第5話 旅立ちと第二皇子
まさか本当に一ヶ月で住み慣れた屋敷を離れるとは思わなかった。
父と母、そして兄ウィルベアトに見送られたのはもう二時間前の事。
もっと感動的なお別れになるかと思ったが父は安心したように笑っていたし、母は「ようやくお嫁に行くのね」と喜びを噛み締めていた。ウィルベアトに至っては「良いご令嬢を探してくれ」と再度お願いしてくる始末だ。感動もなにもなかった。
ころころと変わる景色は幼い頃から見慣れているもの。眺めるにも飽きてきた。
ツァールト公爵領から隣国シュテルクス卜帝国の帝都まではおよそ十二時間。途中で何回か休憩を挟むと考えるとかなりの長旅になる。
太陽が出ているうちに向こうに到着する為、屋敷を出たのは朝方四時だった。
昨日眠れたかと尋ねられたら「ぐっすりと眠れました」と答えるくらい緊張感のなかった私だけど屋敷から遠さがると流石に不安になる。
「一回しか話した事がない相手と仲良く出来る自信ないわ」
私を娶りたいと言ってきた第二皇子とは過去に一度だけ挨拶をした事がある。
冷酷と噂されている彼は確かに冷たい雰囲気を身に纏っていた。
「当然の事だと思いますよ」
私の言葉に深く頷いたのは一緒に来る事になったウィノラだった。先方に手紙を出したところ『侍女も一緒で構わない』と許可を出してくれたのだ。
気を許せる人が一緒というのは心強い。
「普通に考えて裏があるわよね」
ベシュトレーベン王国との繋がりをより強固なものとする為なのは分かっている。ただもう十分に繋がりは深いはずだ。
そう考えると他国のお姫様を娶った方が利益はあるはずなのに。
「どうして私なのかしら」
「分かりませんが第二皇子がレイチェル様を大切にしないと分かった時点で潰し…」
「それは向こうで言わないようにしなさいよ」
不敬罪の域を超える発言をしようとするウィノラを睨みつけるとしゅんと肩を落とした。
心配してくれる気持ちは有り難いけど彼女が問題を起こせば主人である私にもツァールト公爵家にも迷惑が掛かる可能性が高い。本人もそれは望まないだろう。
「ふぁ……ちょっと寝るわ」
「畏まりました」
どうして第二皇子が自分を求めたのか。
答えが出ない事を考えていると眠くなってくる。
長旅で疲れないようにとウィルベアトが敷き詰めたクッションを枕にして、膝掛けをかけて目を閉じればすぐに夢の国に旅立った。
「レイチェル様」
ウィノラの呼び声に目を覚ます。
倒れていた身体を起こして、ぐっと伸びをする。
「お嬢様」
外から聞こえてきたのは御者兼護衛イーゴンの声だ。
ウィノラに身なりを整えて貰ってから扉を開けると見晴らしの良い草原に到着していた。
「そろそろお昼ご飯にしましょう」
え?もうお昼なの?
父から結婚祝いに貰った懐中時計を見ると時刻は十二時ぴったり。
どうやら六時間も寝てしまっていたらしい。
ウィノラも起こしてくれたら良かったのに。彼女を見ると「よくお休みだったので」と答えてくる。
「お嬢様、昨日眠れなかったんですか?」
「七時間は寝たわ」
「寝過ぎじゃないですか?」
合わせて十三時間。
これから嫁ぎ先に行くというのに緊張感を持たないからかイーゴンに呆れた顔をされる。
嬉しそうな表情を作るウィノラは「流石はレイチェル様。肝が据わっていますね」と腕を組む。肝が据わっているわけじゃなくて嫁ぐ実感が湧かないだけだ。
「イーゴン、一つだけ言っておくわ」
「なんですか?」
「私だってこんなに眠るつもりなかったのよ」
じっと見つめられるが事実だ。
見つめ合う事、三秒。イーゴンは腰に手を当てて深く息を吐いた。
「とりあえずヨダレは拭いた方が良いですよ」
「え?嘘?付いてる?」
「嘘ですよ」
けらけら笑うイーゴンの肩を殴る。
淑女に言う嘘じゃないでしょ。
睨み付けていると立ち上がったのはウィノラだった。物凄い良い笑顔で「レイチェル様、少々お待ちください」と馬車を降りていく。逃げようとしていたイーゴンの首根っこを掴むと扉を閉めた。
「イーゴン、ご愁傷様」
扉の向こう側からイーゴンの絶叫と助けを求めるような声が響いた気がしたけど無視させて貰った。
十分後すっきりした笑顔で扉を開けたのはウィノラだ。奥にはぐったりと倒れ込むイーゴンの姿がある。
物理的な説教を受けたのだろう。
「お待たせ致しました、レイチェル様。すぐに昼食の準備をさせて頂きますね」
「ええ、お願い」
「お昼は奥様特製のサンドイッチですよ」
「お母様の…」
母が作ったサンドイッチを食べるのはかなり久しぶりな気がする。母は裕福とは言い難い伯爵家の娘だった。その事もあって料理上手なのだ。ただあまり表には出さないのは貴族らしくないと言われるのを避ける為であると本人から聞かされた事がある。
「ウィノラ、一緒に食べる?」
「ご一緒させて頂きます」
誘えば嬉しそうにするウィノラ。奥に転がるイーゴンにも声を掛けると「喜んで!」と立ち上がった。
ついさっきまで倒れていたのに現金な人だ。呑気に鼻歌を歌いながら昼食の場所作りを進めてくれる。
「そういえばお嬢様の結婚相手ってどんな人なんですか?」
三人でサンドイッチを食べ始めた頃イーゴンから尋ねられる。
口の中に入っていた物を咀嚼して紅茶を一口飲むと真っ直ぐ彼を見つめた。
「冷酷って噂の人よ」
「冷酷ですか…」
エディング・ヴィルヘルム・シュテルクスト。
シュテルクス卜帝国の第二皇子であり、私の結婚相手。
年齢は二十五歳。
黒髪と群青の瞳を持つ美丈夫。
目付きは鋭く、皇子あると同時に軍人でもある体躯は鍛え上げられており逞しい。
厳つい外見と低い声から冷たい印象を受ける人。
ただ彼が冷酷と呼ばれる由縁は別にある。
若くして帝国軍の司令官を任せられている彼は『冷鬼の司令官』と呼ばれるほど残酷非道なやり方で戦うらしい。ただし戦勝率を上げるのに貢献している為、彼のやり方に文句を言う者はいないそうだ。
結果、他国にも冷酷という噂が流れている。
「こんな感じで良いかしら?」
「詳しいですね」
「これでも高位貴族だもの。一般教養として習うわ」
幼い頃から多くの事を叩き込まれてきた。
政治学、経済学、語学、他国文化などの勉学に加えて礼儀作法、ダンス、刺繍、歌と淑女として必要なもの全てを五歳の頃から習わさせられてきたのだ。
私よりも次期公爵であるウィルベアトの方が大変そうだったけど。
「お嬢様って体術もなかなかですよね」
「狙われやすいから仕方ないわ」
「レイチェル様が習わなくても私が全てを蹴散らすのに…」
護身用として体術、槍術も習わさせられた。
基本的に護衛が付いている為、実戦で使った事は一度もない。
これからも使わないと良いのだけど。
サンドイッチも食べ終わり馬車に乗り込む。
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