六 桜咲く(前編)

 あれよあれよという間に高校生最後の年は過ぎていく。日頃から感情の変化が意外と表情に出ないと言われるかいも、心拍数をMAXにして臨んだ第一希望の合格発表は大学のウェブサイトで公開ということで、えいやと開いたそこでめでたく自分の番号を発見し、二度見三度見してから、喜びというよりは全てが終わったという安堵で膝から崩れ落ちた。


 それからおよそ二週間が過ぎて、気がつけば仰げば尊し我が師の恩と日本の文化に今ひとつ慣れきらない彼にとっては呪文の如く、しかし周囲は涙ながらに歌い、友人同士で肩を抱いて二次会だ春の卒業旅行だと盛り上がっていた。

 そんな中、櫂は何とはなしに落ち着かない気分でぼんやりと校庭の桜を眺めている。今年の桜は咲くのが早く、すでに七分から八分咲きといったところだろうか。あと数日で満開を迎え、四月には散ってしまっているかもしれない。

 その頃には、もうここに足を踏み入れる理由もないのだ、と気づいて、ついでにシルバーフレームの眼鏡と火のついていない煙草を咥えた顔がくっきりと脳裏に浮かんで、驚くほど心臓がおかしな動きをした。


「櫂、このあとカラオケ行くだろ?」

 当然のように声をかけてくる友人に曖昧に首を傾げていると、不意にその表情がしたり顔に変化する。

「あーそういうことか。お前にもついに春がくるのか、それとも——もう一回チャレンジ?」

 そう言って向けられた視線の先を見たが、そこには誰もいなかった。そこはかつて彼が華々しく玉砕した河内の席だが、その姿はクラスのどこにもない。あるいは、誰かに告白でもされているのかもしれない。そう考えたけれど、そちらにはあまり動揺しない自分に少し驚く。


 あれから河内と話したのは、エコバッグを返した時くらいだった。その時も、河内は何かを言いたげだったが、周囲が耳をそばだてていることに気づいたのか、口をつぐんでしまった。櫂としてもそれ以上は追及できず、以来少ない登校のタイミングが合うたびにちらちらと視線を感じるような気はしたものの、結局何事もなく卒業式を迎えてしまった。

 長年抱えた想いさえも、タイミング一つでぶち壊しにできるのだ、というのはいい学びとし、今後の課題にしたい。そんなことを考えながら時計を見るともう五時半を過ぎていた。そろそろ帰れと追い立てられる頃だと気づいて、鞄を持って立ち上がる。


 頑張れよっと斜め上の応援を背に、片手をひらひらと振って一番奥の階段を上がる。一応周囲を見渡したが、特別教室の並ぶこちらの棟には人気ひとけがない。こんな時間にこんなところを訪れるのは彼くらいのものだろうが、何となくもやもやとする心を抱えて、目的の教室へとゆっくりと歩いていく足取りはやや重い。

 それでもたどりついてしまったそこで、慣れた手つきで鍵穴に鍵を差し込もうとしたところで不意に向こうから扉が開いた。驚いて目を上げると、そこに立っていた相手は明らかに不機嫌な顔をしていた。不機嫌というよりは、烈火の如く怒っている、と言った方が相応ふさわしかったかもしれない。

「凛ちゃ……河内?」

「櫂くん……」

 怒りの表情が戸惑いに変わり、それからなぜか、キッと睨みつけられる。その顔は幼い頃の面影を残していながらも、確実に大人へと変わりつつある。すっきりとした頬も、整えられた眉も、そして意志の強い瞳も、思わず見惚れるほどに綺麗だった。だが、河内はなぜかわなわなと震える拳を握りしめて、唇を噛み締める。

「今日は……今日だけは仕方ないけど、私は絶対認めないから! 絶対ダメだからね!」

「……はい?」

 彼の内心などお構いなしに、全力で悔しそうにそう宣言され、その言葉の意味を吟味する間さえもなく、河内は全身から怒りを振り撒きながら廊下を駆け去っていった。


 呆然とその背を見送って、それから教室のプレートをもう一度まじまじと眺める。生物室——の隣の準備室。ここから河内が出てきたという事実と、彼女の言葉の意味が不意に脳内で処理され始めて、かちりと一つの結論を弾き出す。

「まじで?」

 その結論に、自分でも驚くほど動揺して、扉にかけていた手が止まる。二人がそういう関係なのか、いや、あの様子では河内の片想いなのか。いずれにしても、何を認めないしダメなのかは、わからなさ過ぎて回れ右をしようとしたが、今、この機会を逃せば、ここで美味いコーヒーを飲む機会は一生失われるかもしれない。


 それだけはひどく惜しい気がして、覚悟を決めて扉を開き、いつもの条件反射で後ろ手に鍵を閉める。日が傾き始めた窓の側の棚にいつものように腰掛ける背の高い姿が見えた。それでも、普段は彼が先に忍び込んでいて、後からその男がやってきて、呆れたようにため息をつくのが常だったから、こうして迎え入れられるのはそういえば珍しい。もちろん、約束をするなんて前代未聞だった。


