【一時掲載】愛されたいなら愛せ

阿部 梅吉

愛されたいなら愛せ

※本作品は過去頒布同人誌『愛されたいなら愛せ』のうちの短編です。本作品は予告なく削除することがあります。また同時掲載短編『愛したいから愛す』は割愛させていただきます(ご要望がございましたら掲載いたします)。




 穏やかな人生を送りたいと思っていた。

 小学生の頃から今に至るまで目立つ存在でもなかった。今までの人生で取りたてて幸せなことも無かったが、不幸なことも無かった。成績は割と良かったし、運動もまあまあできた(中学までずっと水泳をやっていた)。多少のいざこざはあったにせよ(人間関係で悩まない人間がどこにいる?)クラスでいじめられたとか、そういう記憶はない。概ね幸せな人生を送ってきたと思える。この世のシステムをうまく理解し、それに合わせるような行動をとることが私にはたやすくできたから、事実、私は幸せなのだろう。

 たとえ妻が私を愛してくれなかったとしても。


 吸引力というものがあるとすれば、まさしく彼女と出会ったのは吸引力のせいだった。彼女は二十一歳で、当時私は二十七で駆け出しの医者だった。彼女は大学で看護師になる為の勉強をしており(とはいえ、それほど熱心に看護師になりたいと切望しているわけではなかったみたいだ)、病院の実習で出会った。

 その時は取りたてて彼女に何の感情も抱かなかった。私はあくまで彼女を「実習生」として見ていたし、彼女もおそらく私のことを「先生」としか認識していなかっただろう。勉強することはいくらでもあり、時間がいくらあっても足りなかったことも要因だろう。

 そんなわけで彼女の病院実習は何事も無く過ぎていき、彼女はレポートに院長のサインをもらって、この病院から何の感慨も無く去って行った。



 二度目に会った時、彼女は以前よりも柔らかい雰囲気をまとっていた。お酒も入っていたのだろう、少しだけ興奮していた。

 我々は大学から――当時僕は大学病院に勤めていた――徒歩十五分ほどの距離にあるバーで再会を果たした。この店はあまり知っている顔がいないので、休みの前日にはたびたび足を運んでいたのだ。


 彼女は金のイヤリングをして黒いワンピースと黒い鞄(おそらくブランド物だろう)、を持ち、黒いヒールの靴を履いていた。髪を下ろし、赤い口紅をつけていた彼女は実習中とは雰囲気がかなり違っていたからか、私は一目見ても彼女だとは気づかなかった。

 もちろん彼女の視線には気づいていた。


「先生お一人ですか?」

 彼女は唐突に私に話しかけてきた。つい一週間前、私の職場を去った女だと気づくのに2秒かかった。最も、私が彼女に気付かなかったことは、御見通しだったみたいだ。

「君は?」

驚いた様子を悟られないように努めて冷静に言ってみるものの、彼女はニヤッと笑う。

「一人かもしれません。本当は約束していたんです」

 彼女の脚は綺麗に組まれていたが、グラスを持つ指はかすかに動いていた。それにさっきから、ちらちらとテーブルの上の携帯を盗み見ている。

「そう。そういう日もある」

「そうですね」

 彼女は笑おうとしていた。私の頭の中には、「女の子の喜ばせ方」と言う項目がすっぽり抜け落ちているみたいだ。何て返せばいいのかわからなかった。

「私、雰囲気変わりますか?私服だと」彼女は話題を変えた。

「そうだね、大人っぽく見える」正直な意見だった。

「黒い服が似合っている」

「ありがとうございます」

 彼女は満足したみたいに、両腕を伸ばし、ため息をついた。

「あの、答えたくなかったらいいんですけれど、先生の趣味って何ですか?」

「読書と電車、ここでステーキを食べること」

「医者にはいろんな方がいます」

 自分から聞いてきた割に、彼女は私の話を無視して彼女は続けた。


「多くの方は高いところや車などの乗り物が好きで、短時間で食べられる食事方法を知っています。徹底的に食べるものを管理しているお医者様もいれば、気にせず好きなものばかり食べる人もいます。将棋や囲碁などの頭を使うゲームが好きな人が多く、読書は嫌いな人と好きな人に分かれます。機械に関しても、割と好きな人と嫌いな人に分かれると思います。新しい電子機器をすぐに導入したがる人もいれば、必要最低限にしたい人もいる。また、ほとんどのお医者様は敬語を話せません。人に説明されるよりも、分厚い説明書を自分で見た方が、理解が進む。医療ドラマに対してはおおむね懐疑的」


