第4話 プトレマイオス朝秘話

「師父アリストテレスの〈真〉の弟子の一人で、大王さまの側近であったのが、プトレマイオス朝エジプトの始祖、〈プトレマイオス一世・ソテル〉公だったのでございます」

 カエサルにしなだれかかり、その胸の上で人差し指を使って円を描きながら、クレオパトラは話を再開した。


               *


 紀元前三三三年・秋――

 アレクサンドロスは、イッソスの戦いで、ダレイオス三世が自ら率いていた、十万のペルシア軍を撃破した。

 この戦勝の際、アレクサンドロスは、ダレイオス三世が所持していた豪華な小箱を戦利品の一つとして獲得した。これは、〈ナルテコスの小筐〉と呼ばれる貴重品を保存する為の白い箱であり、これを、アレクサンドロスは、師アリストテレスに送るべき書物の保管に用いたのだった。

 さらに、マケドニア軍は進軍を続け、その後、シリアを南下すると、フェニキアのティールとガザを征服し、それから、西南西に進路を取ると、エジプトへの侵攻を開始した。

 当時のエジプトはペルシア帝国の支配下にあったのだが、ペルシアがエジプトを支配し始めたのは、わずか十年ほど前に過ぎなかった。それゆえに、エジプトでは、ペルシアの統治が完全には浸透してはおらず、マケドニアがエジプトに攻め込んだ時、エジプト国内の都市は無血開城して、アレクサンドロスを〈解放者〉として歓迎したのだった。


 前三三二年――

 アレクサンドロスは、〈メリアムン・セテプエンラー〉というファラオ名を与えられた。

 それから、アレクサンドロスは、エジプトのファラオとして正式に認められるために、エジプト北西部に位置する、シーワのアモン神殿を訪れた。この神託所で、首都を、メンフィスから、ナイル河のデルタ地帯に移すべしという神託を授かったのである。

 実際問題、エジプトの穀倉地帯に近く、ナイル河河口にも近い、ファロス島の対岸、マレオティス湖の間の土地こそが、商業都市を建設するのに適切な場所だったのである。

 そこで、都市の設計は、マケドニア出身の建築家ディノクラテスに委ねられ、都市の統治は、ギリシア人である、ナウクラティスのクレオメネスに命じられた。後に、この都市は、大王の名を冠して、〈アレクサンドリア〉と命名されることになる。


 ファラオとなったアレクサンドロスは、しばしのエジプト滞在の間、休息をし、補給を整えると、前三三一年四月に、ペルシア帝国を完全に打倒すべく、エジプトを出立したのだった。

 エジプトのファラオにはなったものの、この後、大王はその存命中にエジプトの地を踏むことは二度となかったのである。


 ファラオ、アレクサンドロスの不在の間、エジプトの統治は、アレクサンドロスの家臣で、ナイル河デルタ地帯の都市建設の責任者にして、徴税官吏でもあった、クレオメネスに委ねられたのだが、強欲なクレオメネスは、エジプトに次々と悪政を敷いていったのである。

 興味・関心が東方に向いていたアレクサンドロスの目が届かなかったということもあって、クレオメネスによるエジプトの支配は、現地のエジプト人にとって過酷なものであった。

 例えば、エジプトが穀物不足に陥った時、クレオメネスはエジプトへの穀物の輸入を調整し、重税を課した。

 また、穀物を安価で買い占め、それを、三倍の価格で売ったりもした。

 このように、エジプトの穀物市場を支配したクレオメネスは、その穀物価格を操作し、利鞘を稼ぎ、大金を貯めこんでいたのである。


 前三二三年――

 アレクサンドロスはペルシア帝国を滅亡させたのだが、大王は、遠征の途上で、志半ばのうちに、三十二歳という若さで、バビロンで病没してしまった。

 生前、アレクサンドロス大王は、自分の死の後、麾下の将軍たちの間で後継者争いが起こるであろう、と語っていたという。そして、その予言は現実のものとなってしまった。


 大王の死後の、アレクサンドロスの帝国の領地の分割と管理地を決める〈バビロン会議〉によって、エジプトの太守(サトラップ)に任じられたのがプトレマイオスであった。


 アレクサンドロスの存命中、ファラオ不在のエジプトの管理を委ねられていたのは、ギリシア人のナウクラティスのクレオメネスで、それゆえに、エジプトを熟知している者として、このギリシア人が、新たなエジプト太守のプトレマイオスの補佐に就くことになった。

 だが、クレオメネスは、十年近くもの間、エジプトに悪政を敷き、エジプト住民から莫大な金銭を着服していたため、クレオメネスに対するエジプト人の感情は最悪であった。

 当時、新たなエジプト太守になったプトレマイオスは、アレクサンドロスの後継者の座を巡って、摂政ペルディッカスと対立していたのだが、プトレマイオスの補佐となったクレオメネスは、ペルディッカスの派閥に属し、この摂政にプトレマイオスの情報を流していたのである。

