#03 わたしがファハドの秘書?

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新会社の社長はなんとファハド! 初対面で彼の頬をたたいてしまった自分はまっ先にクビだと覚悟したマーガレットだったのに、社長秘書を命じられてしまう。


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 マーガレットがジャーシムと偶然の再会をしてからほどなく、両社の代表がそろった記者会見が開かれた。

 会見が無事に終わると、ブラウン運輸は合併に向けての準備で猛烈に忙しい日々が続いた。それまでは社長秘書を務めていたマーガレットだったが、システム企画室に臨時で席を置くことになった。

 ファハドと直接顔を合わす機会はさほど増えたわけではないが、会議の場などでその姿を目にするたびに、マーガレットの心のなかはざわざわしてしまう。

 なにがあってもビジネスライクに徹しなければという思いと、あのときの彼のキスはなんだったのと、ファハドを問いただしたい気持ちとが闘ってしまう。

 そしてだいたいは、ビジネスに徹しようという心の声が勝つのだけれど……。

 というのも、彼が優秀な経営者であることは、会議の席だけではなく、折々で認めるようになっていたからだ。

 なによりも、新会社スタートのための新たなシステム構築にかかわることは楽しいうえに、やりがいがあった。

 この作業でGエクスプレス社の指揮を執るのは、ファハドの右腕ギルバートだ。

 彼をはじめGエクスプレス側のスタッフとコミュニケーションを重ねるうち、どうやらファハドが、ブラウン側の社員をリストラすることなどまったく考えていないことが、彼女にもわかってきた。

 経営者として優秀だからといって、冷徹なコストカッターってわけじゃないのね……マーガレットは、ファハドのことを違った面から見ようという気になってきた。

 それでも、ふとした瞬間に、あの日の傲慢なキスがよみがえってくる。

 なによりも、あの黒い瞳。

 あの瞳の奥には、それまでマーガレットが見たこともない深みがあった。ちょっとでも気を許せば、ひきずりこまれてしまいそう……。

 あの瞳が、ことあるごとにちらついて、そのたびに全身に言いようのない熱さが走った。


「システムのほうはどうだ?」

 ファハドは社長室で、合併のためのシステム構築の進捗状況をギルバートに尋ねていた。

「新会社発足に間にあうかどうか、ぎりぎりってところだな。スタート前にはテストもじゅうぶんに行なわないといけないし……」

「スタート時に問題が発生したらそれこそ信用にかかわる。とにかく頑張ってくれよ」

「わかっている。それに、思った以上に彼女はできるひとだね」

「彼女って、ミズ・ローパーのことか?」

「ああ、さすがブラウン社長が推薦しただけのことはある、なにを聞いても的確な答えを出してくる。それでいて知識をひけらかすこともないし、責任感も強そうだ。いまではうちのスタッフもすっかり頼りにしているよ」

