恋する猫

守川ひゞく

第1話

 ヒグラシがどこか悲しそうな声でなく中、僕は読んでいた小説に栞を挟んで、壁に掛かった時計を見やった。ちょうど六時を回ったところだった。そろそろだ。


 立ち上がり窓から外を見た。この時期だとこんな時間でもまだまだ空は明るい。


 築二十五年、あちこちガタの来ているアパートの二階。僕の部屋の窓からは、寂れた小さな空き地が見える。住宅街の細い道の途中、まるで子供の歯が抜けてしまったようにぽっかりと空いたそこは、子供が時折遊びで使うほかは、誰にも見向きもされない土地だった。


 整備のされていない雑草だらけのその空き地を眺め続けて二分。細い道をスキップしながら、一人の少女が歩いてきた。手にはレジ袋を持っている。その少女は空き地の中で立ち止まると、座ってレジ袋から缶詰を取り出した。


 窓を開けると、湿気と熱気が冷房の効いた部屋に押し寄せる。同時に、ヒグラシの声に混じって彼女の鼻歌が聞こえてきた。ゆずの『夏色』。いつも同じところで音が外れる。


 彼女が缶詰を開けると、空き地の雑草の陰で寝ていた猫が彼女に近寄ってきた。尻尾だけが白い黒猫だ。猫は彼女の足に身体をすり寄せ、彼女が缶詰を地面に置くと、それに夢中になる。頭を缶詰に突っ込み、豪快に平らげると、前足で自分の方に引き寄せ、端から端までなめ尽くす。


 数分とかからず缶詰を空にしてしまうその猫を、少女はしゃがんでにこにこと見つめている。そしてその少女を僕が見つめている。うーん、こう言うと僕が変態みたいだ。


 つやのある黒髪は肩までの長さしかなく、健康的な程度に日焼けしている肌の色、Tシャツに短パンというラフな格好と相まって、やんちゃそうな印象を受ける。歳は見た感じ十代終わり頃。名前は知らない。いつも猫にえさをあげているから、僕は勝手に『猫姫』と呼んでいた。気持ち悪いとは自分でも思っている。


 彼女は猫が缶詰を食べた後、いつものようにポケットからデジタルカメラを取り出し、その猫の写真を数枚取ると、猫とひとしきりじゃれた後、ご機嫌な様子で『夏色』の鼻歌を歌いながら去っていった。その姿を見送って、僕は深く息を吐いた。


 つまり僕は、名前も知らない彼女――――『猫姫』に、ありていに言えば、恋をしているのだった。



 水曜と金曜と日曜の午後六時頃に空き地に現れる彼女への恋心は、彼女を自室から見るたびに増していった。胸が締め付けられるように苦しい。内からあふれ出す妙に熱を持った感情の処理に困り、一度はもう告白してしまおうとさえ思った。しかし、すんでのところで僕の理性が僕を止める。いきなり知らない男から告白されて交際しようという女性がいるだろうか。


 結局どうにもできず悶々と日々を過ごしていると、僕が恋をしていると悟ったらしい友人が、ため息ばかりつく僕を見かねて、いくつかアドバイスをくれた。ほとんど見当外れで役に立たないアドバイスばかりだったが、一つだけ、とても有用なものがあった。すなわち、「将を射んとせばまず馬を射よ」言い換えれば「外堀を埋めろ」である。


 ということで僕は今、家の近くのスーパーにいる。キャットフードコーナーには、高級なものから財布に優しいものまでよりどりみどりだ。悩んだ末、今月少し家計が厳しかった僕は、特価コーナーに山積みに置かれていた安い猫缶を購入した。


 今日は木曜日。彼女が空き地に来る日ではない。猫缶を使ってあの猫を手なずけておけば、今度彼女が来たとき、この猫をかわいがっている仲間として自然に会話をすることができるという筋書きだ。


 僕の住んでいるアパートを含め古い建物ばかりに囲まれ、時代に取り残されてしまったような空き地。その無造作に伸びた雑草の陰には、尾が白いあの黒猫が退屈そうに寝転んでいた。


