第55話 ガブリエルの塔と干潮時の灰色の光景

 島内にあるガブリエルの塔は、モン・サン=ミシェルを正面にした場合、その左手にあって、旧い城壁上で海に突き出ているような恰好になっている。


 とんがり帽子のような屋根を被った塔を仰ぎ見ながら、雷太が言った。

「三大天使のうち、ミシェルとガブリエルの名が付いた建物は島にあるのに、どうして、ラファエルだけは無いんすかね?」

「それ、『ガブリエル』違いだよ」

「ムッシュ、どおゆう意味っすか?」

「この円形の塔は、見張り用の建物らしいんだけれど、時代によっては、防御のために大砲が置かれたり、灯台として使われてもいたらしいんだよ。

 で、小塔の名のガブリエルってのは、この塔を、十六世紀の初めに設計・建設した、国王の代理官のガブリエル・デュプイに由来しているって話なのさ」

「まじっすかっ!」

「サンダーみたいに、この名を三大天使の一人であるガブリエル由来だと思っている人も多いみたいだけれど」


「先生、このガブリエルの塔が見張り用だったということは、見晴らしが素晴らしいって事ですよね。早速、上がってみましょうよ」

「そうだね、リオン君。アロン(行こう)」


 この時間帯、モン・サン=ミシェル湾は干潮時であり、三人の目前には、灰色の砂地が広がっていた。


「ムッシュ、潮の満ち引きって、なんか不思議ですよね。いったい、どういった仕組みになっているんだろう?」

「うぅぅぅ~~~ん、地球の自転の影響で、干満は一日に二回ずつ起こるとか、干潮と満潮の時刻は、おおよそ一時間ずつ遅れるとか、水位も変化するとか、自分もその程度の事しか知らなくて、ど文系の僕には、詳しい仕組みは分からないよ」

「先生、サンダー、自分、実家が海の近くで、実は釣りが趣味なんですよ。で、その関連もあって、小学生の頃の調べ学習で、〈潮汐 (ちょうせき)〉について、初歩的な事は学んでいるのです」

「それなら、リオンさん、ちょっと説明してくださいよ」


「海面の水位、つまり、潮位ってさ、約半日の周期で、ゆるやかに上下してゆくんだけどさ、この自然現象が〈潮汐〉って呼ばれているんだよね」

「ってことは、一日二回ずつ起こる干潮と満潮って、六時間で繰り返されるって事なんすかね?」

「実際には、その時間的間隔も変化するんだけどね」

「干満ってのは、月と地球の間の〈起潮力〉によって生じるんだよ」

「リオンさん、その『きちょうりょく』って何すか?」

「月と地球の〈引力〉と、月と地球の公転による〈慣性力〉によって生じるのが〈起潮力〉だよ」

「???」

「えっと……、起潮力ってのは、月が、地球を引き伸ばすように働く力で、簡単に言うと、起潮力、つまり、地球上の水を引っ張る力には強弱があって、その起潮力の強さによって、水位が上がったり下がったりするんだよ。

 で、潮の水位がマックスになった状況が〈満潮〉、逆に、潮位が下がり切った状況が〈干潮〉なんだよ」

「とりあえず、月と関係があるってことは分かったっす、リオンさん」


「リオン君、大潮とか小潮とかは、どういった理屈なのかな?」

「先生、起潮力は、月だけじゃなく、太陽と地球の間にも生じるんですけれど、太陽と月と地球が一直線上に並ぶと、太陽と月の起潮力が二重に働いて、干満の差が、より大きくなるのです、それで、この時の大きな潮汐の状況が〈大潮〉って呼ばれているのです」

「その大潮って、いつ起こるんすかね?」

「サンダー、月二回、新月と満月の時だよ。

 で、最大規模の大きな潮が押し寄せるのは、満月と新月の二十八時間から三十六時間後だから、ちょうど、新月や満月の次の夜がピークになるんだよ」

「二人とも、昨日、パリで夜空を見上げたら、空に月が見えなかったので、昨日が新月のはずだよ」


 新月とは、月が太陽の方角にあるため、月が見えない状態のことを言う。

 ちなみに、この月の状態は、日本では「朔(さく)」と呼ばれており、月の満ち欠けの始まりを意味している。 


「昨日の三月二十日って〈皆既日食〉でしたよね?

 昨日の午前中は未だロンドンにいたんすけど、空が急にめっさ暗くなってビビりました。

 ところで、今回の皆既日食って、十八年ぶりの〈世紀の大潮〉と関係あるんすかね?」

「僕も、天文って観点から思考してはいなかったんだけれど、日食って、地球と月と太陽が直列して、月が太陽を完全に隠してしまう分けだから、その『きちょう力』が最大レヴェルになるって理屈じゃないのかな?」

「ムッシュ、例の世紀の大潮になるのって何時くらいなんすか?」

「たしか、ピークは今日の深夜のはずだよ。つまり、新月の次の夜だから、リオン君の説明の通りだね」

「でも、夜じゃ、水に囲まれた島の様子を肉眼で視認できないっすね、ムッシュ」

「なので、絶海の孤島になったモン・サン=ミシェルを見学するのは、明日の昼の予定なんだよ」

「どんなに凄い光景になるのか、楽しみっすね」


「でもさ、サンダー、今、俺たちの前に広がっている潮が完全に引いた砂地もまた、『絶景かな、絶景かな』だよ」

「おっ、リオン君、京都の南禅寺の山門上の石川五右衛門だね」

「その通りです。これって、人生で一度は心から言ってみたい台詞ですよね。今日、夢が一つ叶いました」


「今、こんな風に見えている灰色の砂地が、数時間後には、一面、水面になるなんて、自然の神秘って〈驚異〉すよね」

「二人とも、それって、自然の〈脅威〉でもあるんだぜ」

「「???」」

「あっ、なる。ムッシュ、ダジャレじゃないっすか! でも、そういう意図でしたか」


「そおゆうこと。

 目の前に広がっている砂地だけれど、引き潮の時には、たしか、十八キロだったかな、そこまで潮が引いてしまうそうなんだけれど、それが、いったん潮目が変わって満ち潮になると、猛烈な勢いで満ちてゆくらしいんだ。

 だから、島の出入り口に、潮の干満時刻が示されていて、満潮時には、浜には降りないように注意も書かれているんだよ。

 でも、昔は、もしかしたら、そういった表示がなかったのかもしれないけれど、潮目の急激な変化のせいで、多くの巡礼者が落命して、『モン・サン=ミシェルに行くなら、遺書を置いてゆけ』って言われていたそうなんだよ」

「それは、たしかに、驚異にして脅威ですね、先生」

「ムッシュ、自分、遺書を書いてこなかったっす、ヤバイっす」


 そんな軽口を叩き合ったものの、三人の日本人は急にまじめな表情をさせて、ガブリエルの塔の上で黙祷したのであった。

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