第8話 消えたムーサ

 アレクサンドリア港を封鎖していたエジプト軍の中でも、都市側に配置されていた幾艘もの船、そこから、都市沿岸地帯に火は燃え移ってしまった。

 都市の沿岸部には、家々が軒を連ねていたのだが、エジプト船団から飛び散った火は、浜辺に所狭しと並んでいた住居を瞬く間に燃え尽くした。

 やがて、炎は突風に煽られて、家屋から造船所にまで燃え広がっていった。

 折しも、造船所一角の船渠では水が抜かれ、船の検査や修理の真っ最中だったのだが、そこで整備中であったクレオパトラの小舟もまた、炎に包まれてしまっていた。

 さらに、猛炎は、造船所に隣接していた穀物の保存倉庫にも延焼し、その周囲には、小麦の焦げ付いた匂いが立っていた。

 別の倉庫には、世界中から輸入され、王宮内のアレクサンドリア大図書館に運び込まれることになっていたり、あるいは、商品として外国に輸出予定であった、約四万巻もの膨大な数の書物が保管されていたのだが、その本もみな、灰燼に帰してしまった。

 かくして、カエサル軍の十隻の船を火種とした火災のせいで、アレクサンドリアの港湾地区は燃え尽くされてしまったのである。


 分厚い城壁に囲まれていた王宮内のアレクサンドリア大図書館とムーセイオンは、港を見渡すことができる高台に位置しており、さらに、城外での消化活動によって、王宮内への延焼は免れていた。


 免れていたはずであった。

 にもかかわらず、だ。


 まず最初に、ムーセイオンから火が上がって、それが、図書館さえも炎上させた。

 研究員や図書館員は、図書館館長の指示の下、手分けして、研究所と大図書館の消火活動と、有事の際に、優先的に持ち出す手筈になっていた最重要資料の運び出しに取り掛かり始めた。

 だが、皆、混乱状態に陥ってしまい、冷静さを欠いていた。

 そのため、火は、港湾地帯から飛び火したと思い込んでしまい、城壁で守られているはずの王宮内の研究所から火が上がった事態に違和感を覚えぬまま、一心不乱に作業に従事していた。

 だが、司書たちの懸命な作業にもかかわらず、書物の完全なる救出は叶わなかった。 

 王宮内の水道の水が断たれてしまったからである。

 そしてさらに、勢いを増した炎のせいで、自分たち自身の身を守ることさえ危うくなり、研究員や館員たちは茫然自失し、焔が焦がしている天空を仰ぎ見るしかなくなってしまっていた。


 だからなのかもしれない。


 誰も全く気が付かなかったのだ。

 普段、研究所と図書館の雑務に従事している奴隷九名がその場にいない、という事実に。否、奴隷の安否に関して、誰一人として最初から関心など払っていなかったのであろう。


 九人の奴隷たちは、勢いを強めてゆく炎に包まれていた図書館に取り残されていた。

 いや、彼らは、自らの意志によって、最初からここに残っていたのだ。

 炎と煙で充満した図書館から、他の館員たち全員が避難した後も、九名の奴隷は、そのまま館内に居残って、約三百年もの長きに渡って、代々、祖先から引き継いできた〈お役目〉を、まさに今この時に果たさんとしていたのである。

 図書館で雑事を務めていた九人の奴隷たちは、研究にも、翻訳や筆写にも、そして蔵書整理にさえ携わってはおらず、昼間の通常の仕事では、館内に置かれた書に触れることさえなかった。

 だがしかし、奴隷と思われていた者たちは、先祖代々、アレクサンドリア図書館で特殊な任務に就いていた家系に連なる者たちで、彼らは〈裏のムーサイ〉と呼ばれ、その人数もまた九名であった。


 九名の裏のムーサイは、アレクサンドリア図書館の各所に隠されていた九つの巻子本を、それぞれ持ち出した。

 九巻の本は、粘土板が入れられていた籠の奥底に置かれていたり、積み上げられた巻物の山の一角を成していたり、翻訳や筆写の際に用いる机の足の中に収められていたり、そこは、九つの家系が、それぞれ口伝されてきた秘匿場所であった。

