夕暮れのクリームソーダ

南野月奈

夕暮れのクリームソーダ

 決まった得意先を回るだけとはいえ、久しぶりすぎる外回りに、私の足は限界だった。

 内勤になってもう、何年もたっているなかの突然の辞令、新人教育が終わるまでの繋ぎだということは承知しているけれど……

 願わくば、新人が教育期間中にギブアップしてやめたりしないことを祈るしかない。


「いらっしゃい」

「また、来ちゃった」

「最近、おつかれなんだね、今、外回りなんだっけ?」

「直帰できるのはいいんだけどね」


 疲れると、いつも私はこの喫茶店にくる。

 ドアを開けたときにカラカラと響く年期の入った鈴の音色も、マスター穏やかさも私が父に連れられて通ってきていた子供の頃から雰囲気は変わらない。


「マスター、ナポリタンとクリームソーダで」

「ゆかちゃんのいつものやつね」


 こっそりテーブル下でパンプスを脱ぐと、いよいよ脚がむくんでいるのを自覚することから逃れられない。


「ねえ、マスター、私なんだか毎日、毎日、アリみたい……内勤だったときは同じことの繰り返しでもこんなこと考えなかったのに」

「営業、ゆかちゃんには本当に向いてないんだね」

「そうなの、会社やめてキリギリスになっちゃおうかな?」


 まったく、そんなことができる度胸もないのは、私が一番よくわかっているからこれは優しい親戚のおじさんのようなマスターにこぼしたただの愚痴。


「ゆかちゃん、知ってるかい?アリっていつも二割位が働かないんだって」

「そうなの?」


 ナポリタン用のスパゲッティーを柔らかめに茹でる時間、マスターやマスターの奥さんと話すこの時間が好きだ。


「種類にもよるらしいけどね、その二割を除いても結局残したアリから二割働かないアリが発生するらしい」

「なんでなのかな?」

「100%で巣が稼働していると緊急事態に対処できないかららしいよ」


 マスターの言いたいことがなんとなくわかった気がする。

 それをどうやって自分の行動に落とし込んでいくかは別だとしても。


「ナポリタン、お待ちどうさま、クリームソーダは今、奥さんが作ってるからね」

「いただきます」


 くるくると巻き付けてケチャップがいっぱい使われた私の大好きなナポリタンを頬張る。

 大人になって、いろんな変わった食べ物や高価な食事に触れても子供の頃から大好きな物は譲れない。


「ゆかちゃん、クリームソーダもできたよ、まったく、この人ときたらいくらお客さんに突っ込まれてもうちのはこの色って譲らないんだから、まぁ、でもこだわりを主張するって人生に、たまには必要なのかしらね」

「子供の頃からコレだから私、クリームソーダってこの色が普通なんだと思ってたよ」

「常連さんの子どもさんは大概そう言ってくれるわね」


 奥さんが差し出してくれたクリームソーダは赤いイチゴシロップを使った綺麗なルビーのような赤色だ。

 緑のクリームソーダがメジャーだってわかったのはそれなりの年齢だった気がする。


「こだわりかぁ……、とりあえずダメ元で主張してみようかな…………」


 大好きなナポリタンを食べて、大好きな赤いクリームソーダを飲みながら内勤に戻してくれるように会社に主張してみる決意を固めたのだった。

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