「そうか……」

 それを聞いたファハドはしばし思案したのち、親友に向かって言った。

「ギルバート、このところ考えていたんだが、新会社の発足にあわせて、女性の秘書をひとり入れようと思う」

「驚いたな! きみはいままで、女性の秘書はわずらわしいって……」

「たしかに、そうだった。勘違いされたり、やたら色目を使われるのはまっぴらだ。とはいえ、女性だから一律にダメと決めつければ、差別的だと言われてもおかしくない」

「ふむ……まあ、きみがよくよく考えたことを、ぼくが反対したことはあるか?」

 ギルバートが問いかけるような目を向けて、続ける。

「それで、誰にするかもう決めたのか?」

「ああ……いや、絞りこんではいるが、まだだ」

「そうか。誰にするにしても、くれぐれも誤解されないよう気をつけてくれよ」

 そう言うとギルバートは、会議室を出て行った。


 ファハドは、ひとりオフィスに残った。

 ギルバートには「絞りこんでいる」と言ったが、心のなかではとっくに決めていた。

 彼女ならきっと、仕事をしっかりサポートしてくれるだろう。

 もともとファハドは、男女問わず優秀だと見込んだ人材は必ず確保してきた。事業拡大に必要なのは、なによりも「ひと」だと考えている。

 そして、彼女はそれに見合うだけの実力をもっている――どういうわけか、心の底からそう思えたのだ。

「いや、自分に嘘をつくな。それだけが理由じゃないだろう?」

 心のなかでもうひとりのファハドがささやく。

 彼女と初めて会った日、触れあったときの唇の感触が彼によみがえっていた。

 静かだがじわじわと、自分の気持ちに変化がうまれていることに、いちばん驚いているのが自分だった。

 どうしてなのかうまく説明できない感情が、心のなかにある。

 公私混同はビジネスにとって最大のリスクだ――そんな疑問がわいたことなど、たとえ親友にさえ言えるはずもなかった。

「なにはともあれ、決断は早いに越したことはない」

 ファハドはさっそく、ブラウン社長に相談するため電話をいれた。


「ええっ! わたしが新会社の社長秘書って、どういうことですか?」

 ブラウン社長に呼びだされたマーガレットは、社長から「きみにいい知らせだよ」と切りだされても、一瞬なんのことかわからず戸惑っていた。

「それはきみ、新生Gエクスプレス社の社長秘書を務める、ということに決まっているじゃないか。さっき社長みずから連絡してきて、きみに任せたいということだ」

「そんな、困ります! わたしには無理です!」

 仕事だけでなく、ファハドの身近で仕事をすると思うだけで、なぜか鼓動が速くなってくる。

 こんなんじゃ、とても無理という気持ちしか湧いてこない。

「無理なものか。きみはわたしの秘書としてこれまで立派に務めてきた。それとも、わたしの秘書だから楽だった、とでも言うのかい?」

 ブラウン社長がいたずらっぽく笑った。

「とんでもない。そんな、意地の悪いことを言わないでください」

「意地の悪いことなど言っていないよ。これは先方からきた話だ。打診がきたとき、わたしはすぐさま、きみなら大丈夫だと請けあった。先方が望んだ人事なんだ、自信をもって取り組みなさい」

「ええ……」

 納得のいかなさを飲みこんで、マーガレットは社長室を出た。

 とんでもないことになってしまった……いきなりの任命、それもあのファハドからの話だなんて。

 いったい、どういうつもりなんだろう?

 ひょっとして、初対面で平手打ちしたことを根にもっているとか?

 まさか、そんなことが理由で秘書をやれなんて言うわけがない。

 それなら、いったいどうして?


「もちろん、あなたが有能だからよ。まったくうらやましいわ。でも、これまで経験を積んできたんだもの、当然よね」

 マーガレットが困り果てて同僚のアナベルに相談すると、あっさりした答えが返ってきた。

「なに言ってるのよ! 新会社の社長秘書といったら、ふつうは親会社の社員から選ぶものでしょう?」

「そういえば、あの社長は女性を秘書にしない方針だったそうよ。あれだけのひとだもの、へたに女性を部下につけて、よからぬ噂が立たないようにしたんだわ。実際、スキャンダルめいた話もあったらしいし……」

「ホントに? そんなひとの秘書だったら、ますますやれないわ。クビになるのを覚悟で、ぜったいに断る!」

 あのファハドが公私混同したり、セクハラしたりするような男なのだろうか?

 あのキスも、彼にとってはちょっとした冗談のつもりだったのかしら?

 マーガレットは、またもやあの日のキスを思い出しながらも、猛烈に腹が立ってきた。

「うーん、ゴシップ誌の記事だから、どこまで本当のことかわからないわ……でも火のないところに煙は立たないって言うでしょ? それに、あんなにハンサムなのよ、秘書が勘違いしちゃうのも当然と言えば当然かもね」

 マーガレットの怒りにもまるで頓着していないみたいに、アナベルが続けた。

「たぶん、新会社がスタートするから、イメージアップも必要だと思ったんじゃない? それにあなたなら、ほかの女子社員たちにねたまれないし……」

「ちょっと、それってどういう意味?」

「だって、オフィスでのあなたは全身から〝仕事にしか興味なし!〟っていうオーラが出まくっているもの。ほら、あなたって、女の敵をつくらないタイプなの」

「なによソレ、ほめてる気?」

「まあ、けなしていないことだけは確かよ」

 アナベルはいつもお気楽なことしか言わないけれど、どう考えても波風が立たないとは思えない。

 噂だって立つかもしれない……それに……。

 マーガレットの心に、あの黒い瞳がまたもや現われた。それと、キスされたときの感触も。

 とたんにかっと体が熱くなる。

 なんなの、この胸の苦しさは。意識しすぎよ!

 マーガレットは、自分のおかれている状況を冷静に考えようと必死だった。

 どちらにしても、新会社に長く勤めることはないだろう。

 それまでの間、国際的な企業で働くことは決して無駄にはならないはず。しかもトップの身近で、一流のビジネスについて学べるのだ。

 これは絶対に、起業のためにいい経験になるに違いない。

 もしも、もしもセクハラめいたことをされたら、そのときは、彼の本性を公にしてやるまでだわ!

 そう考えると、ようやくこの辞令を受ける気持ちになれた。

 そうよ、肝心なのは仕事で評価してもらうこと。いつものように、いえ、それ以上に努力すればいいだけ……心にそう誓うマーガレットだった。

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