第三話 逢瀬

 風歌姫ハルピュイアと若者の『また今度』は、さほど間を空けず訪れた。

 次に若者が山を登ったとき、風歌姫ハルピュイアは高台にたたずみ歌っていた。


「空にも繋がれず 大地にも縛られない

 汝の名は風

 まわせ まわせ 命のめぐる輪を」


 その歌声は鳥のさえずりに似て、転がる鈴の音のように響き、水のせせらぎの如く澄んでいる。彼女の歌が風となり谷を駆けていく。木々の間を抜け、種を運び、水面を揺らし、風車を回す。それが風歌姫ハルピュイアが谷で生きる上での全てのはずだった。


「その歌、助けてもらったときにも歌っていたね。好きな歌なのかい?」


 彼女の隣まで歩み寄って、若者が問いかけた。風歌姫ハルピュイアはちらと彼の顔を見遣ってから少し考えこんだ。谷に目を向けながら、どこか別の、遠くを見るような顔をしながら彼女は歌う。


「これは わたしたちが 

 生まれたときから知っている歌

 歌は風 風は命

 わたしたちそのもの」


「"わたしたち"?」


「空を舞い 風を歌う姉妹

 みなどこかで 今日も歌っているはず」


「ああ、きょうだいがいるんだね」と、若者は得心して頷いた。


「だけどここでは、ずっと一人なのかい? 寂しくはないの?」


「いいえ」と答えようとして、風歌姫ハルピュイアは何故だか声に出せない。寂しさなど感じたことはなかったはずなのに、喉の奥がきゅっと閉じたままだった。

 だから風歌姫ハルピュイアはただ黙って、首を横に振った。若者はそれを見て、ほっとしたように笑う。

 

「良かった、君は命の恩人だもの。君には笑っていてほしい」


 そう言われて、風歌姫ハルピュイアは彼に望まれるまま笑顔を浮かべた。若者の目にその微笑みは、どこか神々しく映った。


「ハルピュイアは風の精霊、なのかな。君は天使じゃないって言っていたけれど、僕らにとってはやっぱり守り神なんだよ。人が谷で生きていけるのは、君のおかげだ」


 若者の言葉がこそばゆくなって、風歌姫ハルピュイアはくるるるる、と喉を鳴らした。


「わたしたちは歌う それが風になる

 ただ、それだけ

 わたしたちは 風歌姫ハルピュイア

 ただ、それだけ」


 風歌姫ハルピュイアはその両翼をばさりと広げて、若者を抱き寄せた。二人の周りに白い羽根が舞い、日の光を受けてきらきらと輝く。天上の楽園が在るとすればこんな風だろうか、と眩しさに目の眩んだ若者を、風歌姫ハルピュイアはいつになく真剣な顔つきで見つめた。


「あなたが幸せでありますように

 ただ、それだけ」


 そう小さく口遊くちずさんだかと思うと、風歌姫ハルピュイアはあっという間にどこかへ飛び去ってしまった。残された若者は不思議そうな顔をして、しばらく立ちすくんでいた。






 薔薇の姫君に捧げられた峰雪草は、少しずつ花瓶に増えていく。

 毎日自分の手で花瓶の水を替え、活けた花が長持ちする方法を出入りの庭師に尋ねるなどして、彼女は小さな花を世話した。それでも最初の方に摘まれた花はいたんできてしまって、何本かは押し花にした。

 もうそろそろ、小さな花束と呼んで良いくらいには花が集まる。この白い花たちは、彼の愛。

 この頃になると、薔薇の姫君が仕立て屋の若者に夢中だという話は、谷の人間なら皆知っていた。彼女を熱心に口説く男はずいぶん減り、「どうしてあんな冴えない奴が」と酒場でくだを巻く者が増えた。

 花を受け取る度に、彼女と若者は言葉を交わした。仕立てたドレスの着心地、今年の小麦の具合、好きな布の生地感、好きなお茶の飲み方。他愛のない世間話だ。色気もない。だが彼女にとっては、洪水のような口説き文句を浴びせられるよりは余程楽しかった。自分の顔や体を一つ一つ誉められるよりも、ちゃんと彼女自身を見てくれている気がした。


 その夜、若者はまた峰雪草を手にやってきた。

 二人はいつからか、彼女の屋敷の裏手で待ち合わせするようになっていた。


「こんばんは、お嬢さん」


 若者が挨拶すると、薔薇の姫君が駆け寄った。


「おかえりなさい。今日はどうだった?」


「二本見つかりました。どうぞ、受け取ってください」


 娘は差し出された峰雪草に鼻先を近づけた。白く可憐な花には柑橘に似た爽やかな香りがあり、深く吸い込めばみずみずしい印象だけを残してさらりと鼻を抜けていく。それを一通り楽しんでから、彼女は持ってきていた花瓶に新しく摘まれた花を加えた。


「ありがとう。あなたの峰雪草、たくさん集まったわね」


 薔薇の姫君のその言葉と熱っぽい視線を受けて、若者はどぎまぎとした。その様子に彼女は、楽しそうにふふふ、と笑った。


「ねぇ、山の上ってどんなところなの? 私は行ったことがなくて」


 娘が尋ねると、若者は「そうだなぁ」と呟きながら腕を組んだ。


「岩が多くて登るのには難儀なんぎしますが、美しいところですよ。風の生まれるところ、という感じで、空気が澄んでいて。谷を見下ろすと、みんなちっぽけに見えて。それから──」


