懸崖の下でも君は笑う

眞石ユキヒロ

第1話 懸崖の下でも君は笑う

 冬季休暇を前にした十二月の、晴れ渡る昼下がり。私は賑やかな大学の庭を一人で歩いていた。


 一時間後には人生初のバイトが待っている。


 ようやくママたちに恩返しができる、はずだ。足が震えてるけどこれは決して緊張とかではない。武者震いだ。


 とかくだらないことを考えてたら、足下の石畳を鈍色に光る塊が回転しながら滑った。


「うわっ!」


 両手と片足を大きく上げてそれを回避すると、ちょうど足下で止まった。塊の正体は針金カッターだった。


(なんでこんなものが急に!?)


 転がってきた方向を見ると、一人しゃがんで盆栽に針金をかける男がいた。


 黒髪をマッシュにして白のパーカーと黒のパンツを着て、隣にリュックを置いた、いかにも大学生って感じの大学生。それだけに彼の前に鎮座する盆栽が強烈な違和感を発している。


 男は優し気なしじみ目を細めて私に微笑みかけた。その笑顔がかわいらしくて気持ちが少し和む。推し配信者にちょっと似てる気がしなくもない。


 (しょうがないなぁ……)

 

 石畳で沈黙する針金カッターを拾って男に渡す。危うくダメージをくらいかけたことはすでに、頭の中からすっ飛んでしまっていた。


「ギブアンドテイクでみかんいる?」


 私の行動に対して男が最初に発した言葉がこれだった。険のない平和な笑みを浮かべている。


「あははっ! なんでみかん? その盆栽にみかんでも生えるの?」


 思わず吹き出した私を見て、男がキラキラしたしじみ目を丸く開いた。


「これは真柏しんぱくっていうんだ。でもね、実はみかんも盆栽にできるんだよ」


 なんだかのんびりした回答だ。ギブアンドテイクのみかんから、話題が明後日の方向へ飛んでいってしまった。


 そんなのんきさに気持ちが脱力して、自然に笑ってしまう。これから人生初バイトだっていうのに。


「それってさ、バイトに役立ったりするかな」


 急に何を言ってるんだって感じの発言なのに、男は笑顔を全く崩さない。


「バイト? ってどんな?」


「ドーナッツ屋の店員だけど……」


「いいね!アンドーナッツとか、みかんみたいに丸くてかわいいし」


 男はニコニコしたまま片手でドーナッツの丸を宙に描く。


「チュロスはきゅっとして木の幹みたいでいいよね」


 今度は片手でチュロスの棒を描いた。


 不思議だ。この男と話していると不安の存在感がどんどん薄れて、わくわくが心からわいてくる。


「ねぇ、よければお店の場所を教えてくれるかな?」


「駅ナカ。ドーナッツ屋は一件だから案内見ればすぐわかると思うよ」


「ありがと。バイトの役に立つかはわからないけど、チュロス買いに行くね」


 言いながらチュロスをかじる動作をする男に思わず微笑んでしまった。


 なんなんだろう、この人は。


「こっちこそありがと。私は佐竹実香。実が香るって書いて実香。佐竹でも実香でもいいよ」


「実が香る! いいね。僕も実生みしょうで果物の盆栽作ってみようかな。時間がかかることって結果が出るまで長く楽しめるし、わくわくするよね」


 早口でこそないけど、オタクがやりがちな長い語りが始まった。


「実生って果物とかの種を育てることなんだ。僕はまだ試してないんだけど、先達曰く愛着がわいてとってもいいって」


 うきうきと片手を振っているから見ていて楽しいけれど、このままだと永遠に脱線し続けそうだ。話を戻さないと。


「あのさ、私もうバイト行くんだけど。君の名前は?」


「あっ、ごめん。熊木優助です。よろしく!」


 男改め熊木優助とは盆栽以外の話ならスムーズに進むみたいだ。


「なんか、ありがとね!」


 いくらか気が楽になったので、礼を言った。


「えっと、どういたしまして?」


 優助は心当たりがないといった様子だ。当たり前だ、私は勝手に救われたんだ。


「次に会ったら連絡先交換しよう!」


「あ、う、うん! よろしくだぜ!」


「あっはははは! 何それ!?」


 あまりに唐突に格好付けた言葉遣いになったのでついつい笑ってしまった。ちょっと遅れてサムズアップまでするし。


 その日、熊木優助は本当に私のバイト先にチュロスを買いにきたので連絡先を交換した。


 コントみたいなやりとりを続けるうちに、私と優助はいつの間にか交際を開始していた。




 優助との出会いから一年。大学の講義がオンラインに移行してから初めて迎える、ありがたみの薄い冬季休暇の真っ只中。


 私と優助は友達の香織が企画したビデオ通話デートに参加していた。


「優助くん趣味ボンサイなに? ウケる~!」


 四分割されたPC画面の右上で、私が額を抑えて下を向く。二週間くらいは優助と直接会えてない。そんな中での新年初バイトの疲れが、香織の彼氏の無遠慮な言葉で倍増した。


 香織は彼氏の発言に困り顔で笑っている。注意したいけど嫌われたくないって感じだ。


「盆栽はね、木とか植物を樹形に……」


「ぷひゃひゃ! そゆのいいから」


