第31話 中庭

「なんだか元気そうだね」

 次の日、病室に行くと、彼はなんだか元気そうだった。

「うん、昨日の夜は全然症状が出なかったんだよ。痛みもほとんどでなかった。不思議だ」

 彼はうれしそうに言った。

「このまま治っちゃうかもね」

 彼は冗談とも本気ともつかぬうれしそうな顔で言った。

「ちょっと、散歩に出ないか」

 彼が言った。

「えっ、大丈夫なの」

「うん、どうせ死ぬんだから何やったって平気さ」

 彼はそう自虐的に言って、ベッドから立ち上がろうとした。しかし、彼はうまく立つことができずよろけた。体が弱り、ずっと寝たきりだった彼は、体力と筋力が弱りきっていて、自分の体を自分で支えることすらが出来なくなっていた。私は慌ててそんな彼を支える。

「こんなに衰えているんだね」 

 彼は自嘲気味に笑った。

「私車椅子借りてくる」

 私は、その現実を誤魔化すようにそう言って、すぐに病室を出た。

 私は、彼の肩を抱き、借りてきた車椅子に彼を乗せた。

「外の空気を吸いに行こう」

 彼が言った。

「うん」

 私たちは、そのままエレベーターで一階まで降り、中庭に出た。

「ああ、気持ちいいな」

 彼が空を見上げ言った。今日は、空も秋晴れできれいに雲一つなく真っ青に晴れ渡り、気候も暖かく気持ちよかった。

「外の空気はいいよ」

 彼は本当に気持ちよさそうに空気を吸う。 

「今日はなんかほんとに調子がいいよ。不思議だ」

「そう」

 彼がうれしそうに言うと、私もなんだかうれしかった。

「痛みがないだけでなんだか幸せだよ」

「うん」

「普通に呼吸ができるだけで、うれしい。今まで当たり前であったことがいかにありがたいことだったのかを実感するよ」

 そう言って彼は笑った。久しぶりに見る彼の、うれしそうな顔だった。

「宇宙人がやって来てさ」

「宇宙人?」

 突然、変なことを言い出す彼を私は少し驚いて見る。

「うん、昔そんな短編小説があったんだ。宇宙人がやって来てさ、主人公の少年の不治の病だったおばあちゃんを治しちゃうっていう」

「へぇ~」

「僕もそうならないかなぁ、なんてくだらないことを昨日の夜はずっと考えていたよ」

 彼はそう言って笑った。

「そうなんだ」

「まあ、あり得ないけどね」

 彼に何か余裕を感じた。いつもの突拍子もない話なんかも彼らしかった。昔の平穏だった頃が一瞬戻ったみたいだった。


 だが、病気は容赦してくれなかった。次の日、また症状が出てくると、彼の表情は暗く曇った。

「一人でさ、病室の暗い天井を見つめているとさ、堪らない不安と絶望が湧き上がって来るんだよ」

 彼は仰向けに天井を見つめ続けていた。

「あまりにも辛くてさ、ほんと気が狂いそうになるんだよ」

「・・・」

「怖いんだ」

 彼は私の手を握りしめた。

「死にたくない。死にたくない。怖い、怖いんだ」

 彼は、剥き出しの感情をそのまま吐き出す。普段ほとんど取り乱すことのない落ち着いた雰囲気の彼が、我を忘れ取り乱していた。

 私はそんな小さな子どものように、恐怖に震える彼を抱きしめた。

「うううっ」

 彼は私の小さな胸の中で震えていた。私は彼を抱きしめる。私にはそれしかできなかった。そんなことしかできなかった。それが彼に対してなんの慰めにもならないと知りながら、それしかできなかった。

 私に何が言えるだろう。何が言ってあげられるだろう。結局、死ぬのは彼で、私はまだ生きられる側の人間だ。そんな人間に何が、死に怯える人間に何が言えるだろうか。

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