五 目の前の甘味と苦い約束

 目を覚ますと妙に頭がすっきりして爽やかだった。眠る前に感じていた熱に浮かされるような感覚も、節々の痛みも綺麗になくなっている。健康って素晴らしい、とかいは歌でも歌い出したい気分だった。


「……まだ沸いてんのか?」

 低い声に目を向ければ、薄明かりの中に浮かぶ顔から向けられている視線は怪訝そうで、どうやら気分どころか実際に鼻歌が漏れていた事実を認識する。ぼんやりしているうちに大きな手が額に当てられ、それから張り付いていた冷却シートが遠慮のない感じで引き剥がされた。ついでに前髪が何本か巻き添えを食ってピリリと鋭い痛みが走る。

「痛ぇ! もうちょっと丁寧に! ハゲたらどうしてくれるんだ⁉︎」

「人間の頭髪何本あるかわかってんのか?」

「百万本くらい?」

「どんだけ毛深いつもりだよ? その十分の一程度だな。いずれにしても一本や二本抜けたところでハゲる頭ならもう潔く諦めておけ」

 さすがは生物教師、人体の詳細データに詳しいなと半ば感心しつつも聞き捨てならない台詞に櫂の中に眠る男の本能が全力で反発する。

「諦められるかぁ!」

 なお、彼の父は頭部が寂しくなってきた頃合いから潔く坊主頭へと移行し、母からは某運び屋トランスポーターのようという過分な評価を受けている。現実はもう少し腹回りに貫禄があるし、頭部はもっと輝いているのに。

「……櫂?」

 怪訝を通り越しておかしなものでも見るような不審げな眼差しに、久しぶりに脳裏に浮かんだ家族の面影を振り払ってようやく我に返る。どうにもとっちらかった思考は高熱の後遺症だろうか。

 もう一度伸ばされた手が額に触れる。やや骨張った大人の男の手は仄かに煙草の匂いがする。それからようやく間近に迫ったその顔の違和感に気づいた。

「なんか足りない?」

「気づくの遅くね?」

 言いながら、胸ポケットから眼鏡を取り出してかける。だいぶ気づくのが遅れたが、眼鏡なしの和泉いずみの素顔というレアなものを見ていたらしい。

「もしかして、ダテメガネ?」

「まあな」

「なんでまた。ああ、足りない知的イメージを水増し——痛ぃぃ」

 言いかけたところで頬を容赦なくぐにゃりとつねりあげられる。両手を上げて恭順の意を示すと鋭い視線はそのままだったが一応解放された。


 白衣を着ていない姿は見慣れないせいか、いつもの「教師」という雰囲気を見事にこそげ落として、普通のわりと格好いい大人の男に見えた。ヨレたシャツの胸元から除く鎖骨やら喉仏やらが何だか大変に色っぽくホットに見えなくもない。とそこまで考えてどうした自分、とやや混乱した頭で、何となく呼びかけ方に困りつつ、それでも結局いつも通りに呼びかける。

「で、おっさん、なんであんたが家にいるんだっけ?」

「お前のとこの担任に看護を任せるのも何だから、優しい俺が引き受けてやったんだよ」

 確かに、彼の担任はこう言っては何だが校内でも話題の美人教師だ。政治的に正しい言い方ではないが、一人暮らしの家で、弱っている時に優しく看病なんてされたら恋に落ちてしまうかもしれない。だからと言って、今は担任クラスを持たないにしても、一応現役教師が学校をほっぽらかして一生徒の看病なんてしていていいものだろうか。

「暇な、の間違いじゃね?」

「恩人かつ年長者への口の聞き方ってもんを教えてやろうか?」

 言いながら両頬をぐりぐりと引っ張られる。何となく、夢現ゆめうつつに奇妙に戸惑う眼差しを見たような気がしたが、こうしてみればその表情は完全にいつもの飄々としたそれで、だからきっと熱に浮かされて見た幻か何かだったのだろうと思うことにした。


 そう結論づけたところでぐぅぅと素直な腹の音がする。そこで改めて時間の流れに意識が向いた。カーテンは半ば開けられていて、外は明るい。夕方にしては空の色が白い気がした。

「今何時?」

「四時半だな」

「夕方?」

「朝」

「え? 何であんた起きてんの?」

「こんなとこで寝られるかよ」

「こんなとこって」

 確かにベッドは櫂が占拠しているし、他には毛布の類どころかクッションさえもない。暖房エアコンとホットカーペットの効いた部屋は寒くはないけれど、横になる気にもなれなかったのは残念ながら理解できてしまった。

 眉根を寄せた櫂に、和泉は肩をすくめて笑う。若干くたびれた顔に、さらに申し訳なさが募るが、ぽんぽんと子供にするように頭を撫でられた。

「一晩くらい寝なくたって死にやしねえよ」

「アラフォーは徹夜すると、その後一週間きついって父さんが言ってたけど」

 余計な一言で、やわらかく撫でられていた手が、万力のような力で頭を掴む。

「誰がアラフォーだ」

「え、まさか違う? もっと上⁉︎」

「あのなあ……!」

 握り込まれた頭の痛みよりもそちらの驚きで思わず目を丸くすると、和泉はもう一度櫂の頬をつねり上げ、それ以上は何も言わずに立ち上がる。冷蔵庫を開くとこちらを見もせずに声をかけてきた。