 優助が両手で宙に木を描く。可愛らしくしじみ目を細める優助の言葉を遮って、男がケラケラ笑った。何コイツ。


 香織の彼氏とはいえ何様だよ。言い返してやりたいけど香織の顔も立てないといけないし、なんて言えばいいの。


「そういえばミカ、動画配信やってみたいとか言ってたじゃん! どんなの作るの?」


「あ、う、うん」


 意気込んでいたのに、香織に話題を振られた途端、考えていたことがすべて吹き飛んでしまった。


 それでも苛立ちは続いている。バイトで鍛えた愛想笑いを繰り出して、なんとかその場をしのぐ。


「なになに! ちゃんミカ動画作んの? スッゲ~! オレも出ていい?」


「あ、あーっと……」


「実香はね、ドーナッツの食べ比べ動画を……あっ、これ、言っちゃっていいのかな?」


「優助くんまぬけだな~! ひゃひゃ!」


 男が両手をたたいて天を仰ぐ。PCの電源ボタンに指を伸ばしてしまった。


「優助君はなんていうか……癒やし系なんだよ! そう!」


香織キャオリ~! オレのいいとこも言ってくれよぉ!」


「え~、どうしよっかなぁ?」


 会話はつつがなく進んで、香織と彼氏が盛り上がる。優助は彼氏に軽く馬鹿にされても気にせず相槌を打つ。


 言い返すタイミングを逃した私は机のを軽く蹴りながら、得意の笑顔を浮かべるだけだった。




「面白い人たちだったね」


 数時間後、二人だけのビデオ通話にて。優助が真柏を剪定せんていしながら二人についての感想を口にした。


 しじみ目を細めて、口の端はわずかにつり上がっている。これはいつもの優助の笑顔だ。私と違って何も不快に思っていない。作っていない、感じのいい笑顔だ。


「香織はいいけど、彼氏、なんかカンジ悪くなかった?」


 定期試験に向けた勉強をする手を止めて、画面をにらむ。


「この懸崖けんがい、僕を見おろしてるみたいだ」


 画面の向こうの優助は盆栽の鉢を掲げて、下から眺めている。懸崖は盆栽の樹形じゅけいの一つで、鉢より下に枝が伸びる形だ。


 お辞儀しているみたいでかわいいとは思うけど、今は引っ込んでいてほしい。


 っていうかなによ。見おろしてるみたいって嬉しそうに言うってなに。


「アイツ、優助のことバカにしてたじゃん」


 優助にとって馬鹿にされることはどうでもいいのかと思うともっと腹立たしくなる。


 チェストの上にある、ママたちとの写真が目に入った。私の右隣にはふわふわの髪の毛を肩まで伸ばしてアイボリーのカーディガンを着た、あいママ。左隣にはまっすぐな黒髪をベリーショートにしてカッティングシャツにサングラスを引っかけた、りさママが立っている。


 そういえば小三の頃、ママ達をバカにした男子の口に消しゴムを投げつけたことがあった。


「優助も言い返せばよかったのに」


 この言葉はその時の正義感とは遠い感情から発された。


 優助の笑顔が引きつったように見えた。これじゃ私が優助の悪口を言っているみたいだ。右手に握ったシャーペンが落ちる。


「なんか、ごめん……」


 かろうじて謝れたけれど、空気はすっかり冷えてしまった。


「そういう時もあるよ」


 優助が表情を和らげる。私はなんで優助に怒ってほしいなんて思ったんだろう。そう思うくらいなら私が怒ればよかったのに。


「ごめん、もう寝るね」


「僕も真柏に集中するね、おやすみ」


 何をやってるんだろう私。


 ママ達との写真をぼんやり見つめる。私と優助はママ達みたいにちゃんと愛し合っているんだろうか。


 そもそも愛し合ってるってどうやって確認するんだろう。今すぐ知りたい。どうすればいいの。


『ママ達はどうして愛し合ってるってわかったの?』


 文面を考える余裕もなく、直球のメッセージをあいママに送る。いつも私を気遣ってくれるあいママならわかってくれるなんて甘い期待をして。


 正月休みのおかげか、すぐに着信音が鳴った。あいママからだ。自分への苛立ちをぶつけるようにスマホを連打してメッセージを開く。


『優助くんと喧嘩したの?』


 すぐに理解されてしまった。目の奥がじんわりと熱くなる。


『喧嘩っていうか……。優助が馬鹿にされても言い返さなかったからイラついちゃって』


『それで優助に当たっちゃったんだ。私、本当に優助のこと好きなのかな』


 ママに甘えるみたいに、泣きながら弱さを打ち込んで送信した。


 あいママからの返信は、最初から真理を知っているみたいに早かった。


『私も言いたいことははっきり言えとか、声は大きくとか、りさに言われて育ったよ』


『人って、人のこと好きじゃなきゃ文句言わないからね』


 頭ではなんとなくわかる内容だった。


 りさママがあいママに何かを要求するのを、あいママは愛だと思ってるんだ。


 でもそれは私が優助に変な要求をしてしまったのと同じだと判断していいんだろうか。とてもそうは思えない。


『あいママもりさママになにか文句言った?』


 愛し合う二人はどの程度の不満なら抱いていておかしくないのか。その線引きが知りたかった。

 

