新たな怪物

 ――そこはネオンに霞む銀座のクラブだった。

 

 最近の銀座は一昔前みたいに派手に遊ぶ客がめっきり減った。それにしても今日は『クリスタル』という名のクラブには客が少なかった。

 

 しかしこの店のナンバーワンのエリカは常連客がいて、難しいITの話をするので話も程ほどに聞いて、高層ビルの窓から夜景を眺めていた。

 

 ちょうどその時、入口のボーイが客を出迎える声がして、その男は何処からともなくコツコツという靴音を響かせてやって来た。上背があり、がっしりとした頑丈そうな体格をしている。浅黒い不敵な面構えにウエーブのかかったロングヘヤーが妙にマッチしていた。濃紺のスーツを着込み、どことなく異国的なにおいを漂わせていた。


 男は店の一番奥の大きなディフェンバキアの鉢の横のボックス席に腰をおろした。それにしても夜だと言うのに男はサングラスを掛けている。早速店の娘、ゆかりが跪いて接待したが、男はゆかりに何やら耳打ちしたらしく、ゆかりは黙ってエリカの前に来て「あなたをご指名よ」と言って困った顔をした。


 大胆不敵な客だった、一見いちげんなのにいきなりナンバーワンのエリカを指名したのだ。しかしエリカには常連客の紳士がいるからすぐに相手はできなかった。


「丁重にお断りしてください」


 とエリカが告げるとゆかりは又席に戻った。すると男がいきなり大きな声を出した。皆が驚いて男の方に視線が集中した。その視線を浴びたまま男はボックス席を立ってエリカの席までやってきた。そしてこう言った。


「俺はあの席から君をずっと見ていた。あんたのその姿、形が凄く気に入ったから、今夜は俺の相手をしてくれ!」


 それをきいた中年紳士が不機嫌な顔をしていきなり立ち上がった。


「君! どういうつもりだ。いくらなんでも失礼じゃないか。エリカは今、私の相手をしているところなんだぞ、見慣れない奴のくせに、少しはものを考えろ!」


「そんな事は俺には関係ない!」


「こ、こいつこの私を誰だと思っているのだ!!」


 男がその時初めてサングラスを外した。それは人間の目ではない。鼻柱に異常に近くに狭まった双眼は動物のそれのようにギラギラと光っていた。


「お前は帰んなよ、ぼけっ!」


 男の口調は決して上品とは言えない。


 一瞬、唖然とした紳士だったが、その悪態にさすがに堪忍袋の緒がきれ、興奮して男につかみかかった。その瞬間、その中年の紳士の頬に赤い筋が三本走った。

 そして見る見るそこから血が噴き出てきた。まるで刃物をつかったようだった。紳士がもんどりうって床に転げまわった。


「きゃーっ!!」


 エリカが甲高い声で気が触れたように叫ぶと、ボーイと他の男達も集まってきた。そして誰かが警察に通報した。当然の処置だ。


「お客さん!! どうしました!!」


 警官三人が店にやってくるのは意外な程に速かった。

 中年紳士が顔面を血に染めて苦しんでいて、それをボーイたちが介抱していた。それを冷酷に見下ろすように男はその場に仁王立ちしていた。ボーイが怯えた顔のまま男を指さした。


「おい! きさま現行犯で逮捕する。署まで来い!」


 警官がそう叫んだ瞬間にその警官の腹から血が噴き出した。

 まるで鋭い刃物で抉られたようだった。おもわず警官が信じられないという表情のまま床に倒れ込んだ。そうだ、こういう光景が前にもあった。

 田沼美沙がやくざ集団に追われたときの惨事が今またここに起こった。音のない笛でやってきた黒い影の正体はこの男だった。

 目にもとまらぬ速さで動けるこの怪物だったのだ。もう一人の警官がすかさず拳銃を抜こうとしたが、瞬間にその手が千切れて宙に踊った。


 ――男の双眸が燐のように不気味に燃え立っていた。



 あっという間にクラブ『クリスタル』の店内は阿鼻叫喚に包まれていた。

 惨劇の舞台が予告もなく開演したようだった。宗田劉生という有名企業の御曹司は顔面を抑えてもがき苦しんでいるし、恰幅の良い警官は腹を割られて瀕死であり、腰のホルダーから銃を出した若い警官は手首が千切れてボックス席にすっ飛んでいた。


 そして泣き顔のエリカはその怪人に抱き寄せられていた。男は彼女の腰に手をまわして放そうともしない。


 後から駆け付けた添田という中年の警官は目の当たりにこの異常時を見て、さすがにうろたえたが怪人物を見つめながら身の危険を感じて無線で警察本部に連絡を入れた。賢明な対応だった。


 店内の人はもう半狂乱に近い勢いで我先に店から出て行った。添田は怪人と適当な距離を保ちつつ、決して相手には近づかなかった。美貌のエリカの顔にはもう血の気がなく、意識さえ失いかねない恐怖のどん底状態だった。


 間もなく銀座通りにけたたましいパトカーのサイレンが鳴り響き、近くの築地警察署から大勢の警官が出動してビルを取り巻いてしまった。

 犯人を決して逃がさない警察の常套手段である。警官たちは武装していて店の入り口に迫っていた。ヘルメットをかぶり、防弾チョッキまで着込んでいた。熟練された射撃班が組織され、銃身の長い狙撃銃が怪人に狙いをつけていた。

 もう店内には怪人と囚われの身であるエリカの二人しかいなかった。警官添田ももう後方に退去していた。だが怪人はその不気味な笑いを絶やさなかった。絶体絶命ともいえるその状況の中にいて怪人は笑い狂っているのだ。

 まるで悪魔の嘲弄ちょうろうのようだった。しかし人質のエリカがいるので武装警官もへたに発砲できなかった。唇を噛みしめるような緊張した時間が氷結したようだった。


「この綺麗な女が俺は気に入った! 貰っていくぞ!!」


 怪人が大声をだした。と同時にその獣のように恐ろしい眼が燃え上がり、怪人はいきなり窓に向かって走り出した。そしてそのまま窓を突き破って外に飛び出してしまったのだ。

 高層ビルのこの硬質ガラスが並の人間の体当たりで割れるわけなどないのだが、その恐るべき力はもはや超能力、神通力の域に達していた。

 暗い夜空に警察のサーチライトがはしった。そしてそのサーチライトはビルの側面に貼り付いた怪物をとらえた。地上二十階建の高層ビルの十階あたりに、その怪物はエリカを小脇に抱きかかえたままで、ビルをよじ登り始めたのだ。


 まるでDCコミックスの超人のようだった。上へ上と怪物は尚も登っていった。ふと下を眺めると、いつの間にかビルの周りに黒山の人だかりができていた。

 その前代未聞の見世物に人々は恐怖しながらも魅了されてしまったのだ。事実これほどのニュース、刺激がそうそうあるわけもなかった。

 

 怪物はついにビルの屋上に躍り上がった。そこはもうサーチライトも届かぬ、黒暗々こくあんあんとした場所だ。警官隊が屋上にすぐに追いついたがその時にはもう、怪物の姿は屋上にはなかった。

 もちろん警察はくまなく怪人の潜めるような場所を捜索したのだが、怪人は結局見つからなかったのだ。あの獣のような怪物と超美人のエリカは屋上の闇に忽然と消え去ったのだ……。


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