神崎ひかげVSヨコヅナイワシ

武州人也

駿河湾のトップ・プレデター襲来!

 鉛色の空の下、酒の匂いをぷんぷんさせながら、一人の女が海沿いの道を歩いていた。

 二十台半ばのその女は、名を神崎ひかげという。日陰という暗い名の通り、彼女の人生は順風満帆とはいかなかった。就職活動に難航し、やっと入社した会社では連日のように獰悪な顧客と虎狼の如き上司の板挟みにあって精神を摩耗させていた。

 そんな彼女の数少ない娯楽が酒である。


 ふらふらと覚束ない足取りで歩く神崎。そこに近づく、一人の男があった。


「おっ、お姉さん大丈夫ぅ!?」


 現れたのは、髪を金色に染めた、色の黒い男であった。如何にもチャラそうな男である。


「ええ……あなたられれすかぁ……?」

「随分と酔ってっけど、危ないよ。うちで休んでいってホラ」


 そう言って、男は神崎の左腕を担ぎ出した。その顔には下卑た笑みが浮かんでおり、「私は今からこの酔いどれ女を持ち帰ってイイコトします」と言外に示している。この男の所作の全てからは、性欲以外のものが全く感じられなかった。


 その時であった。酔った弾みで神崎がよろめいた。男は寄りかかられて体勢を崩し、咄嗟に神崎の持っていたバッグを掴んだものの、神崎がそのバッグを手放してしまったため、男はバッグを手に持ったまま、ばしゃりと音を立てて海中へと転げ落ちてしまった。


 突然のことに驚き、手足をばたつかせて岸へと上がろうとする金髪男。その背後の海面が、ゆらりと揺れた。

 

 次の瞬間、信じられないことが起こった。何か大きな魚が現れて、男の頭を食いちぎったのだ。


「うわぁぁっ!」


 水しぶきを浴びた神崎の酔いは完全にサメた。目の前に浮かぶ首なし死体を見て、神崎の顔はみるみるうちに青くなった。

 警察に電話せねば……そう思って、神崎はバッグの中を探ろうとした。だが……


「バッグ……ない!」


 見ると、神崎のバッグは海面をぷかぷか浮いていた。そして、間の悪いことに、バッグにあの大きな影が接近してきていた。


 ざばぁ、と、水を破って現れたのは、サメではない、何か見慣れない魚であった。

 実は、それは最近発見されたヨコヅナイワシという魚で、セキトリイワシ科最大種とされる新種であった。イワシという名に似つかわしくない(とはいえ分類上、イワシとはもくの単位で異なる別系統の種類なのであるが)一メートル半ほどの巨体を誇っているこの魚は、まさしく横綱という和名にふさわしい風格を備えている。もっとも、魚類に詳しいわけではない神崎にそのことを知る由はなかったのであるが。

 ヨコヅナイワシは、大きな口を開けて、海水ごとバッグを呑み込んでしまった。それは一瞬の出来事で、神崎には何もできなかった。けれども彼女は、バッグを呑み込んだ魚をこのまま見逃すことはしなかった。


「せぇりゃあ!」


 神崎の行動は早かった。靴と上着を脱いで身軽になると、冬の冷たい海に何のためらいもなく飛び込んだのだ。

 あのバッグに入っているのは、スマホや財布だけではない。今は疎遠になってしまったが、幼馴染でサバゲー仲間でもあった藤原がプレゼントしてくれたお守りも入っている。それは神崎にとってスマホや財布以上に大事なものであり、絶対に手放すことはできなかった。魚に呑まれたままなどもってのほかである。


「バッグを返せぇ!」


 神崎は鬼神もかくやという形相でヨコヅナイワシの両顎を掴み、精一杯の力をこめて外側に開いた。ヨコヅナイワシの顎が彼女の怪力に負け、みちみちという嫌な音を立てながら裂けていき、赤い血が海中にまぶされていった。神崎はそのまま、弱ったヨコヅナイワシを岸に放り投げた。駿河湾のトップ・プレデターと呼ばれるこの魚も、女の執念には敵わなかったのである。

 岸に上がった神崎は、ワニのように裂けてしまったこの魚の口に手を突っ込んだ。そして喉奥をかき回すようにして、バッグを掴み取ろうとした。


「……あった!」


 神崎の手が、バッグに触れた。そのままずるずると引きずり出すと、溶けかかった小魚や甲殻類にまみれたバッグが姿を現した。生臭い悪臭が鼻を突き、神崎は顔をしかめずにはいられなかった。


 バッグに付着したものの中に、光るものを見つけた。よく見てみると、それはふやけた指にはめられたダイヤモンドの指輪であった。どうやらこの魚は人の指を指輪ごと食いちぎった前科者であるらしい。

 神崎はそれを気味悪いとは思わなかった。寧ろ、思いがけない成果物に甚だ歓喜したのであった。


***


 例の事件の後、神崎はダイヤモンドの指輪を警察に届けた。結局三か月経っても持主は現れなかった。落とし物を届けた場合、落とし主が三か月現れなかった場合、それは届けた者の所有物となる。これに従って、指輪は神崎のものとなった。

 その後、神崎は手に入れた指輪を売り払った後に勤め先を退職した。社会人になってからの神崎を長年悩ませていた頭痛と肩こりは、会社を辞めてからというものすっきり消えてしまった。


「タマちゃん久しぶり。連絡できなくてごめんね」

「ひかげちゃん? 久しぶり!」

「色々大変でね……本当にごめん。突然ですまないんだけど、一緒に沖縄旅行行かない? もしよかったら都合の良い日を教えてほしいな」


 再就職への活動を進める神崎は、ある時、メッセージアプリで藤原を沖縄旅行に誘った。社会人になってからというもの、以前の仲良しぶりが嘘のように、二人は疎遠になっていた。こうしてやり取りをするのもいつぶりだろうか……神崎は懐かしい思いであった。

 とはいえ、タマちゃん――藤原は果たして突然の誘いに乗ってくれるだろうか。何分まともに連絡を取り合っていたのは二年以上前のことであるし、それに向こうにも色々都合があるであろう。疎遠になっている間に彼氏でも作っていて、そちらとの付き合いを優先するかも知れない。はっきり言って、望み薄というより他はなかった


「沖縄? 実は私も行ってみたかったんだぁ」


 藤原の返答は、神崎の憂慮に反するものであった。そのメッセージを見て、神崎はほっと胸をなで下ろすとともに、何だか胸の奥底がじんわりと温まるのを感じたのであった。








 神崎はその後、沖縄の海で全長五メートルを超えるイタチザメに遭遇することとなるのだが、それはまた別のお話……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

神崎ひかげVSヨコヅナイワシ 武州人也 @hagachi-hm

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