 彼女は一気にそこまで喋った。私は聞きながらステーキを食べていた。

「ざっと、私の中の架空『一般的医者像』です。どうですか?」

「まあ、半分くらいは当たっているんじゃないかな」

 たしかに私も割と早食いの方だった。この話の間にも私はステーキを食べ終わろうとしていたし、タフじゃないとやっていけない仕事だ。なかなか当たっているんじゃないだろうか。ワインが欲しかった。

「それは、君が今までいろんな医者を見て来た結果? 何人くらいのデータなんだろう?」

「そうですね。そんなに多くないですよ。50人くらいです」

 データとして見れば確かに乏しいが、私は素直に驚いた。

「確かに少ないが、思っていたよりは多い」

「まだまだですけどね」

「大体人は『周りの人間三,四人』のことを『みんな』と言う傾向があるんだ。仕方ないとは思うけれど。だから君は頑張っている方だ」

「じゃあ、先生の嫌いなものって何ですか?」彼女は唐突に聞いた。

「いろいろ」 水を一杯飲む。

「先生のこと、知りたいんですよ。あくまで、個人的趣味というか」

「個人的研究というか」

 彼女は笑った。実習中に彼女の笑顔を見た覚えは無かったが、その笑い方は子供っぽくもあるが上品で、どこか憎めなかった。

 私はステーキを食べ終わったので赤ワインを注文した。

「先生はワインお好き?」

「あんまり詳しくはないけど好きだと思う」

「ステーキは?」

「好きだね」

「学生時代に運動は?」

「水泳をしていたけど、今はしない」

「彼女は?」私は笑った。

「いや」

「いない」彼女も笑った。さわやかな笑顔で。

「ところで私も『看護師』について興味があるんだけれど」

「いいですよ。何を聞いてもらっても」彼女の笑い方はすごく素敵だ。何か思わせぶりな口元と、見透かそうと思っても見透かせない瞳。


 僕は話題を変える。

「院長のことはどう思う?」うちの院長は、看護師の評判がいいとは言えなかった。腕は確かだが、いささか他人に求めるレベルが厳しすぎるのだ。

「私自身は院長のこと、あまり不満に思っていないんです。本当のことを言うと。でもまあ、毎日色々と振り回されている人は溜まったもんじゃないのかもしれませんね」

「ううん。そこはなあ……」

「でも、まあ、良いんですよ。良い手術さえしてくれれば。そう思いません?だって、良い手術もできて、人とうまく関係築けるなんて幻想ですよ」

目から鱗だった。彼女はどうやら本心で言っているようだった。会ったときより声のトーンが落ちている。大分興奮は収まって来たらしい。

「偉いね。そんな考えが出来るなんて」

「慣れているだけですよ。経験のたまものです。医者ウォッチャーも役に立ちますね」

 私は笑った。「医者ウォッチャー」か。なかなかいいセンスをしている。

「少しは寂しさ、晴れた?」

 テーブルにワインが二つ来た。私はそのうちの一つを彼女の前に置いた。

「これで紛らわしなよ、それでお終いにすると良いよ。今日のことは」

「なかなか素敵ですね」

「一応金はあるからね、これでも。使う時間がない」

「先生にこんなことされると思ってもみませんでした」

「一応君より年は食っている」

「医者はみんな気が利かないって、勝手に思ってました」

「まあ、それはそうに違いないね」

「いただきます」

(医者を待っているのかい?)

