第17話 努力のスペシャリスト

 『どうだい、その後、指の具合は?』


 『まだ元の通りとはいかないけれど、でも、少しづつ動く様になってきているわ』


 天羽あもうつばさは、強い意志の炎が灯った眼差しを僕に向ける。


 『そうか、それは良かった』


 天羽翼は絶対に諦めない。


 どんな困難にも立ち向かい、どんな不遇にも不満を垂れない。


 彼女は暴走する車から女の子を庇い、代わりに大きな怪我を負う事になった。


 その怪我というのが、運の悪い事に、ピアニストには致命的ともいえる、指の開放骨折だったのである。


 それでも彼女は、恐怖も絶望も胸に抱えて、未来への1歩を踏み出し続ける。


 そんな強い女の子だから、天羽翼は必ず指を回復させて、世界中の人々の心を震わす美しい旋律を奏でるピアニストに、きっとなるであろう。


 今日、僕は、前を向いてリハビリに取り組む彼女に同行して、病院に来ている。


 どんよりとした重い雰囲気に支配されるこの空間で、それでも、凛として真っすぐに未来だけを見据えているのは、天羽翼ただ一人であった。


 『でも最近は、なんだか怖いウイルスが流行しているみたいだから、気をつけなくちゃね。この病院でも、一人死者が出ているもの』


 そう、ここ1~2週間の間に、この街では未知のウイルスによる死者が、少なくとも10人は確認されている。


 なぜだか世界中でこの街だけに局所的に発生した未知のウイルス。


 確認された死者は1桁代から90歳代までと幅広く、感染源は不明で、ヒト-ヒト感染をするのかも、今の所は解明されていない。


 そういう訳で、この街の住人は、致死性ウイルスの感染が拡がる街に閉じ込められているのである。


 少数の命よりも多数の命。


 国を運営する政治家たちにとって当然の選択なのであろうが、本当にその選択は正しいのか?


 犠牲の上に成り立つ人生のその先には、幸せは決してない。


 でも、この殺人ウイルスがこの日本中に拡散して、この国が死と恐怖に包まれる未来を思えば、彼らの選択を責める事が出来ないのもまた事実なのである。


 ウイルスに感染した者は、全身の毛穴から血を噴き出して、あっという間に死んでいく。


 子供も大人も老人も。


 体の弱い者も体の丈夫な者も関係ない。


 誰もがウイルスに感染する可能性をはらんでいて、ひとたびウイルスに感染したのならば、殺人ウイルスによってあっという間に殺されてしまうのである。


 明日死ぬかもしれない。

 

 そんなのは、ウイルスが無くたって当然の真理なのだけれど、やはり分かりやすい脅威が目の前に現れると、足がすくんで恐怖してしまうのが人間のさがであるらしい。


 『そうだな。未知のウイルス、感染源は不明。なぜこの街にだけウイルスが発生しているのかは分からないけれど、まだ死ぬ訳にはいかないからな。君も、僕も』


 『えぇ。私は、こんな所で終る訳にはいかない。一度夢を失いかけて気づいたの。私はどうしようもなく人生を愛している。私はどうしようもなく人間を愛しているんだって』

 

 天羽は窓の外の雲一つ無い青空を見上げる。


 『命の終わっていく音がする。希望が消えていく音が、絶望の扉の開く音がする』


 天羽が、何も無いくうを、まるで鍵盤を弾く様に指で叩く。


 『こんな悲しい音色はもう聞いていたくはないよ。だから私の音で、悲しみも絶望も全部包み込む。それが私の生まれた意味で、私の生きる意味なんだって、私の心が叫んでいるから、だから私は、こんな所で終らないよ』


 『あぁ、そうだな。こんな所で終っている場合じゃない』


 バイオテロか?


 しかし、だとしたらなぜこの街を狙う?


 たしかに、この街は日本の首都の一部ではあるけれど、別に国の機関がある訳でもなければ、研究機関や民間の有力企業がある訳でもない。


 こんな街を一つ潰した所で、日本はそれほどダメージを受けるという事はない。


 ならば自然発生したウイルスなのであろうか?


 しかし、この街にはウイルスの温床となる様な野生動物は見受けられない。


 この様な事態は、六千年の時を生きて来た僕であっても簡単には収束させる事が出来ない。


 ペストやチフス、スペイン風邪等、今までも感染症は人類に猛威をふるってきた。


 だがしかし、このウイルスの致死性は、それらの感染症の遥か上をいく。


 致死率100%。


 まさに、人間を殺す為に生まれたウイルス。(人間を殺してしまう事は、ウイルスにとっても意味の無い事なのだけれど)


 このウイルスがヒト-ヒト感染を起こし、世界中に拡散したのなら、その時、人類は短い歴史に幕を閉じる事になるだろう。


 まだだ。まだ終わる訳にはいかない。


 だって、いまだかつて人類は、幸せを手にしていないのだから。


 ここで終ってしまったならば、人は、何の為に生まれて来たというのだろうか?


 絶望を乗り越えて、命懸けで自らの使命を果たそうとする天羽翼。


 人の想いは伝播でんぱして、希望が未来を切り開く。


 幸せを手にするまでは、終わる訳にはいかないのだ。


 それが独りよがりなエゴだとしても、僕は人間に生まれて来たのだから。


 僕はこの目で幸せを見るまでは、どんな手を使ってでも、みっともなく生にしがみ付いてやる。


 天羽翼の指が激しく鍵盤を弾く。


 聞こえるはずのない音が、聞こえる。


 この世界の全ての悲しみを消し去る希望の音色が、確かに僕の耳の奥で響く。


 これが彼女の音なのか。


 僕はこの音色を守らなければならない。


 この音色を奏でる彼女の美しい心を守らなければならない。


 この音が、いつか人類に幸せをもたらす。


 僕はそう確信しているから。


 『なぁ、天羽』


 『うん?』


 『音楽は人を幸せに出来るかな?』


 そうであって欲しい。


 そうだといって欲しい。


 『えぇ。もちろん』


 くうの鍵盤を弾く天羽が、太陽みたいに眩しい笑顔を浮かべる。


 『音楽は人を幸せに出来るよ』


 あぁ、よかった。


 それなら僕は、迷わず未来へ1歩を踏み出す事が出来る。


 『そうか、うん。そうだよな』


 真っすぐ、未来だけを見据える少女の言葉に、僕の心は救われた。


 彼女の音は、必ず人類に幸せをもらたす。


 だから僕は、僕の戦いをしよう。


 見上げた空は、人間の悲しみや絶望などおかまいなしで、相変わらずの美しいあおだった。


 今日も僕の隣には、凛とした努力の人の優しさが溢れている。

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