溶けるほど、あつい

怜 一

溶けるほど、あつい


 「ねぇ、麻里。チョコレートが溶ける温度って知ってる?」


 この間、興味深そうに手に取っていたミステリー小説から視線を外さない智世が、ぽろっと問いかけてきた。


 「温度?」


 私は走らせていたペンを止め、正面に座る智世に訊き返した。智世はそうとでも言ったかのようにぺらりとページをめくる。


 なぜ、私たち以外に誰もいない図書室で課題に勤しんでいる私にそんな質問をしてきたのか、その意図は定かではないが、とりあえず答えてみた。


 「26℃とか?」

 「まぁ、それも正解」

 「それも?どゆこと?」

 「一般的に28℃以上からと言われているから。でも、カカオバターと呼ばれるカカオの脂肪分の含有量によって決まるらしいから、26℃でも溶けるチョコレートもあるんじゃないかしら」

 「へぇ」


 どーでもいいー。

 チョコの雑学を披露した智世は、再び、黙りこくった。というか、本当に雑な学びだった。わざわざ私の勉強を遮ってまで出題してきたのだから、もう少しちゃんとした答えが欲しかった。


 味のないマシュマロを食べたような手応えの無さにモヤモヤしたまま、私は課題に戻ろうとノートに視線を落とす。


 「いや、なんなの?」


 無理だった。どうしても、このモヤモヤを解消しなければ課題に集中できなくなってしまった。


 「なんなのって?」


 智世は惚けたように小首を傾げるが、相変わらずこちらを見ずに、眼鏡越しの瞳は文字を追って上下している。


 「課題やってる友達にチョコが溶ける温度を訊いてくるとか、フツーないでしょ」

 「そう?」

 「そうだよ」


 そうじゃなかったら、この世の常識を疑う。

 ようやく小説から視線を離した智世は、黒々とした大きな瞳で私を見つめる。


 「それなら、何が普通なの?」

 「フツーは話しかけないよ。もし、話しかけたとしても、なんか恋人の愚痴とか欲しいモノとか最近面白かったこととかさ。とにかく、チョコの溶ける温度とかは話さない」

 「話さない?」

 「話さない」


 二重に否定されたのにも関わらず、特にショックを受けた様子もない智世は、片手で持った本で口元を隠しながらふーんと唸る。


 智世が世間の女子高生とは少し違う感性を持っていることは知っていた───そこが面白いし、好きなんだけど───けど、まさか、ここまで違っていたとは思わなかった。


 智世は、なにかを数えるように空いている手の人差し指から一本づつ指を立てていく。


 「恋人いないし、欲しいモノは買った。面白いことは…いま、ちょうど犯人への手掛かりを掴んだこと」


 恋人以外は、おそらく、今読んでいるミステリー小説にまつわることだろう。この不思議系文学少女め。


 「この小説の主人公が、どうやって犯人に繋がる手掛かりを手にしたのか、聞きたい?」

 「聞きたくない。もう、黙って本読んでて」


 語気を強めた私に、智世は目を細めた。智世の口元は小説で隠れているが、笑っているのが手に取るように解った。私より先に課題を終わらせて暇だからって、私を揶揄って遊んでいるのだろう。優等生の余裕を見せつけられているようでイラッとする。


 私の指示を無視した智世は、追い討ちをかけるように話し続ける。


 「麻里。わかんないところがあったら、教えてあげるわよ?」

 「いいよ。この範囲は自力で解けるから」

 「そう」


 ついに諦めたのか、智世は口元から小説を

離して、目前に掲げる。しかし、先程までとは違って瞳は文字を追って上下せず、私の表情を窺うように焦点を合わせていた。気にならないといったら嘘になるが、反応してしまうと智世の思うツボだ。ここは無視をして、とっとと課題を終わらせることに集中しよう。


 窓越しに見える茜色をした空が、段々と明度を落としていく。対照的に一定の白い光が降り注ぐ室内で、ついに、私は課題との長き戦いに決着をつけようとしていた。


 「よしっ。やーっと、終わったぁ」


 同時に、智世はパタンと小説を閉じて、私に白けたような視線を注いだ。


 「普通、気付かないわよね」

 「えっ?」


 また、いきなり。


 「私もどうかと思った。でも、チョコレートにまつわる話題なんて、これしか思いつかなかったのよ」


 ???????