 何度も頭の中では言葉にしたが、口にするのはどうも憚られた。迷っていると、彼女から質問が来た。

「ねえ先生、世の中にはいろんな選択肢があります。それに焦ることは無いんです」彼女は唐突に言った。

「先生は何でお医者になろうと?」

「人を助けたかったし自分も助けたかった。その為に最善策を打ってきた」

「自分も助けたかった」彼女は自分の酒の入ったグラスをくるくると回した。

「素敵です」

「結局のところ、人は自分が一番かわいい」

「私も」

彼女がじっとこちらを見ていた。その目をどれだけ見ても、彼女の心の底を掴むことは出来ない。

「私も、私が一番かわいいと思います。当然でしょう?」

「当然だと思う」

彼女は脚を組むのをやめた。靴を片方脱いで、床に転がした。

「それでいいんだ」

「先生、幸せって何かしら」話が見えなかった。

「私にとってはステーキを食べること、君にとっては?」

彼女はまた、視線を斜め上にずらした。今度は少し長かったが、やがて諦めたように首を振った。

「そういうことを考えないこと」



 結論から言うと、その日に私たちは寝た。

 彼女はあの後、ひどく酔ってしまった。

「水をもらったのだけれど」と言って、彼女はまた突っ伏した。眠いのか、それとも吐きそうなのか。私は水をもう一杯注文した。

「何か食べないとだめだ」と私は言った。

「眠い」もう目が空いていない。とりあえずステーキを二つ頼む。彼女は答えなかった。

「意識はあるんだろ?」

 おそらく喋る気力も無いのだろう、指がかすかに動いただけだった。だが、その時私には彼女の意志がはっきりと分かった。

「医者と不倫しているんだろ?」

 彼女はいきなりがばっと起き上がって水を飲み、真っ赤な顔で私を見た。彼女からアルコールの香りがした。

「わああ、なんで、わかったん、ですか?」

「そりゃあ、君よりは長く生きているから」半分冗談だった、とは口にしなかった。まさか当たるとは。

「まさか院長と?」

「院長先生じゃないです、別の、ひと、ですけど」

「ふうん」

 知らない人か。良かった。世の中には知らなくていい事がたくさんある。無駄な好奇心で身を亡ぼすつもりはない。

「君は若いし魅力的だ。……客観的事実として」

「私は綺麗?」

「そう」

「私は客観的に綺麗?」

「そう。君は客観的に綺麗」

「客観的に統計学的に綺麗?」

「客観的に統計学的に綺麗だ」

「母集団が無作為に抽出されている統計的に綺麗?」

「そうだね、君は上位5%以内だ」

「なるほど」

よくわからないが納得してくれたみたいだ。

「先生もユーモアがおありで」

「私は偏差値50だ。何もない」

「まさか」

「だから人より少しだけ頑張らなきゃダメなんだ。そして実際に奏してきた」

「……誰でもそうだと思うけれど……」

彼女は低くポツリと答えた。脚をぶらぶらさせ、ハイヒールは転がしていた。

「先生」



 瞼をうっすら開ける。暗闇の中で彼女を私は探す。私たちはベッドの中にいた。

「よく、いじめが起こって、自殺した人が出てくると」と私は切り出した。彼女は唐突に喋りだした自分を不思議そうに見た。突然冬の池に頭から突っ込んだ人を見るように。

「加害者が一方的に悪い、いやいや、被害者にも悪いところはあった、って言う人がいる」 彼女は何も言わなかった。

「大抵その議論は終わらないし、互いに相反する概念だと思っている人もいる。まあ、『原因』という意味では……人は色々な解釈をする。一般的に言えば。でもまあ、被害者にも責任があるとか抜かす奴もいるからね。それは少し違うんだろうな。まあ、要するに」

