第36話 ロゼッタ・ストーンとクレオパトラの針

「サンダー、メソポタミア以外だと、何が興味を引いた?」

 哲人は教え子の雷太に、さらなる旅話を促した。

「そうっすね……、自分は、エジプト〈おし〉なので、ミイラと、あとは、やっぱ、ロゼッタ・ストーンっすね」


 大英博物館の正面入り口すぐの所には、〈グレート・コート〉と呼ばれる大広間があり、ロゼッタ・ストーンは、グレート・コートすぐ近くの展示室で、ガラスケースに入れられ、展示されている。


「博物館に入ってすぐの所に人だかりができていたんで、〈ロゼッタ〉が何処かは、すぐに分かったんすけど、逆に、そんな非常に分かり易い場所に在るんで、ずっと見物客で溢れかえっていて、落ち着いて観れなかったんすよね。で、自分、じっくりと観たかったんで、しばらく待ったんすけど、結局、人波が途切れることがなくって、途中であきらめて、翌日に開館凸したんすよ」


 ロゼッタ・ストーンとは、一七九九年、ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征の際に、フランス軍兵士のピエール=フランソワ・ブシャール大尉によって、エジプトの港湾都市である〈ロゼッタ〉で発見された、暗い色の花崗閃緑岩で出来た石の柱である。

 この石碑は、紀元前二世紀のプトレマイオス朝の碑文で、これには、古代エジプト語の神聖文字(ヒエログリフ)と民衆文字(デモティック)、そしてギリシア文字という三種の文字が刻まれている。

 そして、発見年である一七九九年には早くも、一つの石柱に刻まれていた三種の文字が、多少の違いはあるものの、ほとんど同じ内容である事が判明した。

 一八〇二年には、民衆文字が、異国人の名前を発音通りに書き取るために用いられている事が分かった。

 一八〇三年には、ギリシア語によって刻まれた部分の翻訳が完了し、以降、併記されていた、同一内容の古代エジプト文字の解読が推し進められる事になったのである。

 そしてついに、発見から約二十年後の一八二二年、フランス人のジャン=フランソワ・シャンポリオンが、パリにて、ロゼッタ・ストーンのヒエログリフとデモティックの解読完了を宣言したのである。

 この約四半世紀もの間に、ヒエログリフとデモティックが全く異なる言語ではないことが判明したり、表音文字である古代エジプト語は、異国人の名前だけではなく、当時のエジプト人たちの言葉を綴るのにも使われていた事も明らかになった。

 しかしそれでもなお、古代エジプト文字で書かれた他の文章を易々と読み解けるようになるまでには、さらなる時間が必要だったそうだ。

 とは言えども、後世の人間が、エジプトの古代文字で書かれた文を翻訳するための最初の鍵となったのはロゼッタ・ストーンで、それを解析したフランス人のシャンポリオンの功績が大きいことに変わりはない。

 このように、フランス人が発見し、フランス人が解読に深くかかわったロゼッタ・ストーンのオリジナルが、今現在、イギリスの大英博物館に収蔵されている理由は、十九世紀初頭にまで遡る。

 ロゼッタ・ストーンの発見から二年後の一八〇一年、エジプトに上陸したイギリス軍はフランス軍を降伏させ、そして、この際に締結された〈アレクサンドリア協定〉によって、本物のロゼッタ・ストーンはイギリスの所有物とされ、ロンドンに持ち込まれた。以降、大英博物館で一般公開されるようになり、現在に至っているのである。


「って話なんだけれど、ロゼッタを発見したのがフランス兵士で、解読したのがフランス人の学者なのだから、ロゼッタを所蔵・展示するのは、大英博物館ではなく、ルーヴルだろうって、つい思っちゃうんだよな」

「でも、ムッシュー、それを言ったら、エジプトに返せって話ですよ。実際、エジプトは、ロゼッタ・ストーンの所有権を主張して、返還を求めているらしいんす。誰がどう考えても、ロゼッタの正当な所有権がエジプトにあるのは明らかなんすけど、イギリスは、頑としてその要求に応じてはいないんですよ。

