第19話 失われしエジプトの古代文字

 古代エジプトの第一王朝時代には既に、〈原エジプト文字〉という文字が存在していたそうだ。その原エジプト文字は、第二王朝時代には早くも、〈ヒエログリフ〉に、第三・第四王朝時代には、〈ヒエラティック〉へと枝分かれしたという。


 ヒエログリフは、宗教や王家に関わる文書に用いられていた文字で、神殿や王家の建造物の壁や、あるいは、棺に彫り刻まれた神や王の歴史記録で、すなわち、神、あるいは、王に捧げる、威厳のある文字だったのである。


 一方、ヒエラティックは、それ以外の、たとえば、役人が用いる実用的な行政文書や、あるいは、文学作品など、様々な種類の文書の作成のために、幅広く使われていた文字で、パピルスに手書きされていたそうである。


 やがて、ヒエログリフの一部は、後に、古代ギリシア文字の原形になり、さらに、ギリシア文字はローマ字に発展していったのだそうだ。


「ということは、欧州言語の祖は、〈古代エジプトのヒエログリフ〉ってことになるのかな? でも、ローマ字って表音文字だったよね?」

 哲人は、さらに資料を読み進めていった。

 

 ヒエログリフとは、動物や人間などの〈物〉の形を象った象形文字である。それゆえに、一文字一文字が意味のある〈表意文字〉であるように思われているのだが、その実、〈表音文字〉として使われている場合の方が多いらしい。


 そもそもの話、古代エジプトの文字は、三千年以上続いたエジプトの歴史の中で徐々に変化していったものである。


 古代エジプトでは、文字を扱うことができたのは一部の限られた人々だけであった。だからこそ、文字を使うことが出来る一部の者たち、すなわち、神官や書記は、自分たちの特権を強化するために、単語の綴り方を複雑化してゆき、容易に他の者には理解できないようにする傾向があったのだそうだ。つまり、こうした事情こそが、ヒエログリフの解読を難解にしているのであろう。

 古代エジプト語の話者が今では存在していないため、語の正確な発音が分からないのは仕方がない事態だとしても、書かれた文字の解読を困難にしているのは、ヒエログリフには、〈子音〉を表わす文字しかなく、〈母音〉を示す文字が存在せず、その結果、単語の発音が分からなくなっている点にあるのだそうだ。

 かくして、失われし言語、〈ヒエログリフ〉は、現代人の我々の目からみて、謎多き古代文字になっているのである。


 それから、哲人は、ヒエログリフの特徴から、エジプトの歴史の項目に目を移した。


 紀元前三十年――

 アクティウムの海戦によって、エジプト軍はローマ軍に敗北し、アレクサンドリアはローマに占領され、クレオパトラ七世は自殺、かくして、プトレマイオス朝エジプトは滅亡した。

 以降、エジプトはローマの属州となり、エジプトの神と王のための文字であるヒエログリフは終焉に向かってゆくことになる。

 その後もヒエログリフは、神官たちの間で継承され続けていたのだが、やがて、キリスト教台頭のせいで廃れてゆき、紀元三九四年以降のヒエログリフによる記録は現存していない。


 紀元四世紀以降のエジプトは、東ローマ帝国の統治下にあり、この帝国はギリシア語を公用語としていた。

 この時期のエジプトで使われていたのが、〈コプト文字〉である。そのコプト文字は、統治者の言語であるギリシア語の影響を強く受けていた。

 そもそも、ギリシア文字は、古代エジプトのヒエログリフの一部を元にしている。つまり、コプト文字は、ギリシア文字から逆輸入する形で、ヒエログリフの性質を引き継いだ次第なのである。

 それゆえに、ヒエログリフは歴史から完全に消滅してしまったわけではなく、形を変えてはいても、ヒエログリフを源流とするコプト文字の中で存続していたのだ。

 たしかに、ヒエログリフは、もはや話者が現存していないため、その音が不明である。また、文字としては、子音だけで母音が記述されないために、正確な読み方が分からず、その結果、意味も不明になってしまっていた。

 しかし、コプト文字は、ヒエログリフと違って母音の発音が分かるのだ。

 そこで、古代エジプトの研究者たちは、ヒエログリフを継承したコプト文字を手掛かりにして、この失われた古代文字であるヒエログリフの研究を推し進めてきたのである。

 ヒエログリフが刻まれたロゼッタ・ストーンの解読によって著名な、十九世紀前半の〈古代エジプト学の父〉、フランスのシャンポリオンも、ヒエログリフ由来のコプト文字を習得しており、そのため、表音文字としてのヒエログリフの解読に成功できたのだそうだ。


「ヒエログリフ、こりゃあ、ちょっと調べた程度で、理解できるような簡単な言語じゃないな。どうしたものか……。そうだな。餅は餅屋だし、ちょっと頼っちゃおうかな」

 図書館からアパルトマンに戻った哲人は、大学以来の友人、大隈治(おおくま・おさむ)、愛称、〈くまっち〉に、一本メールを打つ事にした。

 大隈は大学の准教授で、まさに、古代エジプトを専門にしているのだ。


「くまっち、久しぶり、哲人です。

 実は、今、パリに来ているんだけど、ヒエログリフと思しき文字で書き記された古本を手に入れたんだ。だけど、全く読めなくて、お手上げ状態。

 で、時間が空いてればで構わないんだけど、解読してもらえたら嬉しい。

 返事待ってます」


「ユーヴ・ガッタ・メール」

 メールを出して五分後には、大隈から返事が届いた。


「フィロ君。久しぶり、ヒエログリフの件、オッケー牧場。

 むしろ、ワイを頼ってチョンマゲ。

 資料をPDFで送ってちょ。

 ちょっと時間が掛かるかもだけど、

 解読できたら、リプるよ」


 大隈は、哲人を「フィロ君」と呼んでいる。

 哲学は、英語で〈フィロソフィー〉、仏語では〈フィロゾフィー〉なのだが、英語にせよ仏語にせよ、この語は、ギリシア語の〈フィロソフィア〉に由来し、〈ソフィア(知恵)〉を〈フィレイン(愛する)〉ことを意味している。〈フィリア(愛)〉もその派生語で、哲人の愛称である〈フィロ〉は、ここから来ているのだ。


「何歳になっても、『くまっち』に、『フィロ君』って、大学一年の頃からの呼び方は今でも同じだよな」

 メールを読みながら、哲人は笑いを堪えることができなかった。

 たとえ何年経っても、立場が変わろうとも、大学時代の友人間の関係というものは不変であるようだ。それが呼び名として表われているのであろう。


 哲人は、部屋に設置されていた複合機で、ノートに筆写した古代文字をスキャニングすると、そのPDFファイルを添付して、学部時代の同期である大隈治に、電子メールを送ったのであった。

 そのメールには、念のため、フランスの携帯番号も書き添えておいたのであった。

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