ぬかるみ

朝枝 文彦

1話完結

「ねえ、火焼前(ひたさき)からあの大鳥居まで、何歩で行けるか数えてみましょうよ」

 頼子はそう言ってえくぼを見せると、月明かりの平舞台を歩き始めた。

 ハーフアップの黒髪が、僅かに残したオレンジの香りが、厳島神社に流れる古(いにしえ)の微風に溶けていく。

 一滴落ちて、また一滴、白壁(しらかべ)と、白衣の時間を幾星霜、数え続けし点滴に、生気を吸ってか吸われてか、頼子の細い右腕に、深く滲んだ注射痕と、夏の盛りにそぐわぬ白い長袖とが、今、擦れ合うのを思って、僕の心は、痛んだ。

 潮が引いて大鳥居までの干潟が現れる、夜中の神社に忍び込もうと言い出したのは、頼子の方だった。高校生にもなって、そんなイタズラをするのは良くないと、僕は反対した。きっと罰(ばち)が当たってしまうよ、とも僕は言ったが、今こうして、大野瀬戸の潮騒を遠くに聞きながら、二人で平舞台に立っている。

 明日から始まる、広島市内の大きな病院での長い入院生活を思えば、今日ぐらいは仕方がない。

 昼間にここを訪れた時の頼子の笑顔が、あまりに輝いていたから、仕方がない。

 今、平舞台の縁(へり)の所で小さくなって、下の様子を伺っている頼子の後ろ姿を、僕は思わず抱き締めたくて、だから、仕方がない。

 彼女は僕のこの、仕方がない気持ちに、気が付いているのだろうか。


「じゅ~いっち、じゅ~に、じゅ~さん」

 頼子の声を背に聞きながら、僕は慎重に、平舞台から夜の底へと降り立った。一センチ程の海を含んだ苔の絨毯(じゅうたん)が、踏まれてグシュリと潮水を吐き出した。気付けば潮騒が、近づいて来たように思える。干潮の時刻を過ぎて黒い海が、この干潟を、飲み込みつつあるのだろうか。

「に~じゅご、に~じゅろっく、に~じゅしっち」

 僕は頼子の声を追うが、しかし、ぬかるみに、一歩をとられ、そのまた次の、一歩をとられ、焦りと汗とを拭いながら、僕はたまらず視線を上げた。干潟に落ちた月の光が、潮風に吹き散らされて、ゆく先をぼんやりと照らし出している。彼方に大鳥居の、朱(あか)く、暗く、聳(そび)え立っているのが見える。白く、細く、揺らめく頼子が、少しずつ、少しずつ、引き寄せられて行くのが見える。

 このまま歩いて行ったなら、頼子は鳥居の向こう側に、辿り着いてしまうのだ。

「ね、ねえ、ちょっと待っ」

 踏み出した右足がズルリ。後ろに倒れまい前に倒れまいと足が縺(もつ)れて景色が回ったーーーーーー満天の、星空であった。

「あっ! 大丈夫?」

 足元から、頼子の慌てた声が聞こえる。僕はゆっくりと体をおこし、暫く、空っぽの頭をもたげて胡坐(あぐら)をかいていたが、段々と、可笑しくなってきた。

 僕はとても恥ずかしくなって、泥にくるまって、笑った。

 やっとの思いで駆け寄ってきた頼子も、声を弾ませて、笑った。

 二人で、笑った。

「もう、仕方がない人ですね」

 そう言って、頼子が僕に右手を差し出した。僕の鼓動が、早くなっていく。指先から白く消え入るような頼子の手、その手を、泥の両手でぎゅっと包み込み、立膝のまま背筋を力いっぱい伸ばし、少し驚いている様子の頼子の目を見て、僕は、言った。

「あっ、あのさ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ぬかるみ 朝枝 文彦 @asaeda_humihiko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る