第9話 雪女 参

「あ、うん」


 俺は思わず戸惑いの声を上げてしまった。

 当たり前のように考えていたことだが、よく考えれば、そんなことは無理だと否定できる。


 それは、俺がトイレに入っている間、静玉が外で待っていてくれている――だ。

 そんなこと静玉がするわけないし、俺もしてほしくない。

 単純に情けない。男として終わりだろう――それは言い過ぎか?

 だけど、それほどのことではある。


 俺はトイレの扉を開けて中に入る。そして扉をがちゃんと閉めた。

 そして、彼女が去っていく気配。もう外に、静玉はいない。


 さっきの部屋に戻ったのだろう。ここで問題が発生した。

 トイレから出た時の分かれ道は、どっちの道だったのか聞くべきだったが、タイミングを逃してしまう。


 静玉はもう外にいないのだから、聞きようがない。

 つまり、俺は帰り方が分からない。


 今きた道なのだから、覚えていそうなものだが、俺は独り言を長々と頭の中で呟いていたために、全然、まったくと言っていいほどに覚えていなかった。

 しかもこの家、大きいから迷いそうだ。それに人の家だ。

 身内の人と鉢合わせはきまずい……、さっきの叔母さんとなれば大丈夫だろうが、母親や父親と出会ってしまったら、終わりだ。


 トイレを済ませ、水を流しトイレを出る。

 さて、普通の人ならきた道くらい分かるはずだが……、それに、どんなバカでも一直線、分かれ道がない道ならば、なんとか元いた場所に戻れるだろう。


 しかし、それはスタート地点が分かれば、の話だ。

 一直線、一本なら間違えようがない。

 後退でもしなければ、無事に辿り着くだろう。


 しかし、もしもその一直線の道が――、二つあったならばどうすればいいのか。

 迷うなあ。どっちが正解だったかなど、覚えていそうなものだが――やはり無理だ。

 俺の記憶力では分からない。ギチギチと縛られているように、脳が痛む。

 うう、これが知恵熱というやつか?


「右に、左」


 分かれ道を見て、なんとなく呟いた。


「いや、でも結局、どっちにせよ一周するんだろうな、これ……だったらどっちに行ってもいいんじゃ――」


 不安要素を消すように声に出して言ってみる。

 うん、なら左から行こうか……特に理由はないが。

 そう決めて歩き出そうとした瞬間だった。


「右に行けば静玉に会えるよ」

 

 と声が聞こえた。

 男性として考えたら、高い声だった。


 俺、もしくは俺よりも小さな子共なのかと思えばそうではなく、普通に大人で、しかも四十代辺りのおっさんだった。

 白い髪の毛は、この一族の遺伝なのか、この男性も髪の毛は白く、しかし、静玉よりは濃い白色だった。


「左から行くと遠回りだ。右から行くことをお勧めするよ」


「どうも……」

 俺は一応、警戒しておく。


「ん? ……酷いな、親切心で教えてあげたのに」


「いえ、嫌だとか、面倒くさいとか、なんだコイツとか、そういう負の感情はないですよ。

 ただ、知らない人の言葉に耳を傾けるな、と教わったもので。

 それを実行しているだけです。そうですね、義務とか習慣とか、癖のようなものですね」


 テキトーに、その場しのぎで言ってみただけなのだが、


「うむ、見どころのある奴じゃないか、君」

 褒められてしまった。

 痛い。その期待が、俺の心を抉ってかき回してくる感じ、やめてほしい。


「知らない人、でないのなら、いいのだろう?」


「それは、そうですね。会話をすれば知り合いになれる、というわけではないので、俺と知り合いになるのは難しいですよ?」


「君は友達のお父さんとも、会話さえしなければ知り合いではないと言うのかい?」


 基本的には、と今この状況で言えるほど、俺もタフな心を持っているわけじゃない。


「そうですね、それはもう、知り合いと言えますね」


「そうか。なら、私が君をあの部屋に送っても、不思議ではないはずだ」


 せっかくの申し出だし、断る理由がなかった。

 警戒という面で見れば、あまり乗りたくはない誘いではあったが、知り合いと言ってしまったのだから、自分の言葉には責任を持つしかない。


「それじゃあ、お願いします」


「うむ。よろしくな、うつ君」

 その名前、絶対に静玉から伝わったな?


 うっくんとか虚っちとかよりはいいが、しかし、『うつ』と言い切りで呼ばれると、説教されのるかと思ってびびってしまうのでやめてほしい。

 なぜみんな、俺のことを本名で呼ばないのか。素直じゃないなあ。


「はい、よろしくお願いします。……えーと」

 俺がもたもたしていると、


王玉おうぎょくだ


 とおっさんが言った。


 なんとも強そうな名前だが、字で見てみると玉の王だ。

 なんだか、情けないというイメージがついているのは、俺だけだろうか。


「それでは行こうか」


 王玉さんの言葉で、俺達は歩き出した。


 ――

 ―


 無事に辿り着いたは着いたのだが、しかし、ここはさっき俺がいた部屋ではなく、しかも、比べものにならないくらい、ものすごく広い別の部屋だった。

 旅館の食堂くらいか?


