彼方へと送る一筋の光

11

　幻肢痛、という現象がある。すでにないはずの手足が、うずき、痛む。まるで今でも、そこにあるかのように。

　原因は判っていない。そして抑える手立てもない。まともに考えれば、そんなことがあるはずもない。だが俺はそれを、身をもって知っている。

　右腕を失ったことを、後悔はしていない。それは本当に嘘じゃない。けれども以前の俺と今の俺は、間違いなく同じじゃない。あの時を境に、自分は否応なく変わってしまった。それは否定しようもないだろう。

　けれども不意に痛む右腕は、じくりと、きりきりと俺に突きつけてくる。

　お前が失ってしまったと思っているものは、本当は何なのかと。

「先日の築港記念日の夜会、どうして君は来なかったんだ？」

　施政人会議の定例会。円卓に居並んだお歴々の視線が集まるのを感じ、俺は気取られぬよう小さく嘆息する。

　俺は傭兵団の代表として、雇用主である施政人会議に対し、月に一度ほど現状報告を行わねばならない。それは議長だけの時もあるし、こうして定例会の場に加われと要請されることもある。

　施政人会議は999年のレーゲンスベルグ独立蜂起の際、カイルワーンが主導して立ち上げたものだが、独立後も市民の信任を受ける形で施政を行っている。あれから十五年、引退や死去で幾人かの議員は入れ替わっているが、さすがはレーゲンスベルグの各ギルドを束ねる長たち。変わらず食えない奴らばかりだ。

　施政人会議と対峙することは、ある意味傭兵団の命運を左右する戦いだ。毎月ある程度の用意と覚悟をもって臨んでいるというのに。

　だというのに、まずそれなのか。俺は盛大にこぼしたくなるため息を、ぐっと堪えるしかない。

「欠席の返事は、早々にしていたはずです」

「我々は、君にロスマリン姫の随伴を務めてくれと、そう頼んだはずだ」

　だからだろうが、と俺は渋面を隠そうともせず内心で呻いた。

　築港記念日は、確かにレーゲンスベルグの大事な祝日だ。庶民も富裕階級も、その日は仕事を休んで夏の祭りを存分に楽しみ、施政人会議はギルドホールで盛大な祝いの夜会を催す。そのことには何の異論もないし、傭兵団の長として俺が招待を受けることも珍しいことではない――俺が参加したいかどうか別として。

　問題は今年の築港記念日に、ちょうどロスマリンが傭兵館に滞在していたことだ。

　施政人会議はロスマリンに丁重な招待状を送ってきた。アルバとレーゲンスベルグとの友好のため。アルバ王国からの来賓として。そう言われればあいつも否とは言えないし、実際今までアルバからの使節として何度も夜会にも参加しているのだから、その招待自体は決して常識外れでも無礼なことでもない。

　だがよりにもよって、俺と連れ立ってこいというのは、どう考えてもおかしい。

　施政人会議が俺宛に寄こしたのも、正式な招待だ。その上で主賓であるロスマリンと一緒に、ということは、俺にあいつの従者を務めろということではなく、対等の夜会の伴侶として連れ添ってこいということだ。

　これに応じることなどできるはずがないだろう。馬鹿なことを言うなと思う。

「あなたたちは正気ですか？　こんな貧民出の不調法な男に、アルバ一の姫君を伴うことが許されるとでも、本気でお思いで？」

「無論正気だよ。今日の礼装も様になっている。ロスマリン嬢が見たら、惚れ直すだろうに」

　冗談抜かすな、と俺は内心で毒づいた。

　そりゃあ今日は、正式な会議だ。傭兵団を預かる者として、レーゲンスベルグの施政を担う者たちと会見――対峙する場だ。いつもよりはまともな格好くらいする。

　だが議長――フロリックの後を継いでその座に就いた、銃砲業ギルドの長・ジョッセルフェルトは平然と言ってのける。

「ロスマリン姫に、君に帯同するよう申し入れて蹴られたことを話したら、とてもがっかりした顔をしていたよ。――ザクセングルス、あれほどの女性に恥をかかせるのはどうかと思うぞ」

「俺のような男が伴侶なんて、一夜限りのことだとしても、そっちの方がよっぽど恥だ。違いますか」

　こんな下層階級の男が、分不相応に着飾ったところですぐ浅い底が見えてしまう。そんな奴が同伴者など務めたら、笑いものになるのはあいつの方だ。それが判っていて、どうして受け入れられよう。

