第二話 恋歌

 その風車ふうしゃのそばでは、いつも様々な音が聞こえた。風車の羽がきしみながら回る音、石造りの塔の中でポンプの動く音、流れていく水の音。それからときどき、かすかな歌声。あの声はきっと風歌姫ハルピュイアのものなのだろう、と若者は思い当たった。やはり彼女は、言い伝えにある"天使様"なのだ。町の広場にある天使像と彼女はあまり似ていないけれど、この谷の守り神に助けてもらったのだから、この恋もまたうまく行くに違いない。若者は、はずむ足取りで想い人の家へ向かった。


 ほどなくして彼がたどり着いたのは、谷で二番目に大きな屋敷だった。屋敷の主は広い小麦畑と風車を持ち、そこで農民を働かせて財を築いた。その財を注ぎ込んで建てられた屋敷で一際目を引くのは、二階奥の部屋のバルコニーである。輝石きせきを含んだ白い石を使い、それが太陽や月の光を受けていっそうきらめくように彫刻が施され、そこに立つ者こそが屋敷の真の女王なのだということは、誰の目にも明らかだった。

 そのバルコニーに向けて、若者は呼びかける。


「美しいお嬢さん、薔薇の姫君! どうかそのお姿を見せてください。この峰雪草ミネユキソウを、あなたに捧げます!」


 若者の呼びかけからしばらく、バルコニーに娘の姿が現れた。

 濡れ羽色の豊かな髪は丁寧に結い上げられ、その髪と同じく黒い瞳が印象的な娘だった。口角の上がった艶やかな唇に意志の強さが宿り、深紅のドレスに負けない華やかな空気を全身にまとっている。

 彼女はバルコニーの欄干らんかんにほっそりとした手をかけて、若者を見下ろした。


「私のために花を摘んできてくれてありがとう。でも、私は『花束をちょうだい』と言ったはずよ」


 それを聞いた若者は、たった一本の峰雪草を高く掲げながら、精一杯に声を張った。


「ごめんなさい、今の僕にはこの一本しか手に入らなかったのです。だけどこれから、できる限り山へ登ります。お嬢さんの手元に花束ができるまで、峰雪草を摘みに行きます。だからどうか、僕にもう少し時間をいただけませんか?」


「まあ!」と薔薇の姫君は感嘆の声を上げ、それからホホホ、と上品に笑った。


「あなたのその誠実さが嘘で無いことを祈って待ちましょう。でも花の命は短いのよ。それはよく覚えておいて」


 彼女はそう言ったきり、部屋の中へ姿を隠してしまった。

 若者はそれをじっと見送った。それから固く閉じられた門の下方の隙間から手を差し入れて、そっと峰雪草の花を置いた。




 二階の窓の内から、娘は若者が立ち去るのを見ていた。その姿がすっかり見えなくなってから、彼女は階段を小走りに駆け降りて、門のそばに置かれた小さな花を優しく拾い上げた。空いていた上等な花瓶に水を入れて、峰雪草を活ける。小さな白い花は萎れかけていたが、これで少しは生き長らえるだろうか。娘は目の前の花瓶が、峰雪草でいっぱいになるさまを夢想した。

 幼い頃から、娘の周りには人が絶えることがなかった。愛らしい娘を可愛がる者ばかりであれば良かったが、彼女を通じて父親の富を狙う者も少なくなかった。聡明な彼女は、いつからかそうした輩を見極めることができるようになった。

 娘が美しく育つと、今度は求婚者が後を絶たなくなった。赤いドレスを好んで身につける娘は"薔薇の姫君"と呼ばれるようになり、若い男たちが夢中になった。娘は父親よりも自分自身の目を信じていたので、「結婚相手は自ら選ぶ」と宣言したことも彼らの勢いに拍車をかけた。

 彼女はただ見目が良いだけではなく、優れた経営者であり雇用主だった。老いた父に代わってその腕をふるい、新しい器具や農法を試したり、怪我や病に倒れた農民の面倒も十分に見るなど、彼女の目の届く限りに気を配った。その評判もあって、今や若い男に限らず、谷じゅうから憧れと親愛の眼差しを向けられている。