 僕がスーパーのレジ袋から安物の猫缶を取り出すと、その音に気づいた猫が頭だけをもたげてこちらを見た。よしよし。


 猫缶を開けて目の前に置いてみる。いつもの彼女と同じようにしゃがみ、猫が寄ってくるのを待った。直射日光に照らされ、暑さが苦手な僕は随分と汗をかいている。シャツが濡れて気持ち悪い。


 袖で汗を拭いながら待っていると、猫は白い尾をゆらゆらと怪しく揺らしながらゆっくりと近付いてきた。僕を警戒し、訝しみながらも、猫缶のにおいに鼻をひくつかせている。


「食え食え。そして僕の恋を手伝ってくれ」


 僕の思いが通じたのか、猫はぺろりと猫缶を一舐め。そして僕の顔を見て、もう一度猫缶を見る。「食え食え」と僕がもう一度言うと、猫は小馬鹿にしたようにあくびをして、定位置である雑草の陰に戻った。


 その後いくら猫缶をちらつかせても、猫は見向きもしなかった。舌が肥えすぎだろう。『猫姫』はいったい普段何をあげてるんだ。



 数日後、僕はリベンジに燃えていた。一つおよそ五百円もする猫缶を購入し、空き地に向かう。正直僕にとって五百円は痛手だ。そのおかげで今日の夕飯は卵かけご飯のみである。恋愛成就のための投資金として自分を納得させた。


「ほら猫、こっちおいで。おいしいごはんがあるぞ」


 そう言って僕はレジ袋から高級猫缶を取り出した。だが猫は僕を見ると、興味なさげに前足を舌でねぶり始めた。


「そんなことしていられるのも、今のうちだけだぞぉ」

 僕は悪役さながらににやりと笑い、高級猫缶の蓋を開けた。おいしそうな匂いが猫のところに届いたのか、猫はまっすぐにこちらを見ている。僕は猫缶をその場に置くと、少し離れて腰を下ろした。


 今日こそは、この猫と仲良くなってみせる。ひいては『猫姫』と仲良くなってみせる。僕の決意は、自分用に買ったツナ缶より数倍高いこの猫缶に表れている。


 だが僕の決意とは裏腹に、猫はいっこうに猫缶を食べようとしなかった。猫缶まで歩いてきて鼻を近づけるのだが、それ以上のことをしない。僕を警戒しているのか、それともお気に召さなかったのか。


「なあ猫、それ何円したと思ってるんだ。五百円だぞ五百円」


 僕が恨みがましく言っても猫はどこ吹く風と猫缶の前に座り、大きくあくびをしている。


「おい、聞いてるのか、猫!」


「ちょっと君、シローをいじめないで」


「うぉほっ」


高かった猫缶を一口もせず、あまつさえあくびをした猫に軽くいらつきを覚えて言った途端、僕の肩に手を置かれた。思わず喉から奇妙な声が出た。いや、というか、この声、


「ね、猫姫?」「えっ、誰?」あ、しまった。


 つい勝手に付けた名前で呼んでしまった僕を怪訝そうに彼女は見つめる。羞恥と衝撃で頭が真っ白になり二の句が継げないでいると、彼女はひょいと僕の頭の上からシローと呼んだ猫を見た。


「ってなんだ、君もシローにご飯あげてたんだね。ごめん、勘違いしちゃった」


 気まずそうに笑う彼女の顔に見とれていると、彼女はすり寄ってきた猫の頭をなで始めた。ごろごろと喉を鳴らすシロー。対応の格差を感じる。


「にゃー、シローちゃん、そんなに私のこと好きかねそうかね、かわいいなぁもう」


 顔の筋肉がだらしなく弛緩したにまにまとした笑みを浮かべながら、彼女はシローを抱き上げた。シローは気持ちよさそうに目を瞑り、ゆらゆらと白い尾を揺らした。僕もそのさわり心地の良さそうな毛並みに触りたくて恐る恐る手を伸ばした。


