10

 王宮を退出したのは夜半過ぎ。自室で寝間着に着替え髪を解き、私は深く息を吐く。

 明日も講義がある。早く休まなければならない。それは判っているのだが、どうにも目が冴えて仕方がなかった。

 私はどうしたらいいんだろう。

 それは近年、幾度となく胸の中で繰り返した言葉。そのたびに目の裏に浮かんでくるのは、たった一人の人の面差し。

 決して気安く笑わぬ、けれどもそれがかえって人を惹きつける峻厳な横顔。

 まさか自分がこんな思いを抱くだなんて、七年前のあの日は思いもしなかった。

 兄様と姉様に報いることに一生を捧げよう。誰にも寄りかからず、自らの身を立て、自分の足で生きていこう。そう思って王立学院に入学し、女官として王妃陛下に仕える道を選んだはずの自分が。

 まさか、こんなにも遠い人に恋をするだなんて。

 世界がもっと見たい。知らないことを知りたい。その願いを抱いて入学した王立学院で、私は一つの学問に惹きつけられた。

 博物学。この世界にある全てを収集分類し、調査記録し、後世へと遺す。それはアイラ姉様が私に読み聞かせてくれた沢山の知識、その基となったもの。まさに私が望む学問だった。

 教えを請うた教授は、貴族の子女である私を特別扱いしなかった。周囲の反対を押し切って私を採集旅行に連れ出し、その手法を叩き込んでくれた。

 そうして旅先で出会った未知の動植物や習慣や風俗、様々な伝承は、私を虜にした。同じ国だというのに、こんなに違う。だとしたら、この大陸を出た先にはどれほどに見知らぬ光景が広がっているのだろうか。

 大学を卒業した私は、王立学院に研究者として職を得られた。教授の下で経験を積み、やがては自分だけで採集に出かけられるようになった。その旅先では、本当に沢山の驚きに出会い、多くの成果を持ち帰ることができた。

 そうして七年は、瞬く間に過ぎた。教員としての、研究者としての毎日は充実している。まだまだ行きたいところがある。調べたりないことがある。その思いは決して変わらない。

 また、女官としての務めもそれなりには果たせたと思う。

 両陛下の結婚は、困難を極めた。マリーシア様の前歴――魔女の侍女だったベリンダのことは、ほとんどの貴族が覚えていた。だから声高に異を唱えた者も、二心を疑った者も、その出自を蔑んだ者も少なくない。

 そうではなくとも、国のために王妃にはしかるべき身分の姫君を迎えるべきだ。マリーシア様は側妾に留めるべきだと意見する者もあまたいた。

 そんなやかましい外野の声を、すべて陛下は封殺した。

 自分は彼女以外の女性を娶るつもりも、一時の戯れに他の女性に手をつけるつもりも一切ない。そう言い放った陛下の圧に、全ての廷臣と貴族が呑まれた。陛下の性格をよく知る――と同時に間違いなく事態を面白がっていたジェルカノディール公爵と父が後ろ盾となることで、なんとか翌年に婚姻と王妃冊立へとこぎ着けた。

 潮目が変わったのは、やはりマリーシア様がステフィ王子とアルテス王子をご出産なさったこと。そのお二人が今のところ、健やかにお育ちであること。そして何より、陛下が結婚を機に、誰の目にも明らかなほどに精神の安定を取り戻されたことが大きい。

 先にも記したとおり、あの暗黒の二年間、陛下は本当に怖かったのだ。

 ここで今、マリーシア様を失ったら、陛下はどうなってしまうことだろう。自暴自棄となったなら。憎悪に囚われることとなったなら。暴君へと変貌したなら。その怒りの矛先を我が身に引き受けることだけは、御免被りたい。そう誰もが思ったことだろう。

