ってくれてるのだろう。

 彼らがどれほどウィミィやイルゼたちに薫陶を受けた手練れであったとしても、あまりにも数が違いすぎる。おそらく防戦だけで手一杯。

 私を助けに入ることは、できない。

「私は王女たちと合流する。これ以上敵の侵入を許すな。何としても、前面で食い止めろ」

 伯爵が配下に命じる声が、朦朧とした意識の中に響く。

 いや、やめて。

 連れていかれる。誰も手の届かない遠いところへ。そこできっと、ひどいことをされる。

 決して逆らうことができぬよう、身にも心にも楔を打ち込まれ鎖で戒められてしまう。

 いや。それだけはいや。

 助けて。助けて、誰か。

 助けて。

「駄目だ、早く、早く来てっ! ロスマリンさんがっ!」

 切迫した声が耳を打った。かろうじて向いた横、視界の中にジリアンが映った。三人もの騎士を相手にしながら、それでも一歩も引かず。

 懸命に剣を繰り出しながら、悲痛な叫びを上げた。


「団長っ! 早くっっっ!」


 その瞬間、私は涙でにじむ世界の中で、見た。

 重い正面扉を蹴り飛ばし、大広間に飛び込んできた人の姿を。

 私は震える唇で、何とか言葉を紡いだ。

 思いのすべてを込めて、ただ一言。


「……助けて、ブレイリー」

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