「あっ」


 猫はするりと彼女の手から抜けだし、地面に降り立った。そして彼女を背に、毛を逆立てて僕に対して威嚇しだした。まるで、彼女を守るみたいに。


「ちょっと、どうしたのシロー。君、シローに何かした?」


「え? い、いや、なんにもしてない」利用しようとは、してたけど。


 僕は一歩引いてシローを落ち着かせようとしたけど、彼は変わらずうなりながら僕を威嚇し続ける。


 僕が困ってシローを見ていると、パシャリとシャッター音が聞こえた。彼女がいつものデジタルカメラで、威嚇するシローと僕を撮っているのだった。


「あはは、こんなシロー初めて見た! ありがとね、君のおかげでかっこいいシローが見られたよ。ほんとに、ありがと」


 猫に嫌われてなぜだか礼を言われた。僕が曖昧に笑うと、彼女は威嚇するシローを数回撮った後、僕の買った高級猫缶をシローの目に入る場所に置いた。そうしてシローが落ち着くのを待って、その背中をなだめるように撫でた。シローは気持ちよさそうに「ナー」と鳴いた後、勢いよく僕の買った高級猫缶をおいしそうに食べ始めた。おい。


「お礼に、シローの名前の由来を教えてあげよう」

 猫缶に夢中になっているシローをレンズで覗きながら、彼女は得意げに言った。


「はぁ」

 シロー、四郎、士郎。なんだろう。


「この子、尻尾だけ白いでしょ。だから、シロー。白い尾でシローなの」

 ふふん、と自慢げに彼女は鼻を鳴らした。なるほど、白尾か。


「それはなかなか、おもしろいね」

「でしょ」


 『面白い』と『尾も白い』をかけた僕の冗談はどうやら通じなかったらしい。


「私さ、水曜と金曜と日曜、ここでシローに猫缶とかあげてるの」

「うん」

 もちろん、知ってる。だから土曜日である今日、彼女は空き地には来ないと思っていたのに。


「だからさ」

 彼女はレンズから目を離し、僕をまっすぐに見た。曇りのない強い光を持った瞳が、僕に向けられる。


「時々でもいいから、君も来てよ。君といると、いつもと違うシローが見られるからさ」

「う、うん。分かった」


 彼女のまぶしい笑顔とその言葉に、どくんと心臓がはねた。バクバクと、弾けんばかりの音を奏でる。にやにやと口角が緩む。


 パシャリとシャッター音がした。彼女が、僕のだらしなくにやけていた顔を撮ったのだった。


「じゃ、これからよろしくね」

 容赦なく日光を降り注ぐ太陽にも似たその笑顔で、彼女は程よく日焼けした右手を差し出した。


「よ、よろしく」

 僕も、屋内に篭もってばかりでもやしのように白い右手を出して彼女の手を握った。思ったより小さく、温かな手だった。


 蝉が力の限り鳴く中、シローが僕たちを見上げて、不機嫌そうに「ぶにゃあ」と鳴いた。



 それから、水曜金曜日曜の週三日、僕と彼女と、それからシローでのデート(ということにしておきたい)を通して、僕と彼女は仲を深めた。彼女は時々来るだけでいいと言ったけれど、もちろん皆勤賞だ。しかしシローは、僕がいることに――――と言うよりも、僕が彼女と仲良くしていることに―――不満も多いようだった。威嚇したり、僕がどんな高級猫缶をあげても食べなかったり。彼女のあげた猫缶はどんなに安物でもおいしそうに平らげるくせに、だ。


 それでも、彼女がいないときに時折猫缶をあげにいくと、喉は鳴らさないものの、仕方なくと言った様子で僕の猫缶を食べてくれるようになった。食べ終わると、僕を見もせず定位置に戻って元のように寝てしまうのだけれど。


 どうやら驚くべきことに、シローは彼女がいるときといないときで振る舞いを変えているらしかった。彼女がいるときは僕のことをあからさまに無視したり、威嚇したりと、敵対的な行動を取ることが多い。僕と彼女が楽しそうに話していると、「かまって」とでも言うように彼女の足に顔や身体をすりつけるのである。逆に彼女がいないときは、なんだか常に無愛想で、僕の相手はまるでしてくれないのである。


 信じられないかもしれないが、シローは彼女に、恋、もしくはそれに似た親愛のようなものを抱いているようだった。だって、どうみてもシローは彼女と話す僕に嫉妬しているようなのである。それに、僕に向かって鳴く場合と彼女に向かって鳴く場合は、鳴き声の高さが全く違う。彼女にすり寄るとき、シローはまさに猫なで声を発するのだった。



