不夜城の出来事


 ――不吉な予感が電流みたいに身体全体を走り抜ける。

 

 その瞬間、はっきりと女の眼を見てしまった。女は途方に暮れるように顔を歪めていた。時速百キロ以上で疾駆する高速車から零コンマの世界でそれ目視するなど、常人には到底不可能であろうが男の動体視力は常人のそれではなかった。


 真っ赤なシボレーカマロのV8エンジンが獣のように猛り狂っている。たった今、男は獲物の目をその脳裏に焼き付けてしまった。動くものには飛び切りの関心を抱くのは、男がまるでネコ科の動物であるようだ。


 思わず急ブレーキを踏むと車体が軋み、タイヤが異様な咆哮を放ってようやく回転を止めた時には車は路肩に乗り上げていた。


 ここは都会のど真ん中、深夜の外苑東通り。

 楕円の筒のノアビルが前方に黒いシルエットでそびえている麻布台界隈である。この不夜城東京じゃいつ何が起こるかわからないし、それなりのこころ構えは常に必要なのかもしれない。


 赤のカマロから降りた男の名は望月丈、そうだ、あの黒豹男だ。彼は海底から奇跡の復活を遂げた超人である。


 とにかく彼は今、とんでもない事に首を突っ込もうとしていた。どうやら深夜の公道で若い女が何者かに追われているらしく、そこに運悪く通りかかってしまったのだ。こんな場面を黙って見過ごせないのは黒豹男の好奇心とでも言おうか。


 望月が無類のスピード狂であるのは確かなのだが、彼は今まで一度たりとも事故まがいの惨事は起こしたことはない。もっとも相手がスピードに憑かれた命知らずの暴走何とかとなれば少しばかり話は違うが。

 そんな時でさえ彼の脳はすこぶるクールに働くようになっていたから、なまじ豹に変身するような愚行は金輪際侵さないのが常だった。


 女に近づくと彼女は直ぐに助けを求めてきた。血の気の失せた可愛い唇が僅かに震えている。瞳の大きな色白のバタ臭い顔立ちの美人だった。


「た、助けてください!! 助けて!!」


 女はライトグリーンのワンピース姿で望月の脇をすり抜けるようにして後ろに回り込んだ。息を弾ませている。追ってきたのは人相の良くない連中が六人。酒の匂いが望月の臭覚を刺激した。茶髪の若い男は薄紫のスーツを着込んでいた。周りの連中は仲間らしいが、まるで時代ずれのしたチンピラのような風体だった。


「どうしました?」


 望月が落ち着いた口調で女を振り返るようにして言った。


「この人たちに絡まれて困っているんです…」


 女が、か細い声をあげた。


「きょう近くで飲み会があったんですがその帰りにこの人たちに…」


「なあ、ねえちゃん僕らは決して変な人間じゃないよ。だからまじめにお付き合いしようって言ってるじゃありませんか。ねっ!」


 おどけた感じの三白眼の男が前に出てきてそう言った。ひょうきんを通りこした卑猥さだった。


「この時間にどういう風に真面目なお付き合いが出来るんだい?」


 望月が静かに言った。甘いマスクがいつになく蒼白だ。


「てめえ、どこからしゃしゃり出てきやがった! 好かねえ面しやがって!」


 男のおどけた顔の表情が一瞬に消え去ると、狡猾な爬虫類に似たいやらしい本性がたちどころに表出した。それをまるで制するように紫のスーツの男が一歩前に出た。どうやらこの男がリーダー格らしい。


「僕らはこの時間だから、お嬢さんを危険がないように家までお送りしようとしていたんですよ。それをなにか勘違いしたみたいで、とんだ誤解なんですよ」


「そうでしたか、それはどうもご親切な話ですねえ。でも彼女はあなた方より俺に送ってもらいたいみたいですよ。ねえ」


「は、はい」


 女が小さく頷いた。


「ねえ、これは内輪の話なんですから、ここはお引取くださいな」


 紫のスーツがそう言った。高い鼻に薄い唇、切れ長の目をしている。


「ほう、内輪もめだと言うのですか? とても俺にはそうは見えないですね。どうみても恐喝か暴行か、追剥か。そんな風にしか見えない」

 

 途端に紫のスーツの目がギラリと光った。鷹のような獰猛な目だ。


「てえめは、すっこんでろ!!」


 後ろの方で大男が凄んだ。ドスの利いた声音であった。が、次の瞬間に望月は身をひるがえすと女をだき抱えて走った。

 まるで息つぐ暇もない稲妻のような速さで、男たちは直ぐに後を追おうとしたがそのスピードには格段の差があり、まるで追いつけなかった。

 望月には過去に湾岸で激情に任せて二人の男を葬った恐ろしい経験があった。相手の二人は凶悪犯であったが、今でもそれは望月の心の重荷になっていた。だから彼は己が死に直面でもしない限りは金輪際、獣には変身しないと言う誓いを立てていた。


 望月が彼女を抱えてカマロの飛び乗り、シフトがバックからDに切り替わったときに男たちがやっとカマロの背後に現れたがすべてが後の祭りだった。まるで獣の雄叫びをあげてカマロは閑散とした路を稲妻のように疾駆した。


