第31話 ブロカ通りのアパルトマン

 夜が明ける少し前――


 ローマに本部を置く秘密組織〈ウーンブラ〉の構成員は、アパルトマンの鍵をこじ開けると、靴を履いたまま、ブロカ通りに在る建物の五階の部屋に侵入した。

 だが、まだ早い時刻にもかかわらず、屋内には既に、居住者の姿はなかった。

 日本人に直に尋問したかったものの、いないものは仕方がないので、侵入者は家探しを始めた。


 日本人が滞在しているアパルトマン内に在る物は少なく、置かれている物は、部屋の出入り口近くの本棚と、そこに、整然と並べられている書物くらいしか無かった。


 侵入者のイタリア人は、書架の本を次々に手に取ると、それら全てを、床に放り出していった。しかしながら、空になった棚には、目当ての物は隠されてはいなかった。

 それから、木製の本棚を床に乱暴に押し倒し、壁と棚の間も確認してみたのだが、やはり、そこにも〈白箱〉は見当たらなかった。


「マレディチィオ~ネ、マレディチィオオオォォォ~~~ネ(ちっくしょう、ちっくしょうおおおぉぉぉ~〜〜う)」

 悪態を吐き続けながら、首を巡らせたイタリア人の視界に、部屋の隅に置かれていた二個のスーツケースが入った。

 侵入者は、鍵が掛けられていたスーツケースをこじ開けると、荷物がパンパンに入っていたケースの中身を、次々に床に放り投げていった。だが、そこにも、巻子本が収められている、雪花石膏の白い箱を見付け出すことはできなかった。


 思い通りにいかなかったため、怒りが抑え切れず、イタリア人は、靴で、床を何度も何度も強く踏み叩いたのであった。

 激情をひとしきり吐き出し切った後、侵入者の目には、何も物が置かれていなかったと思い込んでいた机の上に、メモ・ブロックがあるのに気が付いた。

 イタリア人は、そのメモ・ブロックをパラパラっと流し見してみた。その後でさらに、一枚一枚を捲って確認もしてみたのだが、机上に残されていたメモ帳の全ては空白であった。

 だがその時、侵入者は、一番上のメモの表面が、やや凹んでいるのに気が付いた。

 この時、ピンときたのだ。

 

 侵入者のイタリア人は、胸の内ポケットから筆記用具入れを取り出すと、そこから鉛筆を抜き出し、その鉛筆で、一枚目のメモ用紙の表面全体を鉛色に塗っていった。

 すると、そこに、文字が白く浮かび上がってきた。


 下の段に書かれていた、謎の東洋の文字らしき物は全く理解できなかったのだが、しかし、上段の〈アルファベート〉は読み取る事ができた。

 

 Mont Saint-Michel

 モン・サン=ミシェル


「ヴァ・ベエエエェェェ~~~~ネ(わかったあああぁぁぁ〜〜〜ぞ)!」

 イタリア人は、そのメモを内ポケットにつっこむと、日本人の部屋を散らかしたまま、扉も閉めずに部屋から飛び出して、モンパルナスの方に向かって駆け出して行ったのであった。


               *


 日本人が多く住む十六区のアパルトマンから、日本人街があるオペラ座界隈の事務所に、自動車で向かっている最中のことであった。

 森田真一のスマート・フォンから、着信メロディーが鳴り響いてきた。

 電話を掛けてきたのは、真一が所有している、ブロカ通りの建物の四階に住む、コンセルバトワールに留学している音大生であった。

 上の階に住んでいる人が、早朝からドタバタやっていて、うるさくて堪らなかった、との事である。

「その部屋って……、たしか、人(ジン)さんに貸している部屋では?」

 部屋は音大生にも賃貸できるように、防音処理を施している。それにもかかわらず騒音が酷いとは、よっぽどのことであろう。

 その音大生は、さらに続けた。

 さすがに、我慢できなくなって、ちょっと文句を言ってやろう、と上の階に行ってみたところ、扉は開きっ放しになっていて、中に向かって誰何の呼び掛けをしてみても、返事はなかった。そこで、意を決して、部屋の中に足を踏み入れたところ、そこには誰もおらず、音大生の目には、荒らされていた部屋の様子が視界に入ってきた、との事であった。


「こ、これは事件かも。そう思って、大家さんに電話を入れたんです」

 音大生は、フランス語がほとんどできなかったので、警察ではなく、大家に連絡してきたらしい。


「おい」

 真一は運転手に声を掛けた。

「行き先、変更だ。事務所ではなく、五区に向かえ」

「わかりやした。ドン」

 

 真一がブロカ通りのアパルトマンを訪れると、部屋の中は、まるで泥棒に荒らされたかのように、床の至る所に物が散乱していた。

「この惨状は……、いったい何があったんだ? じ、人さん、無事なのか?」

 真一は、スマフォを手に取ると、電話アプリを起ち上げ、電話帳リストの一番上に出てきた「有栖川哲人」の名前をタッチし、スマフォを耳に当てた。


 すると――

 真一が電話を掛けると同時に、今いる部屋の中で鈍い音が鳴り出したのだ。

 音の出所はソファー・ベッドであった。シーツをめくってみると、そこに、エスカルゴ専門店で会食した際に、真一が哲人に渡したフランスの携帯電話があった。

「じ、人さん……」

 そう呟くや、真一は、哲人に付けているガーディアンのリーダーに連絡すべく、スマフォの画面をタッチしたのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る