 だんだん暑さが収まってきた頃、僕と彼女の仲は、猫好き仲間からより親密な関係へとゆっくりと進展していた。空き地でしか会うことのなかった僕たちも、時々市街地でデートするようになった。最初はたしか、シローのおもちゃを買いに行くという名目だったはずだ。それらのデートを通して彼女のことを知るたびに、それが最大だと思っていた僕の恋心はぐんぐんと肥大していくのだ。


 彼女は甘いものに目がなかった。街でクレープ屋やアイスクリーム屋を見かけると必ず目を輝かせた。食事をした際はデザートを食べることは当たり前で、そのくせデザートのカロリーを気にしたりする。結局たいらげてしまうのに。甘いものを食べているときの彼女の顔は、僕の知っている中で一番幸せそうだった。


 彼女は大学でテニスをしているらしい。月、火、木、土の週四日、部活の練習をしていて。僕と出会ったあの土曜日はたまたま部活が休みになったようだった。その偶然に僕は深く感謝した。


 練習試合や大会があった次の日、彼女はだいたいむすっとしている。悔しさを隠そうともせず、あのときこうしていれば、と一人でぶつぶつと呟いている。僕が話を聞くと、彼女はジェスチャー付きでつぶさに説明してくれる。そして自分の後悔した場面に差し掛かると、より解説に力が入り、たまにちょっぴり泣いてしまう。そんなとき僕は彼女を言葉で慰め、シローは彼女の手を舐めて慰める。ちなみに満足した試合の次の日は、にこにこと楽しそうに、やっぱりジェスチャー付きで臨場感あふれる解説をしてくれるのである。


 彼女はとても正直である。僕が散髪したときなんか、面と向かって「変だ」と笑われた。彼女と買い物に行ったときなんかは大変だ。商品の値段を見て大きな声で「高っ」と驚くし、商品の評価を店員の目の前でずばりと言ってしまうのである。高評価ならいいが、低評価をしてしまい店員から迷惑そうな目で見られることもしばしばだ。素直というと聞こえがいいが、その歯に衣着せぬ物言いでこれまで苦労してきたんだろうな、と察せられた。主に彼女の周囲が、である。


 彼女は意外と泣き虫だ。部活で悔しい思いをしたときや感動する映画を見たとき、彼女の黒い瞳にはすぐに涙が溜まり、頬を滑り落ちる。二人で映画を見に行ったりすると、横から彼女の嗚咽が耳に入り、映画の内容が頭に入らなかったこともあった。その上その映画の感想を求め、僕があまり集中できなかったことを知ると怒り出すのだからたちが悪い。


 とにかく、僕の想像とはだいぶかけ離れていた彼女だけれど、それでも僕にとっては魅力的であることに変わりは無かった。彼女と過ごす一瞬一瞬が輝かしい。


 僕はもう、自分の想いを自身の内だけに留めておくことが困難になっていた。名前も知らず窓から眺め続けていたあの頃とは違う。もう彼女の名前はもちろん、生年月日、家族構成、好きな食べ物、趣味(猫の写真を撮ること)、癖、人には言いにくい悩みまで、たくさんのことを僕は知っている。そしてそれは、彼女も同じだ。



 時は満ちた。僕は彼女に告白することを決意し、彼女を遊園地に誘った。


 彼女は予想通りというかジェットコースターが好きみたいで、僕たちはその日何回もジェットコースターに乗った。ぐったりとした僕を引き連れてお化け屋敷に入ると、僕の手をつかんでひとしきり叫び、やっと出口に着くと実に楽しそうに笑っている。インドア派の僕とは持っているエネルギー量が違うのだろう。


 半日遊園地を堪能した最後に、僕は彼女を観覧車に誘った。頂上でキスしたカップルは云々なんていうありがちな噂は全くない普通の観覧車ではあったけれど、告白する場所としては最適だと考えたからだ。


