忘却は幸福か

かんた

忘却とは

 辛いことも悲しいことも、時間が経てば薄れてくるという。

 時間が経つにつれてその時起こったこと、それに対して思った感情さえも記憶から薄れていくからこそ、辛かった記憶も薄れていくことで、世間ではどんな傷も時間が癒してくれると言う。

 しかし、それは辛かったこと、悲しかったことに限らない。

 当然ながら嬉しかったことや幸福な記憶でさえ、時間が経つにつれて色褪せてしまうのだ。


 果たして、忘却とは幸せなことだろうか。

 確かに辛い記憶を忘れられるのはいいことだろう、何時までもつらかった記憶を残して生きていくには人間は弱すぎる。

 そう思えば、忘却するというのは人間の自己防衛で、幸福なことなのかもしれない。

 しかし、幸せだったことすらも忘れてしまうというのは、あまりにも欠陥ではないだろうか。

 人間は弱い生き物だ。

 肉体的にも野生の生物に勝ることはないことから明らかだし、精神的にも、無駄に脳が発達してしまったことで生きること以外のことを考えるようになってしまい、悩み、惑い、苦しむというように、とても弱く出来ている。

 果たしてこれでは、進化したのか退化したのか、分かったものでは無い。

 神を信じているわけではないが、なぜこのように作られてしまったのかと嘆きたくもなる。

 もちろん、人間でも強い人間はいる、肉体的にも精神的にも。

 しかし、彼らが元から強かったかと言うと、そうではないだろう。

 自らの弱さを許せず、強くあらんとした結果、他の人間よりは強くなったに過ぎない。

 そんな彼ら彼女らであっても時には悩み、惑うこともあるだろう。

 こんな姿は、自然界での一生物として正しい姿なのだろうか。



 閑話休題。


 さて、話が逸れてしまっていたが、忘却とは幸福なのだろうか。

 もちろん、これは見る側面によって、人によって変わってきてしまうのは承知のことだが、それでもあえて私は不幸なことだと言おう。

 幸せな記憶を忘れる、忘れてしまうというのはどれほど辛いだろうか。


 例えば、失恋は辛いものだ。

 それも、長く付き合い、愛していたものからの別れは言うまでも無く苦しいことだろう。

 確かに、周囲からしたら早く忘れて別に愛せる人を探せばいい、時が経てば忘れるものだから、と思うのかもしれない。

 しかし、それまでの相手との記憶は辛いことばかりではないだろう。

 当然、幸福な記憶もあったはずだ。

 未練もあるのならなおの事、出来ることなら相手のことを忘れたくは無いし、どこにいったか、何をしたのか、一挙手一投足を忘れるなんて許せないだろう。

 それを、自らの意図した形でなく、半ば勝手に手放していかれるなど、自らの中から消失していくことなど、もはやそれは自らの身体を徐々に失っていくようなものだろう。

 一体、自らが徐々に削られていく、失われていくことが苦痛であることに、不幸であることに何か異論があるだろうか。


 また、不幸なこと、辛いことを忘れるというのも私は幸福なことだとは思えない。

 もちろん、何時までも辛いことを考え続けていては心がもたないだろう。

 しかし、それら不幸なことですら、その人間にとっては経験であり、成長の糧になるはずだ。

 それらを成長の糧にした後、辛かったことを忘れても出来るのならばそれでもいいだろう。

 しかし、やはり成長と言うのならば、失敗から学ぶという言葉がある様に、自分にどのようなことが起こって、そこからこのような教訓を得た、と一連の流れを把握していないと、いずれ自分で得た教訓であっても形骸化してしまい、何故このような教訓を得たのかも分からずに結果だけを覚えることになってしまう。

 これは、良いことではないだろう、何故と言って、似たようなことが起きても、教訓での場合とは異なるのだから気にしなくてもいいだろう、と考えるからだ。

 勉学でも同じことではあるが、過程を無視して結論だけを気にしたとて、それが良い方向へと働くことは少ないのだ。


 これらのことで、私は忘却とは、幸福なことでは決してない、不幸なこと、苦痛であると考える。

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