「なんか食うか?」

「選択肢あんの?」

「おにぎり、ヨーグルト、それから……プリン」

「プリン? あんたが買ってきてくれたの?」

「……いや」

 何だか微妙な間を感じて、ふとベッドの前のローテーブルを見ると、几帳面にたたまれた花柄のエコバッグが見えた。それを提げている和泉を想像するとなかなかにシュールだったが、時代は多様性の時代。むしろピンクのものを女児に贈れば却ってややこしい事態になりかねない今は、おっさんが花柄のエコバッグを使ったって何の問題もないはずだ。どんなにその絵面が病み上がりの脳と表情筋に響くとしても。


「随分可愛いの使ってんすね。あ、いや、俺はいいと思いますよ。全然似合わないとか思わないしむしろ花柄のネクタイとか今度どうす——」

河内こうちが」

 予想外の名前が低い声で聞こえて、思わず言葉を失う。冷蔵庫の前の顔は、銀縁眼鏡が外の光を反射して、その表情が読めない。それでも、プリンが家にある理由はその一言で何となくわかってしまった。

りんちゃん——河内が来てくれた?」

「ああ、両親に頼まれたとかって言ってな」

 その言葉に、なるほど、と頷く。彼の両親は時差の大きな国にいる。それでなくとも何かが起きた時の緊急連絡先として、幼馴染の河内の両親の連絡先が登録されているのは既にお互い確認済だった。


 とはいえ、先日あんなことがあったのに、わざわざ見舞いに来てくれたのだろうか。しかも、彼の好物のプリンを持って。


 和泉は冷蔵庫からそのプリンを取り出すと、櫂に差し出した。「黄身が濃い」が宣伝文句のそのプリンは、確かに好みで、病み上がりの空きっ腹に沁みる。ほとんど飲み物の勢いで平らげた櫂を、和泉は奇妙に静かな眼差しで見つめていた。

「何?」

「別に。食えそうなら、こっちも食っとけよ」

 言いながら、おにぎりを差し出してくる。冷蔵庫で冷え切ったそれは、若干固く、もさもさ感が倍増していたし、よく見れば消費期限を過ぎている気がしたが、とりあえず気にしないことにした。

 それから差し出された麦茶を飲み(スポーツドリンクは合わなそうなので辞退した)、ヨーグルトまで食べ切ったところでさすがに食べ疲れ、手洗いを済ませてベッドに横になるかと考えたところで和泉が立ち上がるのが見えた。火のついていない煙草を咥えたまま、ジャケットを羽織るとそのまま玄関に向かう。

「この辺り全面禁煙なんで、吸うなら換気扇の下が」

 ベランダの煙草もご近所トラブルの元らしく、管理会社からは控えるように通達がされている。だが、和泉は呆れたように肩をすくめた。

生徒おまえの前で吸えるかアホ」

「ならなんで咥えてんの?」

「精神安定剤みたいなもんだ」

「精神、乱れてんの?」

 軽い冗談のつもりでそう言ったのだが、和泉は不意をつかれたとでも言うように、大きく目を見開く。それからほんの少し顔を顰めて、ぐしゃぐしゃと前髪をかき回しながら、そのまま玄関で靴を履く。

「もうお帰りで?」

「もう熱も下がったみたいだから、大丈夫だろ」

 後ろを向いたままそう言われた言葉に、返す言葉が見つからなくて、ベッドに座り込んだまま、何となく胸に吹く隙間風の原因に思いを馳せる。あまり考えない方が良さそうだ、と脳内の自分が呟いているのにも気づいてはいたけれど。

「ああそうだ」

 何かを思い出したかのように振り返ったその顔が、櫂を見てわずかに驚いた表情に変わる。しばらく何かをためらうようにさまよった視線は、だが、ふとローテーブルの上で止まってその動揺の色は瞬時に消えた。


それエコバッグは学校で返してくれればいいそうだ」


 凛が来たときの様子とか、どんなやりとりがあったのか、とか本来なら聞くべきことはたくさんあるような気がするのに、座り込んだベッドから和泉の立つ玄関までの距離が果てしなく遠く思えて、さらに胸に吹く隙間風が強くなる。

「河内、何か話があるみたいだったぞ」

 櫂の内心を見透かしたように軽く笑ってそう言った顔の、眼鏡の奥の眼だけが笑っていないように見えるのは気のせいだろうか。

「話……それって」

 受験期間中のこの時期に、わざわざ一人で訪ねてきてくれた上にされる話など、どんなに鈍い彼でも一つしか思いつかない。病み上がりの回らない頭で、重なる混乱に動揺したままじっと和泉の顔を見つめていると、その表情が苦い笑みに変わった。

「卒業式終わったら、準備室来いよ」

「え……?」

、美味いコーヒー淹れてやる」

 最後、という言葉が何か特別にえぐりこむような響きを持っているような気がするのは気のせいだろうか。その真意を図りかねて戸惑う櫂に、和泉はすぐに苦笑を消して、いつも通りの飄々とした癖のある笑みを浮かべる。

「お大事に」

 戸締りはちゃんとしろよ、とそれだけ言い置いて、扉を開けて振り返りもせずに出ていく。パタンと閉じた扉をしばらく眺めていたが、それ以降は何も起こらない。軽くなったはずの体に、沈み込むような重い心に首を傾げながら、とりあえず果てしなく遠く思えた玄関まであっという間にたどり着き、鍵をかける。

「えーっと」

 声に出してみたが、何を言うべきなのかもわからなかった。ふと、玄関に落ちている銀色の何かに気づいて拾い上げる。


 それは、和泉の古めかしい四角いライターだった。

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