 あからさまに緊張しだした僕を見て察したのか、観覧車のゴンドラに乗った途端、彼女の口数が激減した。うつむいたり外を見たりと忙しなく、時々ちらりと僕に視線を向ける。


「夕日、綺麗だよね」


 沈みかけの太陽に目を向けたまま、彼女が言った。夕日のせいかもしれないが、耳が赤く染まっているような気がした。


「あ、うん。そうだね……」

 僕が曖昧に返事すると、それきり彼女も黙ってしまった。


 僕は大きく息を吸った。やけにうるさい胸の鼓動を感じながら、拳を強く握った。


 そのまま思い切って、彼女に思いの丈をぶちまけた。彼女が好きなこと、実は会う前から好きだったこと、彼女の好きなところ。彼女はそれを嬉しいような照れているような表情で、顔を赤くしながら聞いていた。


「――――それで、あの」


「……うん」


「僕と、付き合ってもらえませんか」


「えへへ、こちらこそ、よろしくね」


 こうして僕たちは、正式に交際することになった。


幸福感に満ちた僕の頭の片隅に、尻尾の白い黒猫の姿が浮かんだ。彼女に恋をしているようにも思えた、シローの姿が。

 彼女も同じことを考えていたのか、「シローに報告しなきゃね」と笑った。



 あのうだるような暑さの夏も終わり、随分と涼しくなってきた。夕方になると、ヒグラシの代わりにコオロギやスズムシが涼やかに鳴く。秋の日はつるべ落としと言うように、この時期になると六時でもけっこう空は暗い。


 彼女と付き合うことになった次の日、いつものように、あの寂れた空き地に五百円の猫缶を持って向かった。


 夏を越えまた少し日に焼けた彼女が、シローと猫じゃらしで遊んでいる。僕の『彼女』。恋人という意味の『彼女』である。僕はにやにやと口角が上がるのを必死に我慢しなければならなかった。


 僕が猫缶を開けてシローの前に置くと、さっきまで元気に遊び回っていたシローは急に不機嫌になり、猫缶に口も付けようとしない。彼女が苦笑して食べるように促すと、シローは手のひらを返すように食らいついた。いつもと同じだ。


「あのね、シロー」

 僕の五百円を胃袋に納めていくシローを見つめながら、彼女が言った。


「私たちね、付き合うことになったの。ね?」


 彼女が僕を振り返る。顔に咲くような笑みを浮かべながら。


 シローが驚いたように食べるのを止め、彼女の顔をじっと見つめた。


「う、うん」

 僕らの言葉を理解しているようなシローの行動に、僕は少し動揺した。もしシローが言葉を理解しているとしたなら、彼女を奪った僕のことをシローはどう思うだろうか。


「シローに報告しなきゃいけないと思って。…………って、シロー?」


 シローは彼女の言葉には反応せず、白い尾を煙のようにゆらゆらと揺らしながら、僕に向かって歩み寄る。周りが暗いので、白い尻尾だけがやけに浮いて見える。僕は思わず後ずさりした。


「ちょっと、シロー!」


 彼女が制止するためにシローの身体に手を伸ばすが、シローは身をよじってその手を避けた。いつものシローではありえない。

 毛が逆立ち、爪がたっている。僕が逃げようと動き出すより先に、シローは僕に跳びかかった。


「逃げてっ」

 彼女が叫ぶ。足が絡まり、僕はその場に倒れた。


 尻餅をつくことで避けたかに思えたが、鋭い爪が僕の指を僅かに掠った。

 血液が指から垂れて、暗い地面にシミを作った。痛みに顔をしかめる。


 なおも僕に跳びつこうとするシローの前に彼女が慌てて立ちふさがった。今にも跳躍しようとしていたシローも動きを止めた。


「シロー! 何でそんなことするの? ひどいよ!」


 怒気を帯びた彼女の非難にシローがびくりとたじろいだ。彼女はシローを牽制したまま僕の方を振り返り、顔に心配の色を浮かべた。


「とにかく傷を洗わなきゃ。行こう!」


 彼女が僕の手を取り、そのまま振り返りもせず空き地を出て行く。彼女に引っ張られながら振り返ると、食べかけの猫缶の横で、シローは白い尻尾をへたっと倒れさせたまま、呆然とその場に座って動かなかった。


 周りを古びたアパートに挟まれた細い道を歩いていたとき、後ろから猫の鳴き声が何度か聞こえた。まるで誰かを呼んでいるかのような声だった。聞き慣れたその声が誰のものか分かっていたはずだけれど、彼女は最後まで振り返らなかった。