 結果、内心はどうあれ、貴族たちはマリーシア様を認めるしかなくなった。

 それでもアルバ社交界――特に女の世界において、マリーシア様の立場が安閑とは言えなかった。

 あの下賤の輩からアルバの未来を取り戻す。陛下をあの悪女から解き放つのだ。そんな身の程知らずかつ誤った激情に駆られ、暴走した令嬢もいた。

 そんな者たちとの暗闘については、あまり愉快な話ではないので略すが、私はマリーシア様の傍らで奮闘した。王立学院の学友、生徒のみならず、他家の令嬢たちを招きもてなした。マリーシア様の思慮深さと英明さは彼らを惹きつけ、素晴らしい楽才と詩才は後宮を明るさで満たした。

 風に乗り響き渡る美しい歌声は、誰しもの手と足を止めさせた。

 緋焔騎士団の王宮占拠以来、長らく絶えていた華やかな宮廷文化が、マリーシア様のおかげで戻ってきた。そう多くの者が口にした。

 そんなマリーシア様の傍らで、王子様たちをお守りしながら、これからもずっと生きていくのだと、私は信じて疑っていなかった。

 自分の気持ちに気づいてしまった、あの日までは。

 七年前のあの日、あんな無茶をしてまで傭兵館に潜り込んだのは、勿論あの真実を確かめるためだった。けれども決してそれだけではなく、私は彼の知遇を得ようとも思ったのだ。

 幼い頃から陛下と共にあり、あまたの戦場で共に戦い、革命後は陛下の後を継いで自由都市レーゲンスベルグを守っている人。

 兄様が全幅の信頼と憧憬を寄せていることを、何のてらいもなく私に明かした人。

 私と同じく、兄様と姉様の『運命』を知っている人。

 その悲痛も悲歎も全てを知りながら、陛下と兄様を為政へと見送った人。

 あの日陛下と兄様のために命がけで戦い、死線をさまよい利き腕まで失いながらも、地位も名誉も何も受け取らず、ただ黙って御前から去った人。

 ブレイリー・ザクセングルス。幼い日から、その名は私の胸の中にずっとあった。

 会ってみたいと思った。話がしてみたいと思った。そうしていつか聞いてみたいと思った。

 私のように伝聞ではなく、全てを傍らで見ていた人の――見ていることしかできなかった人の気持ちは、どうだったのかと。

 そしてそれは、言葉にして問わずとも判った。あの日、痛いほど判った。

 あの日、私の目の前で流された涙は、どんな言葉よりも雄弁に彼の気持ちを語っていた。

 苦しくないはずがない。悲しくないはずがない。空しくないはずなんてない。

 己が無力を噛みしめ、それでも歯を食いしばるしかない。

 そんなこと、問うまでもないことだった。

 彼の痛む心が目の前で形となって顕されたその時、私は為す術もなく逃げ出すしかなかった。

 締めつけられるように痛む胸を押さえ、私は傭兵館の客室にへたり込んだ。

 出会ったあの日から、胸の奥にわだかまり続けていた思い。それが『恋』であることを、その時初めて自覚した。

 この七年間、私は一体何度傭兵館を訪れたことだろう。

 それは勿論あの中庭が目的だ。そこで話をしたい――自分自身と、遠いところに行ってしまったかの人と向かい合いたいということ。それは勿論のこと。

 けれども、それだけではなかった。

 私はただただ、あの人に会いたかったのだ。

 あの中庭で佇んでいる時、私は常に彼の気配を感じた。

 私が傭兵館にいる間は、万が一にも危険なことがないよう、彼が絶えず注意を払ってくれている。中庭にいる時には、決して邪魔が入らぬよう――そして自分も邪魔をせぬよう、どこまでもさりげなく気を配ってくれている。