 返事はすぐに来た。


『オンライン旅行しようよとか、たまには高いステーキ焼こうとか、バレンタインはホットワインがいいなとか』


『文句じゃないね、わがままだ』


 あいママの笑顔とりさママの苦笑いが思い浮かぶ、かわいらしい回答だった。


 性格上の不満を聞きたかったのにと考えた瞬間、心が痛んだ。


 これじゃさっきと一緒だ。優助を傷つけたみたいに今度はママたちを傷つけるだけだ。


『付き合ってくれてありがとう』


 指が震える。何度も何度も、大きく深呼吸をした。それでようやく、変なことを聞かずにお礼を書けた。


『私がお話ししたかっただけだよ』


 あいママのてのひらの温度を思い出す。ふわふわの暖かさがあしゆびまで広がって、ほうっと息を吐く。


『今度はもっと仕送りするからね』


『ほどほどにでいいから! ってりさも言ってるからね!』


 ベッドに座って横に倒れる。ポカポカしていい気分だ。大きくのびをする。ママたちの子供でよかった。


 もう夜も遅いから優助に謝るのは明日にしよう。大丈夫だ、今ならちゃんと元通りになれる。




 目覚めた私を迎えたのは、二通のメッセージだった。香織からの謝罪とセレクトショップの初売り。


 いつもなら届いているはずの優助からのおはようメッセージはない。当たり前だと悲しさを飲み下して、メッセージ作成画面を開く。


『優助おはよう』


『昨日はごめん。頭冷やしたから大丈夫』


『あとから文句言うなんてずるいよね』


 何度も書いては消した。


 そもそも優助は私の態度を大きく咎めたりはしなかった。私の問題点についてはこれ以降気をつけるにとどめて、楽しい話を振った方がいいんじゃないか。


 優助と楽しく話すなら、話題は一つだ。


『おはよう優助~! 盆栽は元気か~!』


 笑ってしまう。盆栽の話なら喜んでくれるに違いないから、これでいいのだけど。


 送信して画面を見つめ続ける。歯を磨いたり顔を洗ったり、すべきことはたくさんあるけれど、今はこれが最優先だ。


『おはよう。盆栽が気になるなら盆栽人間にならない?』


 また変なことを言い出した。お腹を抱えて笑ってしまう。


『盆栽人間って何?』


『実香が盆栽好きになったらそう呼ぼうかなって。いいよね!』


『僕も教えるし、実香も今年は盆栽やろうよ。盆栽のエンタメ動画ってあんまり見ないし、人気出るかも!』


『かっこいい編集とかしよう! 音楽もじゃんじゃん使って。僕、剪定の音ならいくらでも提出するよ』


 優助のことだ、これを書きながら剪定のジェスチャーをしている可能性が高い。考えるだけで緊張がほぐれて笑ってしまう。


 おなかに勝手に力が入る。上手く息ができなくて苦しい。


『盆栽ガールとか盆栽女子とかそういうのにしてよ』


『なら僕は盆栽スペクターがいいんだぜ!』


 笑いで指が大きくぶれるので、ビデオ通話に切り替えた。


 二十秒くらいたって優助が通話に出たと思ったら、画面に優助が切り落としただろう真柏の枝が映し出された。


 枝をきれいに並べて『にんきモノ』って書いてる。どんなセンスよ!?


「も~! やめてっ! はっ、ははっ!」


 溢れる涙を拭う。優助はいつも私を素直に笑わせてくれる。


 やめてなんて言いつつも、本当はそれが嬉しい。


「はははっ! 大好っき! ……ひゃっ、はは、はっ!」


「今なんて言ったの!?」


 どさくさに紛れて言ってしまおうと思ったのに、こういうときだけはとぼけてくれない。


 私は無理矢理笑いを収めた。深呼吸しようと思ったけれど、吸い込む動作がうまくできない。笑いたい衝動が押し寄せてくる。


「大っ好き! ……ひー、ひーっ!」


 結局、体が落ち着くのを待たずにもう一度言ってしまった。


 画面が切り替わって、優助の笑顔が映し出される。いつも以上にしじみ目を細めて、もうほとんど目が閉じているように見える。


「僕も同じ気持ちだよ」


 優助が後ろ頭をかいてえへへと照れ笑いをする。喉にとどまっている笑いが引っ込む、胸がときめく笑みだった。


 私は頬の熱を感じながら携帯を胸に抱く。今すぐに会いたいなんて思うけど、それだけでも充分に心が満たされた。

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