 私は深呼吸をした。

「要するに、被害者と加害者の概念はいつの時代も『いじめ』においてはフォーカスされてきた」

 彼女はじっと私の話を聞いていた。

「フォーカスいたんだ。つまりね、どんな魚だって、水槽に入れればいじめをするんだ。イルカや牛だって鶏だってそうだ。君、イルカは好き?」

 彼女は小さく頷いた。訳が分からないみたいだった。

「イルカでも集団になるといじめをする。つまりね、結局のところ、私は『水槽という入れ物その物』が、いじめを生む機械なんじゃないかって考えているんだ」

「はい」

 彼女は低く、ゆっくり発音した。

「勿論加害者に『責任』はある。被害者にも何かしらいじめられる『要因』はあったんだろうね、そこはわからない。要因なんて、いくらでも作ろうと思えば作れるから。でもね、誰もシステムに注目しないんだ。周りの環境そのものに疑問を持たない。それは結構怖い事だと思う。ある意味では誰のせいでもない、必然的に物事が起こることがある」

」と彼女はまとめる。

「現象自体には理由なんてないんだ。起こるべくして起こる。でもそれで誰かを傷つけていいわけじゃない。いや、だからこそ、頭で理解していながら、そういう事が起きることは十分にあり得るんだぞ、って思いながら、それでも拒絶しなきゃいけないんだ。誰かをいじめる弱い心をね。だって、人を傷つけることは間違いなく罪だから。それはまた別のファクターなんだ、困ったことに」

「世の中には、同じ道理で、必然的にフラれる人間もいる」と彼女は言った。

「かもしれない。けどね、わかったうえで自分は行動しない、わかったうえで拒絶する、わかったうえで思い留まる、ってことはできるんだ」

 彼女は腕を組み始めた。

「不思議なことに、我々には感情とは別の概念がある。それをうまく働かせられる人間が、おそらく立派な人間なんだと思う。きついとは思うけれど」

「先生は何か……信念みたいなものがおありで?」

「あればいいな、とは思ってる。そういうのって、日々作り上げていくものだから」

「先生」

彼女はやっとこちら側を向いた。彼女の笑顔を見たのはこれで二度目だろう、たぶん。




 一年間、私は彼女と付き合った。月に一度ほど店で会って、夜を過ごすだけの付き合いだったが、どちらからともなく、自然に我々は結婚を意識し出した。

 そして穏やかに、誰の反対も受けることなく、我々は静かに幸せに結婚した。

 気づけば彼女は女の子を身籠っていた。なんだか遠い国の話みたいだったが、自分に子供が出来ることは単純に嬉しかった。

 我々は一年後、医院を開業した。娘が生まれて間もなかったのでてんてこまいだったが、なんとか二人で乗り越えた。妻は雑誌やら何やらを読んで学び、開業の手続きのほとんどを行ってくれた(医師向けの雑誌にはそういう事が書いてあるものもあるのだ)。

 彼女にはそういう能力があった。そのため、娘が幼稚園に通うようになったころ、妻が頻繁に家を空けるようになっても、私は何も言わなかった。


 穏やかで何一つ汚されることのない平和な十年が過ぎた。全てが穏やかで、この世は自分さえコントロールすれば、押し寄せてくる波を制御できると信じていた。


 あの時までは。



 娘が十歳の頃だった。

 彼女は突然やって来た。高くないヒールをコツコツと鳴らし、まとまりのある黒い長い髪を後ろで一つにし、黒のパンツスーツを着て、彼女は私の病院にやって来た。

 ある薬を販売するために彼女は私のところに来た。医療従事者向けの薬の営業者――俗にいうMR――だ。

 綺麗な顔立ちと背筋の良い、すらっとした体型。落ち着いた声と理路整然とした話の運び方。深追いしすぎず、それでいて浅くならないちょうどいい程度の世間話。不必要にだらだらと長居しないのも良い。いろいろな営業職の人に出会ってきたが、彼女は間違いなく優秀な部類だった。自信が奥にあふれている。澄んだ瞳。妻とはまた違う笑い方をする女性だった。



 妻はある時期から、一晩丸々家を空けるようになった。娘を連れて出ていくこともあれば、一人で何処かにふらっと旅行に行くこともあった。

 ほどなくして、彼女は海外の輸入小物のお店を開きたいと言った。金はどうするのだ、と言ったら、なんと既に当てがあるらしい。正直、経営の才能は私には皆無だ。売れる見込みはあるのか、私の病院の経営はどうするのかと尋ねたが、具体的な場所の目星もあるらしい。