  ◇


 助手席で女はまだ恐怖に顔を引きつらせていた。しばらく言葉もなくぼんやりと前方を見つめていた。


「もう大丈夫だよ。安心しなさい、彼らの追ってくる様子はないから」


「どうもありがとうございました。なんとお礼を言っていいか……。でもとても勇敢でしたわ、あなたは」


「そんなことはありません。さあ家まで送りましょう」


「本当にすいません。お言葉に甘えさせていただいて良いのですか」


「むろん最初からそのつもりです。では道案内をお願いしますよ」


 望月の胸中にほろ苦い後悔のようなものがかすめた。それはこの女に関わらないほうが良かったかもしれないと言う根拠不明の思いだった。

 女の言う路をゆく、乃木坂を通り高速に乗り三鷹方面にカマロは走った。街の灯りがどんどん少なくなり、いつか長くうねった坂の中腹に差し掛かった頃フロントガラスの向こう側にまるで中世の古城でも思わせるような洋館を仰ぎ見ていた。


「まさかあのお屋敷があなたの家だなんてことありませんよね?」


「あら、あそこが家ですわ」


「こりゃ、凄いお宅だ」


 そう言って珍しく望月が口笛を吹いた。まるでハリウッド映画のヒーローのようだった。カマロが洋館の門の前に静かに止まった。空には月さえなく、雲がゆっくりと墨でも流すように動いていた。洋館の壁面にはびっしりと蔦が繁茂してその妖しさを一層際立たせている。深く青黒い壁、緑青が鉄の門を覆っていた。


「ありがとうございました」


 いつの間にか助手席の女は望月を見つめたままうっとりとしている。


「どういたしまして。今後は夜遊びには気を付けてくださいよ」


「ちょっと家に寄って行ってください。このままあなたをお返ししたのでは、わたしの気が済みません」


「いいえ、こんな時間じゃお邪魔はできませんよ」


 女のスカートのスリットから覗く白い脚が妙に艶めかしい。さっき迄とまるで違う女の色香が漂っていた。


「今夜は家には誰もいないんです。ちょうどいいから少しだけ上がっていってください」


「この大きなお屋敷にあなただけなんて……」


 会話が少し続き、結局望月は女に負け、車から降りゆっくりと低い石段を上った。数段で館の門が二人を出迎えた。

 重い鉄格子の門はまさに中世の城のような趣である。女が門を開け望月を中に招き入れた。中は仄暗く黒檀の大時計のかかったフロアを通って奥の部屋に彼を導いた。時代がかったマントルピースのある広い洋間で、壁には大きな油彩の風景画が掛かっていた。

 女はなんとも不思議な妖艶さを漂わせていた。長く垂れた茶色の髪、そしてこの館に似つかわしくない白人とのハーフのような美貌を備えている。


「たいしたお屋敷ですねえ」


 望月がそういうと女はそんなことを気に留めない様子で、すぐに暖かいコーヒーを淹れて部屋に持ってきた。


「どうぞ、お酒の方がいいのかもしれませんがお帰りはお車でしょうから」


「いや、どうもありがとうございます」


「でもあなたのあの赤い車が急ブレーキで止まった時は驚きましたわ、事故かと思いましたがわたしが絡まれているのが良くわかりましたね」


 女は機嫌がよさそうに微笑んでいた。


「ええ、俺は動くものと美人には目のない方なんです」


「……。ところで深夜のドライブでしたの?」


「俺は東京の夜が好きなんだ。気が向けばあの辺をよくドライブします、こんどご一緒しましょうか…」


「嬉しいです。ご職業をお聞きしてもいいですか」


「俺は、何でも屋ですよ、よろずなんでも引き受ける」


「まあ、ずいぶん怪しいお仕事ですわねえ」


「怪しい? ははっ、確かに。つい最近麻布に事務所を開いたんですが、まだろくに客も来ない。昨日は引っ越しの仕事をしましたし、その前は留守番でした。ろくな仕事はきやしない。本当は探偵事務所でも作りたいのですが、あいにくそれだけの頭脳はない」


 その時不意に後ろの風景画の中を影のようなものが走った。思わず凝視する。


「な、なにかいる……」


 呆然と望月がそう言った。女が驚いて絵の方を振り返った。


「なんですの?」


「あれが、見えないのですか? 恐ろしい顔をした小人がいる、絵の中からこっちを睨んでいる」

 

 それはうわごとのようで望月の顔は既に真っ青だった。女が静かに立ち上がった。


「どうした! 君はいつ裸になんかなったんだ!」


 女はどうしたわけか不敵に微笑んでいる。忌まわしいともいえる不気味な笑い顔だ。小人なんていないし、女は裸になんてなっていない。

 とすればこれは幻覚に違いなかった。望月の身体が異常に震えていた。コーヒーカップが手から離れ床に落下した。


「うっ、うううううう」


 苦しそうな喘ぎ声がして、望月の顔が既に引きつっていた。


「ははははははーっ! お-っほほほほほほ!!」


 女まで狂ったのか、そうではない。これは計略だろう。恐ろしく手の込んだ策略だ。


「望月さん、意外にあなたも甘いのね、あなたの飲んだのは幻覚作用ある眠り薬……。身体の芯から痺れて堪らないでしょう。その薬はあのアフリカ象だって眠らせるの、ざまあないわね。いい気味よ。望月さん。いやこの黒豹の化け物! 観念しなさいな!」


 まるで女は豹変した悪魔のようであり、今までが嘘のように瞳に鋭い険があった……。

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