 それから数ヶ月が過ぎた。シローを通して仲良くなった僕と彼女の関係は、一言で言えば順調だ。デートもそれなりに重ねたし、それからキスだってした。


 けれど、あれからずっとシローを見かけていない。空き地にキャットフードなんかを持って行っても、あの黒猫が姿を現すことはなかった。空き地に茂った雑草の陰、シローの居場所だったそこにもいない。猫は人の見ていないところで死ぬと言うけれど、僕も彼女も、シローがどこかで生きていることは疑っていなかった。


 もうここには戻ってこないのだろうか。そんな会話を何度か彼女としたけれど、彼女は最後には必ず「また会いたいなぁ」と、どこか寂しそうに言うのだった。


 もしシローが本当に彼女に恋をしていたのなら、僕は彼にひどいことをしてしまったのだろう。叶わない恋だったのかもしれないけれど、自分の好きな人が誰かに奪われるのを見ているなんて、つらいに違いない。


 もちろんこんなの、ただの僕の勘違いかもしれない。けれど、シローとそれなりに長い時間を過ごし、彼女と遊ぶシローを見ていた僕にはどうしても勘違いと割り切ることができないのである。


 何でいなくなっちゃったのかな、と彼女は空き地にきてシローを捜す度に口にするけれど、僕には少しだけ分かる気がした。


 誰だって、好きな人が自分じゃない相手に恋をしている姿を見るのはつらいものだ。



 重い雲が垂れ込めた空からしんしんと真っ白な雪が降っている。暑い夏も寒い冬も基本的に外に出て遊ぶのが嫌いな僕は、暖房の効いた部屋で本を読んでいた。外には雪が薄く積もっていて、景色全体に白い化粧でもしているみたいだ。


 シロー、寒いだろうな。降り積もる雪を見てそう思った。何の気なしに空き地を見る。別に何かを期待していたわけじゃない。


 白く染まった空き地の中央。そこに、黒猫が座っていた。まるで誰かを待っているようだ。目をこらしてよく見ると、白い尻尾が揺れていた。


 シローだ。


 僕は買いだめしていた猫缶を掴んで家をとびでた。暖かい部屋にいた身体に寒さが痛みとなって突き刺さるが、そんなの気にしていられない。


 たいした距離じゃないけれど、全速力で走ったせいで激しく息切れした。息を吸う度に目が覚めるような冷たい空気が肺を満たす。


 空き地に着くと、雪で真っ白な地面に座る、真っ黒な猫が目に入った。僕が肩で息をしていると、シローは不機嫌そうに「ぶにゃあ」と鳴いた。


 最後に会ったときと比べて、シローは随分と痩せていた。毛並みもつやがなく、どことなく元気もない。


 僕は慌てて猫缶を開け、シローの前に置いた。けれどシローはそれをちらりともせず、まっすぐに僕を見ていた。


 雪に足跡をつくりながら、僕の方にシローが歩いてくる。少し前にひっかかれたことを思い出して一瞬どきりとしたけど、どうやら僕を襲うことが目的ではないらしかった。


 僕はしゃがんでシローに手を伸ばした。


 シローは僕の手に近付くと、指を舐めた。ざらりとした感触が残る。舐められた指は、あのときシローにひっかかれた指だった。


 そしてシローは、寂しげな声で一度鳴いた。それは「じゃあな」にも、「任せた」にも聞こえた。


 そのままゆっくりとシローは僕から離れたいく。一度も振り返らなかった。後にはシローの小さな足跡だけが、長く長く続いていた。



 それから、もう二度とシローを見ることはなかった。彼女にシローと会ったことを話すと、「私も会いたかったな」と寂しげに言っていた。


 もし、シローが彼女に恋をしていたなら。


 もし本当にそうだとしたならば、その想いを伝えることが、僕にできる精一杯のことなのかもしれない。

 だから僕は、シローの想いを言葉にしようと思う。猫のシローが伝えられなかったことを、僕は彼女に伝えたい。


 原稿用紙を前にして、考える。

 シローと出会ったのは、確かヒグラシの鳴く季節だったっけ。


                了

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