「やってみれば良いんじゃないかな」率直な意見だった。

「僕は経営なんて毛ほどもわからないし、この病院だって君がいたから成り立ったものだ。君には僕にはない、経営のセンスがあるんだ。心行くまでやって見ればいい」

私は本心を彼女にぶつけた。彼女は心の底から安心し多様な顔を見せ、私に何度もお礼を言った。

「ホントはね、あれこれ言われたの。大学時代の友人とかに。ほとんどは看護師なんだけどね、そうね、とても反対されたのよ、私。経営って難しいからやらない方が良いんじゃないって何度も言われたの。でもあなたがそう言うなら、私頑張るわ」

「大丈夫だよ、時が経てば何もかもうまくいくさ」

 心の底から、私は彼女を応援した。経営がうまくいくことを心から願った。そしてその願いは現実のものになった。


 私が思った通り、彼女のお店はとてもうまくいった。彼女が仕入れて来た商品はどれも上品で、洗練されていた。難しい事はわからないが、私はこれならばうまくいくだろうと思った。 地道な努力の甲斐あってか、固定客も増え、雑誌にも取り上げられるようになった。

 二年後には、彼女は店舗を中心街に移転すると言った。この移転が更にお店を軌道に乗せた。大通りのアパレル店舗が立ち並ぶビルの中に移転したのだが、これがまあ、本当に良い立地条件だった。妻はますます忙しくなり、アルバイトも何人か雇った。お店の方は順調だった。



 彼女の異変に気が付いたのはその頃だった。元々彼女はおしゃれをする方だったし、彼女の趣味の細かいことはわからなかった。少し髪型やメイクを変えても、それはまあ気分転換の一種なんだろうな、と思っていた。でもよく考えれば、とても簡単なことだった。でも、気づいてしまったときにはもう、違う自分になっているものだ。

 彼女は、医者と寝ていた。

 簡単なことだった。彼女の携帯電話が鳴っていて、その着信がとある病院になっていた。何か彼女の身体に異変があったのではないかと、私は感じる。彼女にきく。大したことないと言う。大学時代の友人が看護師としてそこに勤めているから、たまに連絡が来るのだと言う。私は納得した振りをする。彼女の電話からは、男の声がした。

 勿論、男の看護師もいるし(私の知り合いにもいる)、こんな少ない情報で疑うのは甚だ間違っている。でも私には何かしら引っかかるものがあった。少なくとも、ただの友人とは言い切れない中であることはわかっていた。嘗ての恋人だろうか、それとも唯一無二の親友なのだろうか、今までで一番尊敬できる相手なのだろうか。

わからない。

 わかることは、「ただの関係じゃない」ってことだけだ。私にはわからないことがたくさんある。凡人だからだ。


 こういう時、妻なら何て言うのだろうか。シャキッとしなさいよ、浮気の一つや二つ、見返してやりなさいよ。ああ、今この状況となっては、彼女本人に相談できないことが、私のことを私以上に理解してくれる人間に相談できないことが、一番苦しい。

 私の腹の中は、彼女に対する懐疑心でいっぱいだった。にもかかわらず、私は普段通り彼女に接した。証拠がなかったということもある。でもそれ以上に、今の彼女との関係を壊したくなかったし、第一、彼女がもし本当に他の男に魅かれているならば、それはそれで仕方ない事だと思ったのだ。そうさせてしまった自分に何らかの問題があるのかもしれないし、ある意味で「誰のせいでもない」ことなのかもしれない。そういうシステムなのかもしれない。だから、私は割り切るしかないのだ。誰も悪くないのだ。全ては成り行きだ。自然災害なのだ。そう、まさに雷に打たれたような。




 或る雨の秋の日だった。道の脇には小さな水流が形成され、道路は洪水のようになった。雨粒はひとつひとつが大きく、傘に触れるたびにそれはバシャバシャと大きな音を立てた。