 そうして私の気がすむまで待ち続け、立ち上がれないほど打ちのめされている時には、そっと手を差し伸べてくれる。

 雨が降り出せば差し掛けられた傘や、談話室に用意されていた温かいお茶や冷たい飲み物。私が必要としているものを、彼はいつだって間違うことなく差し出してくれる。

 そうやって彼が紡いでくれる傭兵館の空気は、いつだって温かく穏やかに私を受け止めてくれた。生き馬の目を抜くような宮廷で、気を張りつめて暮らしている私は、あの館にいるほんの一時だけは、全身の緊張を解いて大きく息をすることができる。そう感じた。

 無論、傭兵団を一身で背負う彼の毎日は、激務だ。そして私もレーゲンスベルグでなすべき仕事は沢山ある。顔を合わせていられる時間など、決して長くない。それでも一緒に粉粧楼のテーブルを囲み、傭兵団の若い子たちの賄いの席に混ざり、図書室で兄様の遺してくれた書物――実は彼も意外なほど読書家だったのだ――について意見を交わす。その時間は私にとって、かけがえのないものとなった。

 ただただ、会えることが幸せだった。

 私は彼の示してくれる不器用な優しさにただ甘えた。優しさを受け取る以外の何をすればいいのか、自分が他に何ができるのかが、私には判らなかったから。

 だから無邪気なふりをして。強気で勝ち気で自信満々なふりをして。そうやって、ただ彼に甘えた。

 けれども、そんな彼と私が恋仲である、とレーゲンスベルグの街中でささやかれるようになってしまったのは、なぜなんだろう。

 そして彼の親友――セプタードやウィミィやイルゼたちにとって、それが既成事実、さも当たり前のように口にされるようになってしまったのは。

 私と彼の間には、本当に何もない。悲しいほどに、何もないというのに。

 私が彼に好意を抱いていること。それはきっとセプタードたちには見透かされている。その上で、私のことを応援してくれている。それもよく判るし、気持ち自体はありがたい。

 しかし、だ。彼は本当のところ、私のことをどう思っているのだ。

 彼が私に対して、好意に類する言葉を口にしたことなど、一度もない。

 誓って言う。一度たりともない。

 そんな状況で、どうして好かれているなどと信じることができるだろう。

 心底嫌われている、とは思いたくない。迷惑だと思われている、とも考えたくない。そんな悪感情を抱いている相手に、あれほどまでに優しくできるものだろうかと思ってしまう。

 けれども果たして私は彼に歓迎されているのか、私の訪問を嬉しいと思ってくれているのかが、正直判らないのだ。

 そして何より判らずにいること。確かめられずにいること。

 それは彼が、私が兄様に願い出た計画――真実を記した歴史書を作り、それを二百年後まで守り伝える組織を作り上げること。そしてオフェリア王女殿下救出を支援すること。これを彼は、本当はどう思っているのだろうか。

 彼は私に、再三再四「早く嫁に行け」という。自分の身分と釣り合う、しかるべき相手に嫁げと繰り返し言う。

 それは彼に心惹かれている私の胸に、何度でも痛く辛く突き刺さるのだが、女としての感情とは別に、考えてしまうのだ。

 それは私に、この計画を諦めろ、という意味なのだろうか。

 私の身分と釣り合う相手といったら、それは上級貴族か王族ということになってしまう。だがそれは、人ではなく家に嫁ぐということ。バルカロールのため、そして婚家のために、己の全てを捧げる人生を送るということ。

 そうなれば組織の創設はもとより、歴史書の完成すら危うい。

 彼はそうなってもいいと思っているのだろうか。

 私は彼にもまだ打ち明けてはいない。この計画を進めるために、兄様が私に預言書まで遺してくれたということ。己の苦痛を振り捨てて、未来に希望を繋ぐことを託してくれたことを。