 まあ、正当な所有国が、フランスでも、イギリスでも、エジプトでも、自分みたいな一般人の歴史好きにも、肉眼で〈生〉ロゼッタを観るチャンスを与えてくれるのならば、何処の物でも、ぶっちゃけ、自分的には構わないんすけどね」


「ところで、サンダー、エジプト関連で、他に興味深かったものってあるかい?」

「そうっすね……。大英博物館の展示物じゃなかったんすけど、自分としては、シティ・オブ・ウェストミンスターの、ハンガーフォード橋の近くに立っていたオベリスクに感動したっす。〈あの時〉に、パリのコンコルド広場で、オベリスクを見た事を思い出したんで、感動マシマシだったっす」

 雷太が述べた「あの時」とは、コンコルド広場のオベリスクの前から、エトワール凱旋門の屋上にまで、シャン=ゼリゼ大通りを〈瞬間移動〉してしまった時のことである。

「実は、ムッシューからもらったコピーを持っていたんで、ロンドンのオベリスクの前でも、例の古代エジプト文字を唱えてみたんすけど、結局、何も起こらなかったっす。本当に、あれって何だったんすかね?」

「あの時の事は、今でも、〈白昼夢〉だったのか? って思う時があるよ。

 ところで、お前が見たロンドンのオベリスクって、たしか、〈クレオパトラの針〉って名だったよな」

「そう、それっす」

「サンダー、知っているかい? ロンドンのオベリスクって、〈クレオパトラ〉の名が冠されているんだけれど、実は、プトレマイオス朝エジプトの最後の王妃だった、あのクレオパトラ七世とは関係ないんだぜ」

「えっ⁉ アレクサンドリアのオベリスクなのに、無関係なんすかっ!」


 〈クレオパトラの針〉の名で知られているロンドンのオベリスクは、高さ二十一メートル、重さ約二二四トンの赤い花崗岩で出来ている。このオベリスクは、実は対の建造物で、今現在、ニューヨークとロンドンに、一本ずつ聳え立っている。

 これらのオベリスクは、元々は、プトレマイオス朝最後の王妃クレオパトラ七世が生まれるよりも千年以上も前、紀元前一四五〇年頃、エジプト第十八王朝の時代に、トトメス三世の命令でヘリオポリスに建てられたものであった。

 このヘリオポリスのオベリスクが、後年、クレオパトラ七世がカエサルを祀るためにアレクサンドリアに建設させた神殿に移されたのは、クレオパトラの死後、エジプトがローマの支配下に置かれていた、ローマ帝国初代皇帝のアウグストゥスの治世だったという。すなわち、このアレクサンドリアのオベリスクそれ自体は、かのクレオパトラ七世自身とは全く無関係だったにもかかわらず、〈クレオパトラの針〉という名が与えられているのだ。


「ムッシュー、アレクサンドリアから、ロンドンとニューヨークに移された、対の〈クレオパトラの針〉、それらが、実は、クレオパトラが存命中にカエサルを偲んで、ヘリオポリスから運ばせたって話で、例えば、ロンドンの物がクレオパトラで、ニューヨークに在るのがカエサルだったとしたら、すごくロマンチックな伝説になると思うんすよ。

 なのに、クレオパトラが建てさせた神殿に移されたからって理由だけで、〈クレオパトラの針〉って名前だなんて、ちょっと、がっかりっす」

「いやいや、もしかしたら、アウグストゥスは、養父のカエサルとクレオパトラのことを思って、この対のオベリスクを、ヘリオポリスからアレクサンドリアに移させたのかもよ。

 たしかに、何の根拠も証拠もないけれど、〈クレオパトラの針〉がクレオパトラとは歴史的に無関係って断じちゃうよりも、物語的には面白いかもな」


 かくの如く、古代エジプトの歴史に思いを馳せている師弟コンビの列車の旅は、まだまだ続いてゆくのであった。

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