 彼女は透明のビニール傘を差していたが、ヒールの靴を履いていたせいだろう、彼女の小さな足はずぶぬれだった。ストッキングを履いているのだろう、雨で足首から下の肌が黄色くなっている。歩くたびに、きしきしと音がした。靴の中に水が入っているのだろう。私は女を自分の車に乗せた。それはとても自然な流れだった。相手が彼女でなくとも、私はそうしただろう。それに、目の前に雨で困っている女性がいれば、誰だって助けるだろう。それはとても自然な成り行きだった。

 あのMRの彼女と私は一緒に車の中にいた。


 女は言った、自宅ではなく会社まで戻りたいと。私は了承した。女は続けた。会社の人に見られたくないから、少し離れた場所までお願いしたい、と。私はこれにも了承した。彼女だって、いくら営業とはいえ、医者に車で送ってもらうところを見られるのはまずいだろう。

「一つ君にお願いがある」 と僕は言った。

「はい」彼女は大きな目を、こちら側に向けていた。私は前を見ようと努めて運転した。

「女性の靴下を買いたいのだが、どうすれば良い?」 彼女は目を丸くしたが、一瞬で頭を働かせ、

「駅になら靴下屋があります。コンビニにでもオーソドックスなものならば売っています」 と言った。

「私に案内してくれないか」

「コンビニでよろしいですか? まっすぐ行って左です」

私はそのままコンビニに向かい、ストッキングを買った。車に戻って、それを彼女に袋ごと渡した。彼女は大きな目を更に大きく丸くして言った。

「私にですか?」

「勿論。いらなければ売ればいい」

「お気遣いありがとうございます」彼女は微笑んだ。女性の笑顔を見たのはとても久しぶりな気がした。

「お陰様で、快適に過ごせそうです」

「何より」

 私は車を走らせた。彼女は後ろで束ねていた髪をほどき、櫛を使って丁寧に梳かした。全体を梳かし終わると、何も見ずにまた後ろで結んだ。私はそれを横目で見ていた。

 彼女がそのような何気ない動作をしているのを間近で見ていると、とても切ないような気分になった。世の中には、美しくて、存在しているだけで周りに何かしら感動を与える存在の人がいる。私にとって、最もそのような気持ちを思い起こさせてくれた人物は、無論、妻だった。



 すでに私は確信していた。彼女が外泊中に、他の男と会っていることを。彼女のお金の使い道を調べさえすれば、簡単にわかる事だ。携帯電話だって、調べれば簡単に証拠が出てくるだろう。彼女は今どこにいるんだ? 店にまだ出ているのだろうか。それとも、別の男と酒を飲んでいるのだろうか。

 妻は、彼女は、いつから私以外の男と頻繁に会うようになったのだろう。何が彼女をそうさせたのだろう。わからない。わからないことだらけだ……。

 彼女が相変わらずこちらをじっと見ていた。雨は一時より弱くなっていた。雨粒も小さい。それでも車のワイパーは動いたままだ。道路はまだ水浸しだ。


「先生、考え事でしょうか? それとも、具合が悪いのですか?」

「大丈夫だよ」私は努めて冷静に言った。

「このところ、天気もすぐれませんしね」

「大丈夫。風邪ではないみたいだ」

「本当ですか?」

「……実のところ、なんだか駄目みたいだ。大丈夫だと思っていたのに」

 彼女は私の顔を見て、ゆっくりと正面の窓の方を向いた。

「何か、深刻そうな状態ですね。あ、すみません。そこを左です」

「そうだね。思っているよりも、なんだか深刻みたいだ。不思議だけど」停止。

「確かに、問題は深刻になってから発見されます。腎臓病然り、癌然り」左折。

「なるほど……」直進。

 癌、か。それこそどうしようもない。

「先生、まさか、何かご病気で?」

「そうだったらまだましだったかもしれないな」

「よろしければ詳しくお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「とても下手な説明になるかもしれない」