 兄様が、あの兄様が「頼む」とまで言ってくれたことを。

 それを聞いたら、彼はどう思うのだろう。兄様を小さな弟分として、誰よりも愛おしんだのだろう人は。

 判らない。打ち明ける勇気が出ない。

 もし私が、兄様の願いを叶えるために手を貸してくれと望んだのならば、彼はそれを叶えてくれるだろうか。

 愛や恋ではなく。男女の間柄ではなく。兄様を介した同志として、ともに戦ってくれるのだろうか。

 それを聞いてなお、彼は私に全てを諦めて嫁げというのだろうか。

 そしてもう一つ、私は彼に対して思ってしまうことがある。

 兄様から預言書を託されて九年。それだけの時間を学者や女官として勤めてみて、はっきりと判った。

 組織作りは、残念ながら私の手に余る。

 私はおそらくそれに向いていない。

 私は兄様に『オフェリア様を救出したいと願う者たちを支援できる力を持った組織』と告げた。けれどもそれは具体的などんなものなのか。どんな形態で、どうやって発展し力を蓄え、歴史書を守り伝えていけばいいのか。その実際の形を、私はいまだ見いだせずにいる。

 組織を作るための資産や人脈を蓄えることは確かに進めている。けれども私の中の考えはまだ漠然としていて、形作るための一歩目をなかなか踏み出せない。

 そのことを考えるたび、やはり脳裏をよぎってしまうのはあの人。

 私を助けてほしい。あなたの力を貸してほしい。

 その言葉はいつだって、喉元まで出かかる。

 初めてレーゲンスベルグを訪れてから七年。その間に街の人口は膨れ上がり、領域は驚くほど拡大した。

 その治安を維持し外敵から防衛するため、傭兵団はさらに大きくなった。団員とその家族を合わせれば、きっとその数は万を超える。

 それほどまでの大所帯を彼は掌握し、遅滞なく回しているのだ。

 その経営手腕。その運営能力。

 きっと彼の方が、私よりも遥かに組織作りに長けている。

 まさに彼こそが、私の夢の実行者として適任なのだ。

 彼が私の組織を助けてくれたら――私の目的の伴侶となってくれたら、どれほどいいだろう。

 きっと両陛下も、そのことを望んでおられる。

 陛下もマリーシア様も、この七年で全てを私に語ってくださった。アイラ姉様やカイル兄様とどんな月日を過ごしたのか。どんな思いを分け合ったのか。あの時レーゲンスベルグで、アルベルティーヌ城で何が起こっていたのか。歴史の闇の向こう側に行ってしまった人たちは、どんな思いから何を語っていたのか。その真実の全てを、私に託してくださった。

 まだその全てを、私は完全に整理してはいない。歴史書が完成するには、まだ時間が必要だ。だが私は未来に遺す歴史のかけらを、すでに全て集め終わっている。

 私はそれを全て携えて、レーゲンスベルグへ向かえばいいのだ。もうその段階まで、時は進んでいるのだ。

 そうだ。マリーシア様の言うとおり、目的遂行のための手段として、私はブレイリーとの男女関係を抜きにして、レーゲンスベルグへ拠点を移すべきなのだ。

 この夢の遂行は、やはりアルベルティーヌでは駄目なのだ。

 けれども、だ。私はその決断を下せない。

 理由は単純。私は、あの人に振り向いてもらうことを――女として愛してもらうことを、諦めることができないから。

 あの人に振り向いてもらえないことを受け入れて、それでもなお至近にあることなどできない。

 言えばいいのだろうか。

 好きだと。愛してと。私を女として見てと。そうして私の伴侶になってと。

 私と同じ夢を見て。私と共に歩んで。

 そうあの人に、言えばいいのだろうか。

「無理よ……」

 震える呟きがこぼれ落ちた。

 どうしてあれほどの人が、どうして私のような不出来な小娘を選ぶというのか。

 どうしてあれほどの人に、これからの人生の全てを私の夢に費やしてくれと言えるのか。

 言えない。言って拒まれて、もう二度と会えなくなることが怖い。

 踏み出すことが怖くてたまらない。

 足がすくんだ私は、もう一歩も踏み出せない。

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