 しかし薔薇の姫君は、恋の相手としては随分と手強てごわかった。恋文で教養を示そうとした男には誤字を訂正して送り返し、バルコニーの下で小夜曲セレナーデを歌う者にはかつて同じ歌を聞かせた別の娘をバルコニーに立たせるなどした。

 彼女はいわゆる、真実の愛を欲していた。そんなものが本当に存在するのか、賢い彼女は疑ってもいたが、信じてみたかったのだ。

 そんなときに現れたのが、かの若者だった。彼の言葉は素朴で、真っ直ぐだった。彼女がその目を凝らしても、打算は少しも見えなかった。だがやはり、信じるためのあかしが欲しい。いつの間にか話の大きくなった今、彼こそが自分の相手に相応ふさわしいと周りに示す必要もある。


『峰雪草の花束をちょうだい。そうしたらあなたの心が真実だと信じられるわ』


 その答えがこの一輪と、先ほどの誓い。

 娘はこれをたいそう気に入った。だから彼の花束が出来上がるのを待ってみよう、と思ったのだった。




 若者は自ら誓った通り、足繁く山へ通った。

 峰雪草は、標高が高く、他の植物が少ない場所を好んで咲く。そういった場所へ夜に行くのが危険なのは、彼だって知っていた。そのため彼が山へ行けるのは、運良く仕事が早仕舞いしてから日が落ちるまでの僅かな時間か、週に一度の休日に限られる。峰雪草が花束になるには、まだ時間がかかりそうだった。

 その日も彼は、朝から山に登っていた。日が傾くより前に運良く二本の花を摘むことができ、彼は風歌姫ハルピュイアと言葉を交わした、あの高台へとやってきた。

 彼が山へ来たときにはここへも足を伸ばすようにしていたが、あれから風歌姫ハルピュイアとは出くわしていない。この開けた場所は屋根になるものもなく、住処すみかというわけではないらしい。だがかつて彼が寝かされていた場所には新しい羽根が落ちていることもあり、翼を休める場所ではあるようだった。お礼ができればよかったけれど、彼女が元気に歌っているならばそれでいい。彼は真白い羽根を拾い上げながら彼女の歌声を懐かしんだ。

 とそのとき、ひときわ強く風が吹いた。

 若者は腕でその風を受けながら、地に降り立つ者の姿を見た。背にした夕陽が大きな翼を茜色に染め、影が彼女の顔を浮かび上がらせる。風歌姫ハルピュイアだ。


「ハルピュイア!」


 若者がそう呼ぶと、彼女はくるる、くるるぅと喉を鳴らしてこたえた。


「ごきげんよう 花摘む人

 風が巡って春が来るように

 わたしたち ここでまた会えた

 岩に咲く綿雪は もう見つかった?」


 翼を畳む風歌姫ハルピュイアに、若者は駆け寄った。


「久しぶり、ハルピュイア。峰雪草はまだまだ集めないといけないけど、君にまた会えて嬉しいよ。お礼がしたかったんだ」


 そう言うと、彼はごそごそとふところさぐった。やがて取り出されたのは、色とりどりの端布はぎれを縫い合わせてできた小さな兎だった。


「僕、仕立て屋の仕事をしているんだ。といっても、まだ駆け出しなんだけれど。君に服は邪魔だろうし、端布ならたくさんもらえるからさ。命を助けてもらったお礼には足りないかもしれないけれど、受け取ってくれたら嬉しい」


 風歌姫ハルピュイアは目を真ん丸にして、彼の手に乗った小さな兎を見つめていた。それから恐る恐る、翼の端でちょん、と兎をつついた。顔を近づけて、匂いを嗅ぐ。ちら、と若者の顔を見てから、そうっと唇で器用に兎の耳を摘んで引き寄せると、胸元に抱えるようにした翼の中にぽすり、と落とした。それをぎゅうと抱きしめながら、嬉しそうに顔を擦りつける。