「構いません」

 もう我々は彼女の会社の近くまで来ていた。私は路肩に車を止め、深呼吸した。そして作り笑いを彼女にして見せた。彼女は笑わなかった。私は心臓も胃もひっくり返ってしまいそうだった。いっそモルヒネでも打たれた方が楽ではないかと、半ばやけな気分になっていた。

「妻が男といるかもしれない」 私は一気に喋った。

 彼女は一瞬動揺したが、すぐに

「かもしれない」 と私の口調を繰り返した。

「客観的に言えば、確信は持てない。男といるのは事実だろうが、どこまで深い仲であるかまではわからない。単なる飲み仲間の一人かもしれないし、或いはかなり親しい中かもしれない。でも私はほぼ確信している。私の家内は男といる」

「それは直感なのでしょうか?」

「そうだろうと思うが、そうでないとも言い切れない。彼女が前より身なりを整え、雰囲気を変えた。家内の携帯には、男からの着信があった。妻は自分の店を持っていて、中々家に帰らない。字面だけ見ればそれ自体は何の証拠にもならない。 でも私は、家内が男と深い仲にいると思う。本当にそうなんだ。ばかげた話だと思う。しかし、実際に私の呼吸は苦しいし、胃の中に鉛があるような感じもする。そして、私はある光景を想像する。それは自分が望んで想像することではない。私の脳が、勝手に想像する……」


 私の隣にいる女は、私が置かれている状況を、私が感じていることをなるべく客観的に理解しようと努めていた。ただじっと私の話を聞き、あの丸い真直ぐな目で私を見ていた。


 想像だけが独り歩きしていた。妻が見知らぬ男の腕の中で抱かれている想像を。まるで夢のようだ。

 夢は、ごく一部のたまに起きる現象を除いて、制御不可能だ。まったく、どうして目を開けながら夢を見なくちゃあならないんだ? 

 私は怖い。私は紛れも無く、今まさに悲しんでいる。傷ついている。どうしようもない。苦しいと言うことがわからないくらい苦しい。自分の惚れた女が自分以外の男に惚れた。ただそれだけの話じゃあないか。よくある話じゃないか。もっと言うならば、好きな女が自分を好きになってくれる方が、確率としては珍しいくらいだ。

 まったくいつから、私は驕ってしまったのだろう……?


 私の肩を掴む者が言う。

「苦しい、ですよね」

 女は、私を見ていた。まっすぐ。髪もまっすぐだ。声もはっきりしている。顔だちも良い。そして若い。

「ああ」私も彼女を見た。自分とはまるで正反対の人間を。

「何故苦しいのかはわからない」

「でも実際に苦しいのでしょう?」

「とても苦しい」実際にとても苦しかった。


「奥様を愛しています?」

「私には妻しかいない。あれほど私の心を揺さぶる人間はなかなかいない。彼女はいささか、私の心を揺さぶりすぎる」 私は泣きそうだった。

「こんなにも苦しくなるくらいに」

「こんなにも苦しくなるくらいに」彼女が続けた。


 彼女は突然、自分のストッキングを脱いだ。突然のことだったから事態を理解するのに数秒かかった。しかし彼女は間違いなく、唐突に確実に、私の目の前で自分のストッキングを脱いだ。そして新しいストッキングをはいた。雨の日の車の中で、若い女性と二人きりで女の着替えを見るなんて、夢にも想像していなかった。