　俺は堪えきれず小さく嘆息すると、決然として言った。

　たとえ奴らが俺たちの雇用主だとしても、これだけは決して譲れない。

「そりゃあなたたちは、ロスマリンをこの街のものにしたいだろう。あいつはそれほどの才覚の持ち主だ。そのことは重々承知している」

　あいつは今の時点でも十分歴史に名を残す才女だ。味方にしたい。身内に引き入れたい。そう施政人会議が思うのは、無理もない成り行きだ。

　だからこそ、俺は決して譲れない。

　そのために利用されるつもりもない。

「だがそれが、あいつが俺の下に嫁ぐことで叶うと思っているのなら、それは見込みが甘すぎる。そんな夢物語は起こりえないし、俺だってあいつと一緒になることなど考えてはいない」

「ザクセングルス」

　先ほどまでとは違う、ひやりとした――そしてどこか咎めるような口調で、ジョッセルフェルトは俺を質す。

「それは本当に、君の本心かい？」

　問いかけに、返せる答えは一つ。

「無論だ」

　これ以上下らない話を続けるつもりなら、報告は後日に改めさせてもらう。そう宣言した俺に、議長はわずかに苦笑した。

「確かに我々は、ロスマリン姫がほしい。彼女が市井に降り、生きていく場所としてレーゲンスベルグを選んでくれるのならば、諸手を挙げて歓迎するつもりでいる。それは全く否定しない。しかし我々が再三、君に彼女とのことを確かめるのが、そのためだけだと思っているのならば、それは君の認識が甘い」

　奴が暗に示唆していることが何なのかも判る。だからこそ俺は返事ができない。

　そうだ。俺だって判っていないわけじゃない。

　奴らの真の目論見が何なのか。何を憂慮していて、街の防衛を司る俺に何を求めているのか。

　判っているからこそ、俺はそれを受け入れることができない。

　沈黙した俺に、ジョッセルフェルトはそれ以上追及はしてこなかった。

　淡々とした会議が済んだ後。気鬱な思いを抱えたまま傭兵館に戻る気にもなれず、俺は街をうろつく。あてもなく向いた足が知らず港に向いていたのは、決して故のないことではない。

　埠頭では、入港した大型船が荷下ろしをしていた。茶か胡椒か、とにかく高価な荷なのだろう。丁寧に梱包された荷が、厳重な警戒の下、次々と積み上げられている。

　少し離れたところから荷箱に腰かけ、その様子を眺めていた俺は小さく呟いた。

　今あの船の砲で撃たれたら、ひとたまりもないなここ。

　レーゲンスベルグは堅牢な城砦都市だ。陸側からは容易に攻められはしないし、その時に撃退できるだけの戦力を、現在の都市防衛団有しているという自負はある。

　だが海側の防備は手薄もいいところだ。もし艦隊から一斉砲撃を喰らえば、それで全てが終わるだろう。

　それに備えるには、最低でも港に迎撃砲の配備が必要だ。それはある程度進めてはいるが、まだ全然足りない。そして最善にして、当然の結論は。

「軍艦の配備、か……」

　革命以前、蜂起の時に分捕ったアルバ海軍の軍艦は、カティスの即位時に返還した。よって現在のレーゲンスベルグに、海戦力は皆無だ。

　港の防衛は、至上命題だ。そんなことは都市防衛を引き受けた時から、判りきっていたこと。

　しかし十四年。俺たちはその解決の糸口さえ、見いだすことができずにいる。

　その理由は、極めて単純。傭兵団が都市防衛を行っている、ということ自体に、根本的な無理と矛盾があるからだ。

　俺たち傭兵団は、レーゲンスベルグという都市と雇用契約を結んでいる。俺たちは所有する軍事力で都市防衛を行い、それに対して都市が報酬を支払う。

　そのことについては、俺たちにも異論はない。街が拡大し、都市防衛団の投入する人員と装備を増強していくにしたがって、街から支払われる報酬も相応に増額されてはいる。

　問題は、海戦力の増強が必須であるにもかかわらず、それに必要な資本が俺たちにはないということ――当然だ。もともと貧民だった俺たちに、どうやって何隻もの軍艦を用意する金が用意できるというのだ。