「谷底を吹く風の匂い それから あなたの匂い」


 どうやら気に入ってくれたらしい、と若者が胸をなで下ろしていると、風歌姫ハルピュイアが上機嫌に口遊くちずさんだ。


「南に大きな羽が三つ並んで 夏草が青く繁る頃

 生まれたあの子に 少し似ている

 石割いしわりカエデの下の巣に 生まれた小さな子兎に」


 彼女のその歌に、若者はおや、と首を傾げた。

 谷の南には確かに風車が並んだ場所があるが、その数は五基である。四基目と五基目が建てられたのは、彼の祖父の代だったはずだ。

 若者はまじまじと風歌姫ハルピュイアの顔を見た。その小さな顔は自分よりも幾分幼いくらいに見える。


「ハルピュイア、それってずいぶん昔のこと?」


 若者が思わず尋ねると、彼女は不思議そうに目を瞬かせた。


「わたしは時を数えない

 時の流れは一方向 それだけわかっていればいい

 子兎の生まれた日も あなたに出会った日も

 どちらも同じ過去だもの」


 やはり彼女はこの世界の見方が人間とは違うようだ、と若者は考えた。最初に出会ったときに「天使ではない」とは言っていたけれど、それに近い何かなのだろう。

 若者がそんなことを難しい顔で思案しあんしているのに気づいた風歌姫ハルピュイアは、互いの鼻先がくっつきそうなくらいに顔を寄せて悪戯いたずらっぽく微笑んだ。


「ねぇ花摘む人 あなたの歌を教えて

 あなたが山の上まで来るのは

『恋』というものの為なのでしょう

 わたし 恋の歌は知らないの」


 若者は、風歌姫ハルピュイアの大きな目や小さな唇が急に近づいてきたことに驚くやら、恋心に言及されて戸惑うやらでどきまぎした。顔を真っ赤にして混乱する彼を見て、風歌姫ハルピュイアはまたくるる、くるるぅと喉を鳴らした。


「だ、だめだよ、僕は歌なんて歌えない……言ったろう、僕はなんにも持ってないって。恋の歌が歌えたら、僕だってバルコニーの下で歌ったさ。だけど、そうだな」


 若者はどうにか落ち着きを取り戻して、コホンと咳払いした。


「僕の恋の話を、聞いてくれるかい? 町の人に聞かせたら笑われてしまうから、あんまり話したことがないんだ」


 それを聞いた風歌姫ハルピュイアは寝床へ腰を下ろし、その隣を半分空けてやった。彼女に視線で促されるまま、若者はそこへ座った。


 彼が話したのは、次のような恋の始まりだった。




 若者は谷に何軒かある仕立屋の一つに勤めている。店の主人である親方のもとで修行を積み、最近やっと見習いを脱したばかりの、下っ端職人だ。

 その店へ、ある日"薔薇の姫君"がやってきた。彼女は新しいドレスを仕立てる為、上等な深紅のタフタ生地を店に持ち込んだ。

 谷の注目を集める彼女の来店に、職人も親方も皆浮き足立った。若者もその内の一人だったが、彼女の持ち込んだ生地にもまた見惚れていた。艶やかなタフタは、光を集めた色も影になる色も美しく、独特のハリが様々な表情を見せる。この仕立屋にここまで良い生地が持ち込まれるのは極めて稀だった。触れてみたい、扱ってみたい、縫ってみたい──若者はそう願ったが、彼女のような上客の注文が彼にまわされはしないだろうことも、彼にはわかっていた。だから彼は、手元の仕事の合間にちらちらと憧憬しょうけいの眼差しを向けることしかできなかった。

 薔薇の姫君はドレスの注文をまとめる段になると、おもむろに店に飾られたドレスを見て回りだした。「お嬢様、どうなさったんです?」と親方が尋ねるが、やんわりとはぐらかされる。彼女は木製のトルソーにかかった見本のドレスを、袖口や裾周り、襟元など、丁寧に見比べているようだった。やがてある一着に目を留めて、「これを仕立てたのはどなた?」と落ち着いた声で言った。