 九人の男たちは、誰が裏のムーサイであるかを互いに知らされてはおらず、その事を知っているのは歴代のアレクサンドリア図書館館長のみであった。

 研究所と図書館から火が上がった時、館長は、裏のムーサイにしか分からない合図を送って、彼らの行動を促したのであった。

 そして、自分たち裏のムーサイ以外は誰も存在しなくなった図書館の中央に集まり、初めて、誰が裏のムーサイであるかを知った九名の男たちは、雪花石膏(アラバスター)の小箱に入った巻子本を懐にしまい込んだ。

 そのうち、八名のムーサイは、建物に火が完全に回りきらないうちに、アレクサンドリア図書館の外に飛び出して行き、茫然自失していた館員たちに気付かれる前に、城外の四方八方に散っていったのである。


 図書館内に、ただ独り残った〈裏のムーサ〉は、高い天井にまで届かんばかりの炎を見上げた後、黒い頭巾を目深に被り直し、さらに、煙を吸い込まないように、口と鼻を布で覆った。それから、男は、館内の粘土板を次々に砕いたり、さらに、巻子本を一ヶ所に集めて、それらに火を点けたりし、かくの如く、アレクサンドリア図書館の知の残滓を淡々と破壊していった。その行為は、秘匿されていた稀覯本を持ち出した痕跡を消さんとしているかのようであった。

 その裏のムーサは、巻物が入った雪花石膏の小箱を懐から取り出すと、その蓋を開けんとしたのである。


 その時――

 裏のムーサは、背後から接近する気配を感じ取った。

 ムーサは前方に軽く跳躍して、敵の初撃を躱すと、着地と同時に反転し、攻撃者と向かい合った。

 その襲撃者もまた、全身を漆黒の装束で纏い、黒い頭巾で顔すらも隠し、あたかも影のようであった。


「まさか、火で燻りだされたのが、ムーサイや司書ではなく、俺付きの奴隷である、お前だったとはな。全くもって予想外だったよ」

 そう言うと、〈影〉は、口鼻を覆っていた布を顎先まで下げた。

「あなたはっ!」

 炎が男の顔を照らし出した。


 〈影〉の正体は、カエサルが推薦した、あのローマの特別研究員だったのである。

「『いぶりだされた』とは……。察しました。

 大図書館を燃やす事によって、我々、裏のムーサイを見付けだし、〈本〉の在り処を知らんとしたのですね」

 無言のまま小さく首肯した〈影〉が中指を鳴らすと、さらに数体の〈影〉がその場に出現した。

 白い小箱を持ったまま、ムーサは数歩後退りぞくと、ムーサの背中は、背後の壁にぶつかった。

「もはや何処にも逃げ場はないぞ。大人しく、その白い箱を渡せ。さすれば、これまで同様に、奴隷として俺に仕えさせてやっても構わんのだぞ」


 壁を背負ったムーサは、雪花石膏の小箱から巻物を取り出すと、空になった箱を懐にしまい込んだ。

 そして、紐の端を奥歯で挟むと、巻子本を綴じていた紐を噛み切った。

 次に、巻物を少しだけ開くと、素早く、右手側に〈巻き始め〉を作った。

 その一方で、左手側を少し開き、そのまま左手を止めると、開いた分だけ右手で紙を巻き取ったのである。

 余程の訓練を積んでいるのか、これらの一連の動作は一瞬であった。


 巻物を肩幅くらいまで開いたムーサは、ローマの〈影〉たちには理解できない言語で何やら呟き始めたのだ。

「何をぶつぶつ言っておる。エジプトの言葉で祈りでも唱えておるのかっ!?」

 さらに、ムーサは、別の個所を読むために、左手で開いて右手で巻き取るという同一の動作を繰り返すと、再び何やら唱え始めたのである。


「飽きてきたな。そろそろ、いい加減にしてもらおうか」

 〈影〉たちは、壁際のムーサに向かって、一歩、足を踏み出した。相変わらず、ムーサが何を言っているのかは判然とはしないのだが、「ラシッド」という単語だけが聞き取れた。


 口を閉じた瞬間、身体を素早く反転させたムーサは壁を蹴りつけたのだ。

 そこには、人一人が通れる程の扉形の穴が開き、その中にムーサは飛び込んでいったのである。

 虚を突かれたものの、数瞬後には、〈影〉たちもまた、壁抜けしたムーサを追って行った。


 穴の先は、窓も扉もないただの空間で――


 そこには、ムーサの姿すらなかった。

 

 炎上するアレクサンドリア図書館から、巻子本を携えたムーサは消え去ってしまっていたのである。

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