　そもそも都市の防衛に必要な経費――防衛費は、税金でまかなわれる。ならば装備もそこから調達するのが筋だ。けれども税で購った装備の所有者は当然都市だし、それを運用すべき者は傭兵ではない。

　軍人という。

　ならば軍人になればいいじゃないか、という声が聞こえるが、それはもう根本的に違う。俺たちは都市防衛がしたくて傭兵になったのではなく、傭兵だったのが成り行きで都市防衛をしなければならない羽目に陥っただけだ。

　俺たちの本分は、都市外での徴募に応えての一攫千金――たとえ軍人にならなくてすんだとしても、税によって調達された装備は、都市外で私用することは許されない。

　つまり俺たちは、その装備を税に委ねてしまえば――装備を賄う資金を都市側に求めてしまえば、他国の徴募に応じられなくなる。

　それは傭兵団の在り方を、根底から歪めてしまうことになる。

　だから俺たちは、ありとあらゆる装備を自前で調達しなければならない。

　自前の装備で発する防衛力を提供することで、レーゲンスベルグから対価を受け取る。その原則を、俺たちは決して譲るわけにはいかない。

　けれども、砲だの船だのそんな高価なものを、俺たちだけでどうやって調達したらいいというのだろう。

　この十四年間、傭兵団は常に火の車だった。

　施政人会議の狸親父どもと喧々囂々の契約交渉が繰り広げられているが、都市防衛団はその性質上、莫大な収益を上げられるものではない。他部隊が外で獲得した利益を投資に回し、装備や人員を拡張し、そらなる利益の上積みを狙うことを繰り返し――だが亀の歩みだ。

　傭兵団の規模拡大だけで手一杯、とても海戦力までは手が回らない。

　この平穏は――カティスの虎の威を借りたこの街の平穏は、あと何年もつ。

　判っている。融資を受ければいいのだ。まず最初に資金を調達して、傭兵団自体を大幅に拡充できれば、もっと高報酬で大規模な徴募に応じられる。そうすれば経営を好循環に乗せることができるだろう。

　だが傭兵業なんて水物に、一体誰が投資してくれるというのだろうか。

　そう考えると必ず眼裏をよぎるのは、いつも同じ顔。俺は瞼を指で押さえて、深くため息をついた。

　この街の人間が、どうしてあんなにもロスマリンと俺のことをまとめたがるのか。誰もが口には出さない真意は、きっとそこにある。

　ロスマリンの私有財産と、バルカロール家が用意するだろう持参金。それがあれば、傭兵団の飛躍的な増強が叶う。それを皆は心の底で期待している。

　先ほどの会議で、議長が仄めかしていたのはこれだろう。

　それと同時に思わずにはいられない。ロスマリンの計画――未来のオフェリア王女を救出するための組織。ロスマリンは救出者たちを支援できる権力と財力のある組織が作れればいい、と言っていたが、それよりその組織が救出してしまった方が手っ取り早いのではないか。