 どれだけ広いかと言えば、この家にいるだろう人が、全員集合できるくらいには広いだろう。

 一、二……、数えるのも面倒くさいほどに、静玉の家族は多かった。

 まあ、妖怪なのだ、こんなものだろう。


 ここにいる全員が――つまり俺以外だが――全員が、雪女か雪男になるのだろう。

 寒くて仕方ないのではないか、という俺の不安は、部屋に入ってすぐに消えた。


「そりゃあ、調節くらいはできるよなあ……自分の特性くらい、操れないと」

 さすがにこの言葉の後に、「情けない」とはつけられなかった。

 人間一人、この状況で俺は孤独になりたくないし。


 すると、


「なにをのんきに突っ立っている。座ったらどうだ? 静玉の隣が空いているぞ?」


 王玉さんが声をかけてくれた。その言葉は助かった。

 言われた通りに、静玉の隣に座る。座布団があったが、使っていいのか不安だった。

 悩んでいると、「ご自由に」と声がかけられた。

 振り返ってみると、そこにはもう誰もいなくて、礼を言いそびれてしまった。


「それにしても」

 ……今日はパーティでもあるのだろうか。

 誰かの誕生日なのか、だが、そういう雰囲気ではない。


 もしかしたら人間にはない、お祝いごとでもやるのかもしれない。


「楽しそうな家族だな」


「はは、そうね」

 静玉の声は、意外だったが、弱々しかった。

 大丈夫だとは思うけど、心配になってしまう。


「張り切る時は張り切るから、わたしの家族は」

「今日はなにか、イベントでもあるのか?」


「うん、まあね」と静玉。


 イベントがあるにもかかわらず、静玉はなぜ、こんなにも気分が落ち込んでいるのか。

 聞いてみるのがいいのかもしれないが、俺がいきなり踏み込むべきではないだろう。

 俺はそんなことをする人間じゃない。

 巻き込まれることはあっても、自分から踏み込もうとはしない。

 そういう人間だと自分で自分を認識している。


 ただそれも、『だろうなあ』であって、『絶対にそうだ』とは言い切れないものだが。


「さて、お待ちかね、ね。じゃじゃーんっ、とチキンを持ってきたんやー」


 さっきの叔母さん――名前はなんだったか……ああ、そう言えば名乗ってはいなかったな。


 なら、叔母さんで統一していいだろう――、彼女が元気良く言った。


「おお、待ってましたよ!」と二十代前半くらいの男性。


「やはり仕事が早いですわっ」と同じく二十代前半くらいの女性。


 他にも、小さな子供や、俺よりも少し下くらいである、中学生の少年もいたり。

 八十歳くらいにも見える、おばあさんとおじいさんもいた。

 しかし俺の『くらい』という表現は、人間で言えば、だ……正確に言えば、もっともっと歳はいっているのだろう。年齢と見た目ががっちりと合っているわけではないのだ。


「ほらほら、うつ君よね? あなたも食べてくださいね」

 声をかけられた。声からして、さっき俺に座布団を勧めてくれた人だ。


 ああ、そうか、誰かに似ていると思えば、静玉に似ているのか。

 雰囲気だけでなく、顔も似ている。

 ということは、親子……母親と娘の関係と言ったところか。


「初めまして。蘭玉らんぎょくと言います。今日はこの子のためにどうもありがとうね」


「ええ、まあ、友達ですからね」


 模範解答のような返しをしておく。

 だけど、別に嘘を言ったわけではなく、俺は本気で彼女のことを友達だと思っているのだ。

 そこは間違えないでほしいところだ。


「それでも、ありがとう、よ」


「…………」


 隣を見てみると、静玉は未だに元気がなかった。

 食べ物で釣るわけではないが、目の前に美味しそうな食べ物が出てくれば、食欲と一緒に元気も出ると思っていたのだが、そう簡単にいくものでもないらしい。


 そんな静玉の異変に気づく者はいないのか、なんの違和感も抱かなかったようで、


「さて、始めるかっ」

 大声で叫ぶ。それに反応して、周りも「おおー!」と。

 正直に言ってうるさいが、まあ家の中だから別にいいだろう、と、両手で耳を押さえるような失礼なことはしなかった。

 本当に嫌だったら思いきり塞いでやろうとは思っているが。


「じゃあ乾杯でもね!」

 叔母さんが言って、さらに言葉を続けた。

「それでは、一言、お願いしますよ王玉さん」


「うむ」と王玉さんが立ち上がる。


「今回の決定には、不満も満足もあるだろうが、しかし、今はそんなことは表に出さずに楽しもうじゃないか。最後の最後、家族全員が揃ってのパーティだ。楽しまなければ損をするぞ」


 そんなパーティに、部外者である俺が居てもいいのだろうかと、気まずさと申し訳なさが感情を包み込もうとしているが、今ここで出て行く方が、場の空気を壊しそうだった。

 しばらくがまんしてから、落ち着いた頃を見計らって、出て行くことにしよう。

 うん、そうしよう。


 王玉さんが、コップに注いだビールを真上に上げた。

 ――たぶん、ビールで合っているだろう。

 色的に、そうなのだろうとは思うが、酒に詳しくない俺は、それが本当にビールなのか分からない……まあ、十中八九、ビールだろう、そう思っておこう。


 王玉さんは、まるで神になにかを捧げるかのような体勢だった。


 そして、声高らかに、宣言する。



 ――――。



 俺は、その言葉の理解を、数秒、いや、数十分はできないだろうと思った。

 一生か?


 現に今、できていなかったのだから。


 だから俺は、数秒前に言われた言葉を心の中で復唱した。

 正確に、確実に、間違いなく、模範するように。



『静玉、生贄いけにえを記念し、お別れ会を開始するっ!!』

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