 唐突な智世の言い分に、全くついていけない私の頭の中はクエスチョンマークに埋め尽くされた。


 呆気に取られた私を無視した智世は、


 「今まで、誰にもチョコレートなんて渡そうと思ったことなかったし、どうやって話を切り出せばいいかもわかんなかったの。だから、変な感じになっちゃって。ああああっ…」


 小さな悲鳴を上げながら、私に表紙を見せつけるように、小説で眼から下の顔を隠す。

 

 「ちょ、いきなりどうしたの?」

 「うーーー」


 返事の代わりに可愛い唸り声を上げて、膝を抱えて縮こまった智世は、まるで拗ねた幼稚園児のようだった。クールでオトナな見た目とはアンバランスだけど、そのギャップにトキメいてしまったのは内緒だ。


 智世から言葉を引き出すのは難しいと考えた私は、智世の隣まで行って、目線を合わせるようにその場でしゃがみ込んで、諭すような声色で懇願する。


 「智世。顔、見せて?」


 斜め下を見ている智世は、フルフルと顔を横に振り、私から顔を背ける。

 しょうがない。

 私は、智世の両耳に掌を押し当て、強引に智世をこちらに向かせた。


 「智世、私に顔を見せて」


 私の叱るような口調に驚いたのか、大きく見開いた智世の瞳には、私の顔が反射して映り込んでいた。


 「は、はい」


 素直になった智世は、おそるおそる、顔の前から小説をズラした。露わになった智世の顔は、耳たぶから頬まで、先程までの茜色の空みたいに真っ赤に染まっていた。その中心に据えられた、艶かしく濡れた桜色の唇は微かに震えていた。


 私は、気付く。

 最初に顔を隠していたときも、笑みを隠すためじゃなくて、赤くなった顔を見られたくないために隠していたんだろう、と。


 「バッ」


 智世は、消え入りそうな声で囁く。


 「バレンタイン、でしょ」


 その言葉で、智世の言わんとしていることを理解することができた。

 私の手から離れた智世は、隣の席に置いていた自分の鞄からちょこんとしたサイズの紙袋を取り出し、私に差し出した。


 「これを、麻里に渡したかったの。友チョコ」


 私は、受け取った袋の中を覗く。袋の中には透明な袋で包まれた綺麗に丸まったチョコレートが二つ入っていた。たぶん、手作りチョコで定番なトリュフと呼ばれるチョコだろう。


 「初めて作ったの。その、あまり期待しなっ!?」


 智世の言葉を遮り、私は、思いっきり智世に抱きついた。


 「ありがとおおおお!!めっっっちゃ嬉しい!!」


 我慢できなかった。こんなサプライズ、感動しないわけがない。


 「ねぇ、いま食べていい?」


 私の勢いに成す術のない智世は、メトロノームのようにうんうんと首を前後に動かした。クリスマスプレゼントを貰った子供のようにはしゃぐ私は、トリュフチョコを一つ摘んで、一口で頬張る。


 チョコの周りに付いているココアの粉が優しい舌触りになり、噛んだ中からはドロリとした濃厚なチョコが溶け出す。その美味しさは、とても初めて作ったとは思えないクオリティだ。

 

 「これ、めちゃくちゃ美味しい!これ、智世の手作りなんでしょ!マジですごいよっ!」

 「そ、そう。よかった」


 ホッと胸を撫で下ろした智世の顔からは赤味が抜け、いつも通りの顔色に戻っていた。そこで、あることに気が付いた私は、舞い上がったテンションを急降下させ、マイナスまで振り切った。


 「あー…ごめん、智世。私、今日がバレンタインだってこと忘れてて、なんにも持ってこなかったんだ。お返しなくて、ホントにごめん」


 首を横に振った智世は、


 「大丈夫よ。私が麻里に友チョコを贈りたかっただけだから。でも来年は、麻里の手作りチョコ、私に頂戴」


 そう言って、クスリと笑った。



+



 時計の短針が七を指した頃。

 図書室から退散しなければいけない私たちは、学生らしく灰色のダッフルコートを羽織って、帰り支度を整えた。


 図書委員の智世が室内を一通り見廻ったあと、私のいる席に戻ってきた。


 「忘れ物ないわね」

 「あっ…、うん」

 「麻里?なにか忘れ物?」

 「ううん。そうじゃなくて」


 どこかうわの空といったような私の様子を感じとった智世は、心配そうに訊いてくる。


 「本当は、チョコレートが不味かったとか?」

 「ちがうちがう!それはホントに違う!」

 「ほんとに?」

 「ホントに。そうじゃない。そうじゃ、なくて」

 

 歯切れの悪い返事は、より智世を困惑させた。しかし、この場で誰よりも困惑していたのは私自身だった。なんせ、智世の照れた表情を見た時から、胸の中が熱っぽくなっていたからだ。


 「具合でも悪いの?」

 「っ!?」


 私の側に立っている智世が、顔をずいっと寄せてきた。その瞬間、私の鼓動がどくんと強く脈打ったと同時に、よからぬ考えが頭を過ぎった。


 智世の唇に触れてみたい、と。

 

 「ねぇ。智世」


 あぁ。

 智世、許してくれるといいな。

 私は、智世の腰に腕を回して、強く抱きしめる。そして、不意に抱きしめられ戸惑っている智世の顔を見上げ、問いかける。


 「口の中の温度って、何度か知ってる?」



end

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