「先生はこんなにも、お気遣いのできる方なのに」

 彼女の脚は随分小さかった。あるいは、そう見えただけかもしれない。

「こんなことが出来る男性って、なかなかいません。実際」

「こんなこと?」

「雨の日にストッキングをプレゼントしてくれることです」

「その男性の前で着替える女性も1パーセントいるかいないかだ」

「なるほど、そうかもしれませんね」

そうかもしれませんね? 私にはそうとしか思えなかった。


「先生にはわからないかもしれませんが」と、彼女は笑いながら言った。

「問題です」私は彼女の顔だけを見ていた。

「人間、初めに好きになった人と、後に好きになった人、果たしてどちらが本当に好きな人でしょう?」

「そりゃあ、後者だよ」 僕は即答した。

「なぜ?」

「本当に初めの人を愛していたら、別の誰かを好きになんかならないだろう?」

「非常に論理的な答えです。世間の多くの人は、どうやらそう考えるようです」

「当然だと思うけれど」僕はため息をつく。これが真理だと分っているから悲しいのだ。

「でも」彼女は片方の靴を履いた。

「正解は、『人による』んですよ」 彼女はさらりと言った。

「なんだい、そりゃ」 僕はさすがに面食らってしまった。

「そういうもんなんですよ」

「それは問題として成立しないじゃないか」

「そうかもしれないですね、でも実際そうなんですよ。現実って。本当に好きな人がいても、誰かを好きになる事があるんです。というか、好きにということが」

「よくわからない」

「でも、そうなんです。大して好きでもない人間を、好きになったと錯覚するんです、人は。何故なんでしょうね」

「そういうものなのかい?」

「そういう時もある、ということです。多くの人間は、感じるままに行動するわけでも、思ったことをべらべら口にするわけでもないですからね。多くの言葉は飲み込まれ、行動はためらわれ、忘却の彼方に思いは追いやられてしまいます」

「随分詩的だ」

「はい。言葉と行動があらゆる物事を決めてしまうと、私は考えています」

「そこに感情はない」 と私が問うと、

「そこに『意志』はない」

 彼女は丁寧に言い直した。私は笑う。少しだけ呼吸が戻って来た。

「名言だね」

「そういうことがある、ってだけです。特定の誰かがそういう状態にあると言っているのではありませんが」

 私は窓の外を見た。雨は降り続いていた。止む気配はない。何本もの透明な線が、地面に当たっては消えた。 彼女はもう片方の靴を履いた。

「ところで君、車はどこに止めればいいかな?」

「ここで。ありがとうございました」

 しかし彼女は車から降りなかった。私もずっと窓を見ていた。雨だけが忙しく動いていた。私は雨粒がガラスにあたり、水流を作るところを意味も無くぼんやり眺めていた。彼女はずっと前を見ていた。彼女は微動だにしない。

「ちょっとしたことなんです」彼女は唐突に口を開く。

「私が何か言う、車に乗る、靴下を買う、お礼を言う。全部ちょっとしたことなんです。でも、そのちょっとしたことが、気づいたら大きな変化になっているんです。勿論変わらないこともあります。基本的に人間の感じることは変わりません。でも、些細なことでその人の世界は変わる。そんな気がしません?」

「する」彼女は自分の手を自分の息で温めた。

「とてもする」

「時々、道を進んでいると色んなものが見えにくくなることがあります」彼女は続けた。

「でも確かに存在するんです。ちゃんと」

「信じよう」 そうするしかなかった。

「信じるよ」

「先生のするべきことは、そうですね……」

 彼女の笑みの中の大きな瞳に吸い込まれる。私は彼女の言葉を受け入れる。




 午前一時だった。妻も娘も寝ていた。私は寝ている彼女らにそれぞれ口づけをし、何も考えずに隣に寝た。


 ちょっとしたことなんです。

 彼女の言葉がこだまする。


 言葉と行動が殆どの物事を決めてしまうんです。だから、惑わされないで。きっと存在しているから。


 確かにちょっとしたことだ。でも、私にとっては大きな一歩だ。


 明日の朝、私は妻になんて声を掛けようか考える。彼女のあどけない寝顔。もしかしたら私の知らない男がこの顔を見ているのかもしれない。そんな考えが自然と沸き起こる。でもそれは、そういうものなのだ。

 私だっていつか、今は考えられないことだが、妻とは全く違う人を好きになるかもしれない。それは誰にもわからないことなのだ。


 私は彼女の寝息に耳を傾ける。彼女は確かにここにいる。

 私に今できることは、明日の朝、カーテンを開けるよりも早く、妻に愛していると告げることだけなのだ。 


《了》

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