 若者はふと広場の方へ視線を投げた。手前の建物に遮られてはいるが、天使像の翼の先が少し見える。


「──"天使様"がいらっしゃる」


「天使様って、あの言い伝えの?」


 娘がいぶかしげに尋ねると、若者は澄んだ瞳で頷いた。


「ええ。あんまり広場の像には似ていませんが」


「からかっているのね」


「いいえ、本当にいるんですよ。いつか一緒に行きましょう。お嫌でなければ」


 娘は"天使様"を信じていたわけではなかったが、真面目な顔をして言う若者の言葉は信用していた。


「わかったわ、あなたが嘘をつくとは思えないもの。私を山へ連れて行ってね、約束よ」






 山へ峰雪草を摘みに来るのは、これが最後かもしれない。そう思いながら若者が山へやってくると、上の方から風歌姫ハルピュイアの歌声が降ってきた。それは、これまでに聴いたことのない歌だった。歌声を乗せた風はどこか甘い香りを含んでいる。その声を辿ってしばらく行くと、岩肌の見えるなだらかな斜面に出た。地表を雪が覆うように白い花が咲いている。珍しく峰雪草が群生しているのだ。

 風歌姫ハルピュイアは翼を広げて、花の上を旋回しながら歌っていた。雲一つない青空に金の髪がなびき、白い羽根が舞い落ちる。鋭い爪が日の光を受けてきらりと輝いた。


「この風が あなたまで届きますように

 その髪を揺らして 唇に触れますように

 この風が あなたを連れて来ますように

 その背を押して わたしを見つけますように」

 

 彼女の歌はそよ吹く風となって、優しく若者の頬を撫でた。彼が空を見上げて「ハルピュイア」と声をかけると、彼女は二、三度羽ばたきながらふわりと着地した。


「日の光にも溶けない 地に咲く綿雪

 それを見たら あなたを思い出したの」


「だから、歌って教えてくれたのかい?」


 若者が尋ねると、白い翼に自らの顔を埋めながら風歌姫ハルピュイアがくるる、くるるぅと鳴いた。


「ありがとう、ハルピュイア。君のおかげで、最後にちゃんと花束を贈れそうだよ」


 そう言って破顔する若者に、風歌姫ハルピュイアは微笑みを返すはずだった。けれど顔が強張こわばってしまう。

 嗚呼、最後、なのだ。

 この人間が峰雪草を摘む必要は、もうない。目的はそれだけなのだから、山へ来ることもない。こうなるだろうことは風歌姫ハルピュイアにも薄々わかっていた。それでもこの白い花がかたまって咲いているのを見たら、「彼に教えてあげなくては」と思ってしまったのだ。胸の内に吹く隙間風がひゅうひゅうとうるさくとも、彼の喜ぶ顔が見たかった。

 だって、こんなに、命を助けたときよりも嬉しそうな笑顔。


「君には助けてもらってばかりだな。ハルピュイア、君の風が僕に幸運を運んでくれる。この谷に住んでいて本当に良かったよ」


 そう言いながら、若者は花を摘むのに夢中で、風歌姫ハルピュイアの曇った顔には気付かない。やがて彼の手の中に、峰雪草の花束が出来上がった。


「それじゃあ僕、お嬢さんのところへ行かなくちゃ。本当にありがとう、ハルピュイア」


 うきうきとした足取りで山を降りようとする若者の背に、風歌姫ハルピュイアたまらず声をかけた。


「わたしたち また会える?」


 さえずってしまってから、風歌姫ハルピュイアはハッと口許くちもとを翼の端で押さえた。言うつもりなどなかった。このまま別れて互いに忘れてしまうのが、一番良いはずだった。それなのに。

 若者の方はというと、驚いたような顔で振り向いた。


「君がそんなことを言ってくれるなんて思わなかった。また会えるさ、勿論だよ。次に山へ来る時には良い報告ができるように、僕も頑張ってみる」


「それじゃあ、また」と、若者は足取り軽く去っていった。

 彼は、また来てくれるという。

 その日がどれだけ遠くても、たとえその言葉が嘘になっても、この小さな希望があれば耐えられる気がした。彼のくれた子兎を、今すぐ抱きしめたくなった。

 風歌姫ハルピュイアはくるるぅ、と高く一声鳴いて、住処へと羽ばたいていった。






「お待たせしてしまってごめんなさい。やっとあなたに、この花束を渡すことができます。僕の愛を信じてくださるなら、どうか受け取ってください」


 まるでおとぎ話のように、月の光の差す中で若者は娘の前にひざまずいた。娘は顔をほころばせて、緊張に震える彼の手を自らの両手で包み込んだ。


「私を見て。この目を見て、私の返事を聞いてちょうだい」


 若者が伏せていた顔を上げると、娘は彼の目を真っ直ぐに見つめた。


「この真心の花束を、あなたの愛を、つつしんでお受けいたします。あなたこそ、私の夫です」


 その堂々たる佇まい、気高い微笑みはまさしく"薔薇の姫君"の名に相応しいものだった。深い赤のドレスに峰雪草の白がよく映える。

 若者は彼女に引き寄せられるように立ち上がり、その唇にそっと口付けた。軽く触れ合うだけの接吻。唇を離す微かな音が寝静まった街にこだましたように思え、二人して照れ笑いを浮かべるのだった。

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