 こういった事情から、プトレマイオスは、クレオメネスを〈キら〉ねばならなかった。

 プトレマイオスは、自身の政敵に情報を流出させたという罪状で、クレオメネスを逮捕すると、彼を即時処刑し、その首級をアレクサンドリアの住民の前に晒したのである。


 エジプト人に不人気であったクレオメネスを排除したことによって、逆に、新たなエジプト太守プトレマイオスの人気は、エジプト住民の間で爆上がりした。

 さらに、八千タラント(約五千億円)ものクレオメネスの莫大な財産全てを、プトレマイオスは没収した。ちなみに、当時のエジプトの労働者の一日の平均賃金が一デナリ、六千デナリが一タラントであった。そして、クレオメネスから没収した私財を、プトレマイオスは、やがて起こるであろう大王の後継者争いのための軍備整備費用に当てた。そして、アレクサンドロスの命によって、クレオメネスがエジプト各地から蒐集していた書物も全て押収したのである。



               *


「こうして、大王の部下たちの間で〈ディアドコイ戦争(後継者争い))が勃発したのですが、始祖プトレマイオスさまこそが、〈正統〉な大王さまの後継者だったのです。そして、これからお話することは、プトレマイオス王家に伝わる秘密なのですよ」

 クレオパトラは、カエサルの耳元に息を吹き掛け、そう囁きかけたのであった。


               *


 プトレマイオス一世の母、アルシノエは、元々は、アレクサンドロス大王の父、ピリポス二世の愛妾だったのだが、後に、アルシノエは、マケドニアの貴族ラゴスに下賜された。その後、ラゴスとアルシノエの間に誕生したのがプトレマイオスなのである。

 だが実は、ラゴスに下げ渡される前に、アルシノエは既に身籠っていた。

 妊娠に気付いたアルシノエは、嫉妬深いピリポス二世の正妻、オリュンピアに誅殺されることを恐れて、ピリポス二世を言い包めて、ラゴスに自分を下賜させた、と言う。


               *

 

「この噂は事実なのです。きっとアルシノエは、こんな風に強請ったのでしょうね」

 クレオパトラは、そう言いながら、カエサルの耳を食んだ。


               *


 それゆえに――

 プトレマイオスは、マケドニア王家の血筋で、大王アレクサンドロスの異母兄であり、大王の〈正統〉な後継者となる権利を有していたのである。

 そしてさらに、プトレマイオスは、後継者としての自身の立場を強化するために、大王の遺体を手に入れんと欲したのであった。マケドニアの風習では、〈先王を埋葬する事〉こそが後継者となるための必要条件だったからである。

 バビロンには、マケドニア本国に輸送すべく、アレクサンドロス大王の遺体が安置されていた。だが奇異なことに、黄金で縁取られた真っ白い、アラバスターの柩に収められていた大王の身体は腐敗しなかったのだ。


 大王の死の翌年の紀元前三二二年のある日のことであった。

 大王の身体を収めた雪花石膏の棺が、バビロンから忽然と消え去った。

 そして、その数日後には、アレクサンドロス大王の遺体はエジプトに在った。

 バビロンからメンフィスまで、数日で棺を移送することなど、物理的には不可能であったにもかかわらず、だ。

 遺体の検証の結果、紛れもなく本物の大王であることが証明され、エジプトのメンフィスで、大王の葬儀が盛大に催され、エジプトに大王の身体があることが、世界に知らしめられた。

 その後、ナイル河を利用して、アレクサンドロス大王の遺体は、アレクサンドリアにまで運び込まれ、都市の中央部に位置している大きな十字路の下に、黄金で縁取られた雪花石膏の棺は埋葬されたのである。

 かくして、大王の遺体を手に入れたプトレマイオスは、自分がアレクサンドロス大王の後継であることを主張した。その後、首都をメンフィスからアレクサンドリアに移し、エジプトの太守からファラオとなったプトレマイオスは、〈プトレマイオス一世・ソテル〉として、エジプトを支配することを宣言したのだった。ちなみに、〈ソテル〉とは、救済者という意味である。

 とまれ、大王の遺体を手に入れ、ファラオを名乗り、かくの如く、アレクサンドロスの正統な後継者であることを、エジプトの国内外に対して宣言したにもかかわらず、自分がピリポス二世の落胤で、アレクサンドロスの異母兄であることを、プトレマイオス一世が公表しなかったのは歴史の謎である。だがしかし、この事実は、プトレマイオス朝のファラオに代々伝えられてきた秘話なのであった。

 それにしても、プトレマイオスは、いかにして、大王の遺体をバビロンから強奪し、わずかな日数でエジプトに運び得たのか、その秘密もまた歴史の謎のままである。

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