　ならば作るべきはむしろ、軍事組織だろう。

　だとしたらそれは――未来のレーゲンスベルグ傭兵団こそが、適任なのではないか。

　もし、大陸暦1200年代まで、この街と傭兵団がもつのなら。今よりさらに発展を遂げることができたなら。

　この街なら、きっとそれをやり遂げられる。そう思える。

　俺の打算とロスマリンの打算は、確かに合致する。俺たちが結婚することは、双方ともに益になる。それは確かだし、多分あいつも百も承知だ。

　だが。

「打算で結婚できるほど……簡単な相手じゃないだろう」

　深いため息ととももにこぼしてしまった言葉は、一番聞かれたくない相手に聞かれていた。うなだれた俺の頭上から、からかうような声が降る。

「結婚なんて、打算のためにするもんだろうが。いつから結婚なんてしなきゃ女も押し倒せないほど、うぶなお子様になった？」

　簡単に言うなよな、てめえ、という言葉を俺は呑み込んだ。微かに痛む頭を押さえて見上げると、意外なほどセプタードは笑ってはいない。

　本気で言ってるのかよ、こいつ。今俺が置かれている状況が、どれほど面倒くさいものか判らんわけではないだろうに。

「押し倒して終わりにできるほど、あれは簡単な女じゃねえだろうが」

「娘を傷物にされたと、貴族のお父様が乗り込んでくるとでも？」

「怖いのはお父様じゃなくて、本人だ」

　その時セプタードは、ひどく訝しげな顔つきで俺に言った。

「お前、それ本気で言ってるのか？　だとしたらお前、鈍いにもほどがある。ロスマリンがお前のことを、どう思っているのか、本当に判っていないとでも？」

「……そこまで俺が馬鹿だと思ってたか？」

「判ってて、この体たらくかよ」

「俺は気づいていないのでも、判っていないのでもねえよ。――認めないだけだ」

　知ってる。判っている。あいつが何を思い、この七年間傭兵館を――俺の下を訪ねてきていたのか。それに気づかぬほど、俺は愚かじゃない。

　でも絶対認めない。肯定しない。

　あいつが俺に心を寄せているなど、そんなことは決して、あってはならない。

　だって、そうだろう。俺自身がそれを認めてしまったら、もう終わりじゃないか――。

　そこから俺は、どうすればいいというのか。

「なんでそこまで依怙地になる」

「当人同士の気持ちなんて、問題じゃないんだ。あの馬鹿は、一番大事なことが判っていない」

　あいつがなぜ俺に惹かれたのか。その理由は判っている。あいつ自身が、自分で言った。自分は名もないただの脇役だと。

　そう思わずにはいられなかった理由。それが身に迫って判るのが俺だと、あいつは察してしまったのだろう。その空しさが俺の中にもあることを、あいつは気づいてしまったのだろう。

　あいつの底に、どれほどの劣等感が燻っているのかも、それに捕らわれずにはいられない所以も、俺には痛いほど判る。

　そんな俺でも――俺だからこそ、思わずにはいられない。

　お前は、大した女だ。

「あいつは自分が、俺程度の男で受け止められるような女じゃないってことが、てんで判っていない」

　足りないんだ、俺じゃ。

　俺の言葉に、なぜかしばしセプタードは沈黙した。だがどこか苦渋を呑み込むような顔つきで、こぼす。

「確かに、ロスマリンは自分のことを過小評価しすぎだとは、俺も思う。それが無用な嫉みや、危険を呼び寄せていることに気づいていないことが危うい、とはな」

「あの馬鹿、容姿はアイラシェールと、学識はカイルワーンと比べていやがる。敵うわけがないだろうが！　歴史に残る世紀の美女と大天才だぞ。そんなんと比べて劣等感持ってどうするっていうんだ」

　アレックス侯妃の似せ絵は駆逐された。しかしながら、彼女を心の底で慕っていた者たちは皆、こっそり隠し持っていたわけで――だから俺も、彼女の絵姿を見せてもらったことがある。

　この絵に誇張がないのならば、よくこんな美女がいたものだ。こいつがカイルワーンと並んで立っているのならば、その光景はどんなに眼福だったろうか。

　俺ですら、そう思ってしまうのだ。幼い頃のロスマリンが、劣等感を持つのも仕方ないかもしれん。

『姉様は本当に、白百合のように清楚で可憐でいらっしゃった。王妃様は、大輪の蘭のように華やかで艶やかでいらっしゃる。美人というのはああいうのを言うのよ』

　カティスの女房であるマリーシア王妃の姿は知らない。だがロスマリンがそう言うなら、間違いなく美人なのだろう。

　だがこれを聞いた時俺は、奴に悟られぬようにため息をついたのだ。

　確かにロスマリンは、絶世の美女ではないだろう。栗色の髪も、榛色の瞳も、平凡だと言っていい。研究のために外を駆け回って日焼けした肌は、日にも当たらぬ令嬢たちよりは荒れてはいるだろう。宮廷の取り澄ました女どもは、そんなあいつを嘲ったり陰口を叩いたりしているのだろう。

　だが逆に言えば、馬鹿な女どもは上っ面のことでしかロスマリンを中傷できないだろう。そんなことは、ただの平民の俺ですら判るのだ。

　確かにロスマリンの根底からは、幼い頃不出来な姫だと言われ続けたことへの劣等感や、自分の身代わりにアイラシェールを死なせたという罪悪感がこびりついて離れないだろう。けれどもそれと同時にあいつには、自らの努力で道を切り開くことが叶ったという強い自信と自負も、また存在している。