 窓の外を眺めている火のついていない煙草を咥えた横顔は、いつもと変わらないように見えたが、なんだか左の頬が赤い。これはまさかあれか、といよいよ身を強張らせた彼に視線を向けて、和泉は呆れたような苦笑を浮かべる。


「言っとくが、事実はお前の想像の範囲内にはないと思うぞ」

「そのココロは?」

「まずはお題からじゃね、その場合」

「外の花壇とかけまして、今日の俺と解く、そのココロは?」

「いつでもお花畑?」

春来はるきたる!」

 平然と言い切るその顔に、近場にあったチョークを投げてみたがあっさりと受け止められる。そういうところはそつがなくて、だからこそこの男は意外とモテるのだ。まさか河内までもというのは予想の範囲外だったけれど。

「だから、ちげーよ」

 彼の表情を読み取ったのか、和泉はうんざりしたように肩をすくめる。

「違うって何が?」

「あーもう面倒くせぇな」

 がしがしと頭をかきながら、しばらく何かを考え込むようだったが、やがて本当に面倒くさくなったらしく、それ以上説明しようとはせずに、煙草を咥えたまま部屋のカーテンの隅に隠れたそれを開示する。コンパクトなそのマシンの横には透明なグラスカップが大小二つ並んでいる。


「濃いのと、まあまあ普通のと、どっちがいい?」

「濃いってどれくらい?」

「お前だと、ガツンと目が覚めるくらい?」

「……まあまあ普通で」

「了解」


 言いながら、プラスチックの容器に水を注いでセットすると、カップの代わりにビーカーを置いて、スイッチを入れる。ブーンとかゴゴゴゴとか、そこそこの騒音とともにビーカー半分くらいに湯気の立つ、わずかに濁った液体が溜まったところで、それを流しに捨てる。それから紫色の綺麗な小さいカプセルを取り出すと、上蓋を開けて放り込んでから、大きい方のグラスカップをセットして、もう一度スイッチを押す。

 同じような大きな音と共に茶色い液体が流し込まれ、カップ八分目くらいでぴたりと止まった。表面は淡い色の泡に覆われている。無言で差し出されたカップを受け取ると、それまでここで飲んでいたのとは比較にならないくらい深く心地よい香りがする。


「すっげーいい匂い」


 思わずこぼれたその言葉に、和泉は薄く、それでも嬉しそうな笑みを浮かべる。それが何となく子供がお気に入りの玩具を褒められた時の得意げなそれに見えて、櫂の心臓がざわついて、カップを持つ指の関節が熱を持ったように震える。

 そんな彼の動揺には気づいた風もなく、和泉は小さい方のカップを置くと、もう一つ今度は黒いカプセルをセットしてスイッチを押す。同じような音と、今度は小さなカップいっぱいのいかにも濃そうなコーヒーができあがる。いや、エスプレッソだろうか。

 カップを持って、こちらに目を向けると軽く掲げて、そういやおめでとう、と言った。

「何が?」

「卒業以外にあんのか? ああ、そういえば第一希望受かったって?」

 やるじゃねえか、と珍しく素直な賞賛とひどく優しげな眼差しに彼の頬も思わず緩む。照れ隠しの代わりにカップに口をつけ、口に含むと予想外に熱くて思わずカップを取り落としそうになった。

っち!」

 あの短時間で熱湯に変わる仕組みは何だったろうか、と火傷した舌を空気で冷やしながらぼんやり考えていると、笑う気配が伝わってくる。見上げると、呆れたような顔が見えた。

「学習しねえやつ」

「アルコールランプは沸騰状態が目に見えるけど、機械それは見えないだろ」

「何の言い訳だよ」

 くつくつと笑う雰囲気がいやに柔らかい気がして、まじまじとその顔を見つめる。無精髭の残る顔に、ヨレヨレの白衣、シャツがいつもよりヨレていないのは、一応卒業式を意識したためだろうか。式の時には確かに締めていたはずのネクタイはすでに外されて、襟元はラフに開いている。


 櫂がここにいるときは大体部屋の隅に座り込んでいる——いじけているともいう——か、あるいは、実験台の前の椅子に座っていて、和泉は窓際の棚に腰掛けているのが定位置だった。この距離がおよそ二年間ほとんど変わらず、先日の看病が最接近した距離だ。

 ほどよく冷めてきたコーヒーを飲み干すと、もう日が暮れてあたりは暗くなっていた。和泉はさりげなくカーテンを閉める。暗室と同じ程度の厚手のカーテンを締めてしまえば外へ光が漏れることはほとんどない。それは、もう少しだけこの時間を延長のばしてもいい、という意思表示にも思えた。

 それでも和泉はゆっくりと自分のカップを飲み干すと、こちらに向かって手を差し出してくる。首を傾げた櫂に、和泉は口の端を上げて、ニッといつもの笑みを浮かべてただその一言を告げる。


「鍵」


 急に後ろのポケットに入れたままだったそれが、存在を主張した気がした。

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