第22話 サンダーのトラブル・コンボ

「サンダー、お前、今、スマフォ、持っているか?」

「ウィ、ムッシュ」

「じゃ、駅を出たら、どこでもいいから、青地に白抜き文字で通り名が書かれているプレートと番号の写真、それから、周辺の写真を撮って、それを俺に送ってこい。SNSのDMで構わないから。で、送り終わったら、絶対にそこから動くな。いいな、絶対に、だぞ」

 そう雷太に念押しをした哲人は、教え子が送ってきた写真を確認すると,外出する時には常に携帯しているパリの地図を持って、着の身着のままの状態で、弟子を迎えに出掛けたのであった。


 十九世紀後半のオスマンによるパリ改造のおかげで、パリという都市は、街路名とその番地さえ分かれば、目的の場所に迷う事なく到着できる。パリは、そのようなシステマティックな都市構造を為しているのだ。だからこそ、雷太に、彼が今いる場所の街路名と番地の情報を送信させたのだが、不安で一杯の教え子にウロチョロされると、簡単には見付けられなくなってしまう。

 

 哲人のアパルトマンが在るブロカ通りから、雷太が居るリュクサンブール駅周辺までは、徒歩だと十五分程度で、〈二十七番〉のバスに乗れば八分で行ける距離だ。朝のこの時間帯、二十七番のバスは八分間隔で運行されており、これにバス停での最大待ち時間を考慮に入れると、徒歩で向かった方が早いように哲人には思えた。

 そこで、明るみ始めた朝のパリを駆けて行くことにしたのである。


 アパルトを出てから十分程度で目的地に到着した哲人は、待ち合わせの場所で、スマフォを両手でガシッと強く握りしめながら、キョロキョロと周囲に視線を巡らせ続けている教え子を発見した。

 言い付けは守っ……。ゲフっ!

 近寄る哲人に気付いた雷太が全力ダッシュで向かってきた。

「ム、ム、ムッシュゥゥゥ〜〜〜」

 いきなり、雷太が哲人に、タックルが如き抱擁をしてきたのであった。


 かくして、教え子の雷太と無事に合流を果たした哲人は、教え子を連れて、ブロカ通りのアパルトマンまでバスで戻った。

 建物の重い扉を潜った雷太は、まず、壁に張り付くようにして乗らねばならばいエレベーターの奇怪な形状に驚き、哲人の部屋に入るや、堰を切ったように、堪えていた笑いを漏らしていた。

 ひとしきり笑った事によって、雷太の不安と緊張も少しは解けたようである。

 それから、哲人が入れたインスタント・コーヒーをすすりながら、雷太は、今朝の出来事と今の状況について語り始めた。


 スラれた財布には、全財産とクレジットカードが入っていたため、雷太は一文無しになってしまったのだそうだ。

「だから、〈ベー線〉は、パリ慣れしていない観光客には危ないって、あれほど講義の中で言ったのに……」

 RERのB(ベー)線は、たしかに、ロワッシー・ビュスよりも安価なのだが、人の乗り降りが頻繁な列車は、観光客狙いのスリが多発している、と日本大使館からも注意喚起が出ていた。

 哲人は、大学の講義の中で、海外旅行の際には、お金やカードは分散しておくように、とか、その上で、財布にはその日使う分だけを入れておくように、とか、人目がある所では現金や財布の出し入れはしないように、とか、格好が悪くてもバッグは前抱えや斜め掛けにしておくように等々、幾つもの諸注意を与えていた。

 だがしかし、初めて海外を独り旅する雷太は、不安や慎重さよりも興奮が勝ったような状態になっていたのであろう。

 結果、一年生の時に、哲人が為した数々の指摘など、頭から完全に抜け落ち、注意力が散漫になっていたのかもしれない。


「いや、自分も、海外ではスリには気を付けるってのは知ってはいたんすよ。でも、まさか、自分がスリの被害にあうなんて思わないじゃないですかっ!」

 雷太は、自分だけは大丈夫だとタカを括っていたようだ。

「でも、オマエ、実際にスラれてるじゃん」

 哲人に指摘され、雷太は再び落ち込んでしまった。


「わるい、わるい。ところで、お前、ホテルは何処なの?」

「初日だけは、リュクサンブール公園の近くの宿を予約していたんすけれど、その後は、適当な所を見つけて、泊まり歩こうかと……。でも、もうお金もカードもないし……」

 打ちひしがれている雷太は半泣きになってしまっていた。


「よしっ! まずは、やるべき事を、とっとと済ませてしまおう」

 哲人は、まず、日本のクレジットカード会社に連絡をし、カードの利用停止といった処置を、雷太自身にやらせた。

 何をすべきかのアドヴァイスはする。だが、対処それ自体は、雷太自身にやらせる。それが教育というものだ。


 カードを止めさせた後で、哲人は、身軽過ぎる雷太の様子が今更ながら気になった。

「ところで、サンダー、荷物は、そのディバッグだけなのか?」

「じ、実は、スーツケースもあったんすけど……」

「じゃ、それは?」

「飛行機の乗り継ぎをした際に、ロスト・バゲージしちゃいました……」

「な、何ですとおおおぉぉぉ~~~!!!」


 雷太によると、乗り継ぎの空港でロストしてしまったスーツケースは、後日、宿泊先のホテルに届けられる手筈になっているという。

 哲人は、航空会社に連絡を入れて、スーツケースの送り届け先を、自分が滞在しているパリのアパルトマンに変更してもらった。これは、ミスがあるといけないので、フランス語で哲人が処理をした。

 教育方針もケース・バイ・ケースというものである。


「で、サンダー。確認だけど、帰りの飛行機のチケットは?」

「そのスーツケースの中っす」

「ノオオオォォォ~~~ン。大事なものは手荷物、そして肌身離さない。これ、重要」


 哲人からの注意を受けて、雷太の涙の量はさらに増してしまったのだが、哲人は、そんな教え子の広い背中を、一度だけ強く叩いた。

「サンダー、もう泣くな、心配すんな。僕を頼れ。

 たしかに、今回の件は、勉強代としては高くつき過ぎたかもしれないけれど、パリに滞在している間はここに泊めてやる。金も必要なだけ僕が貸してやる。ただし、日本に帰ったら、分割でも構わないから、貸した金は、ちゃんと返せよ」

「ムッ、ムッシュゥゥゥ~~~。ムッシューは神っす。自分、一生ついてゆくっす」

 鼻水と涙で、顔をぐちゃぐちゃにさせながら、雷太は哲人に抱き付いてきた。

「サンダー、もう分かったから、離れろ。

 せっかくのパリだぜ。ロスト・バゲージにピック・ポケット、初海外のしょっぱなから、いきなりトラブル・トラベルの連鎖になっちゃったけれど、もうこれ以上ひどい事は、たぶん起こらんよ。嫌な思いは、いったん棚の上において、今この瞬間から、海外を楽しんでゆこうぜ」


 時計に視線をやると、正午をとっくに過ぎ、針は一時を指し示していた。

「色々処理をしていたら、それだけで午前が終わっちまったな。まあ、やるべき事は一応おえたわけだし、今から、ちょっと出掛けようぜ」

 そう言って、哲人は、雷太をパリ散策に誘ったのであった。

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