　それがどれほどあいつを輝いたものに見せているのか。

　自分の意思で立ち、自分の選んだ道を胸を張って歩くその姿は、どれほど颯爽としているのか。

　惚れた弱みもあるが、俺は思う。

　あいつは、綺麗だ。

　そしてそんなあいつの姿に、一体どれほどの若い女どもが憧憬と羨望の眼差しを向けていることか。

　あいつがレーゲンスベルグにやってくるたびに上がる、若い女たちの歓声。あいつに似せた服装は、すでに『ロスマリン・モード』と呼ばれ、中流以上の女たちに流行している。王立学院に続き、女性に門戸を開放したレーゲンスベルグ大学には、あいつの教えを請うべく内外の才女たちが集まってきている。

　頭の固いジジイやババアは、女のくせにとかはしたないとか眉をひそめるが、多くの市民が好感と親近感をもって、あいつとあいつに感化された若い女たちを受け止めている。

　あいつの新しい生き方は、この独立と革新の気風が強い自由都市には、新しい時代の象徴のように好意的に受け止められている。

　ああ、そうだ。確かにあいつは、白百合でも蘭でもないだろう。

　けれども高嶺のエーデルワイスだ。本当に高い頂まで登らないと出会えない、素朴だが稀少で、高潔な花。

　俺がそれを摘んだとて、あたら枯らして駄目にするのがオチだ。

　それはあまりにも惜しいだろう。

「だがな、同時に思う――お前の卑下も大概だとな。俺やアデライデにしてみりゃ、どっちもどっち、割れ鍋に綴じ蓋としか思えん」

　俺の物思いをぶった切って、セプタードは告げる。その苦々しげな表情が、俺には不思議だ。

「確かにロスマリンは、大した女だ。それは認める。あいつの人生背負えないと、お前が怖じ気づくのも判らんでもない。でも、ブレイリー」

　静かに、哀切をもって、問われた核心の問い。

「お前、そんなに生きていたくないのか？」

　俺は、その問いに答えることができなかった。

　ああ、とも、違うとも。

　結局この十四年間、自分は生きたいと思って生きてきたわけではなかった。

　あの日死に損なったまま、惰性で生きてきただけだ。

　死にたいと思って、あの日戦ったわけじゃない。けれどもあの日に俺は死んでいた方が、むしろ楽だったんじゃないか。そう思えるほどの空虚な歳月。

　どんなに歳月がたっても、どれほど仕事に忙殺されても、生きているという実感は戻ってこず。

　生への欲求も、戻ってこず。

　これじゃ半死人か、亡霊だろう。自分でもそう思ってしまうのだ。

　そんな男が、どうしてあんないい女を自分のものにしたいなどと言えるのだろう。

　一体こんな俺が、あいつに何がしてやれるというのだ。

　けれども、じくりとまた幻肢痛が走って、俺は顔をしかめる。

　そんな俺に、セプタードは努めて淡々と言葉を継いだ。

「俺にはお前の気持ちなんて、判るはずがない。けれども一つだけ、お前には判ってないことが判っている」

「……なんだ」

「俺はあの日カティスとカイルワーンが、あの極限状態の中で、どんな思いでお前を助けようとしたのか――カイルワーンがどんな思いで、お前の右腕を切れという判断を下したのか。俺はあの日、意識のない瀕死のお前を前にした二人を、ずっと横で見てた」

　ただ重く、風に乗る言葉。

「俺は、全部見た」

　俺はその言葉に、ただ粛然とする。

　意識が戻り、城で養生している間、幾度かカイルワーンに見舞ってもらった。あいつはその時、右腕のことには一切触れなかった。

　けれども、あいつが抱いてくれていた思いは判る。はっきりと言葉にさえできる。

　それでも、生きていてほしい――ただ、それだけ。

「今のお前とロスマリンを見たら、カイルワーンが何と言うかな」

　一番痛いところを突かれて、俺は観念する。

　額を押さえて、深いため息をもらして、俺は白状した。

「セプタード、お前も本当のところを判っているんだろう」

「ああ？」

「結局のところ、俺が一番こだわっていることが何なのか」

　沈黙は、雄弁な答えだった。険しい表情で俺を見下ろす奴に、俺は告げた。

　ロスマリンの思いを決して受け入れられない、ごく単純な理由を。

「俺は、もう、片腕がない」

　本当は、ただ、それだけ。