 それは若者が見習いを卒業するために手掛けた亜麻布リネンのドレスだった。手先が特別器用なわけでもないので、とにかく丁寧に仕事をしたつもりだったが、良いものをたくさん知っているお嬢さんには粗末に映ったのかもしれない。さぁっと指先が冷えて、針を進めることができなくなる。自分のせいで大口の客を逃したとなれば、後でどんな目に合うかわかったものではない。


「それは徒弟とていの習作でございます、お嬢様。行き届かないところがあってもどうかご容赦ください。なに、こいつにはお嬢様の生地に決して触れさせませんとも、ハハ!」


 親方が脂汗をかきながら愛想笑いを浮かべると、彼女の方は涼しい顔で「あら」と振り向いた。


「このドレスを仕立てた人に任せたいと思ったのよ。糸の始末がいちばん丁寧ですもの。でも困ったわね、見習いだったの……」


「い、いえいえ、今はもう立派な職人になっておりますよ。なぁ!」


 親方から猛烈な目配せを受けて、若者はおずおずと彼女の前に進み出た。


「嗚呼、良かった! 私のドレスもどうか丁寧に仕上げてちょうだいね。周りの人は私のドレスが赤ければ満足でしょうけれど、身に着ける私自身は細かいところが気になってしまうの。よろしくお願いするわ」


 麗しの姫君からそんなことを言われた上に両手をぎゅっと包み込まれて、若者は頭がぽうっとなってしまった。冷え切っていた指先が温かくなって、頬が熱を持つ。そんな風に返事もできない彼の背をドンと叩いて、「かしこまりました、お嬢様。大切にお預かりいたします」と代わりに親方が答えた。



 そのドレスは親方や先輩職人の知恵や手を借りつつどうにか仕上がって、薔薇の姫君に無事引き取られていった。

 これは若者にとって大切な記憶だが、この時はまだ恋に至ったわけではなかった。

 薔薇の姫君は素晴らしいかただ。こういう方が率いていくのなら、この谷の未来はきっと明るい。そんなほのかな憧れだった。


 だがある日、彼は見てしまったのだ。

 月の無い夜だった。星明かりが穏やかにバルコニーの彼女を照らしていた。ただそれだけで一枚の名画のようなのに、彼女の顔はひどく寂しそうだった。こんな夜に限って、彼女のそばには誰もいない。

 気がつくと、若者はバルコニーの下で愛を告げていた。


「美しいお嬢さん、どうかそんな顔をなさらないで。私には学も歌もありませんが、この心なら捧げることができます。お寂しい夜には、こんな男もいるのだと思い出してください」


 人がいると思っていなかった彼女はたいそう驚き、暗闇によくよく目を凝らしてようやく、若者がいるのに気がついた。その後はいつも通りの自信に溢れた仮面をつけて、彼に声をかけた。


「あら仕立屋さん、慰めてくれるの? 優しいのね。でも私、不実な男に会い過ぎて少しうんざりしているの。そうね……峰雪草の花束をちょうだい。そうしたらあなたの心が真実だと信じられるわ」






「……今思うと、お嬢さんは僕のことをからかってそんなことを仰ったのかもしれない。だけど僕はその時──いいや今だって、お嬢さんのためなら道化になっても構わないと思っているんだ。それにお嬢さんは僕が峰雪草を摘んでくるのを待っていてくださる。それがとても嬉しいんだ」


 若者がにこにことそう語るのを、風歌姫ハルピュイアは興味深そうに聞いていた。風歌姫ハルピュイアは人の生活に疎い。姉妹たちから人にあまり関わらないよう言われていたし、山の上よりも谷の底の方が人に有益なものが多かったので、人と遭遇することが珍しかった。だから、若者はなるべく噛み砕いて説明してくれたのだが、話の内容はぼんやりとしかわからなかった。それでも彼の話す『恋』の温もりを風歌姫ハルピュイアは感じていた。


「あなたが幸せでありますように

 そういう心は わたしもわかる

 いつかわたしも歌えるかしら

 すてきな すてきな恋の歌」


 風歌姫ハルピュイアがそう歌うと、若者は「僕はちょっと、恋のきれいなところばかり話してしまったかもしれないね」と苦笑いした。


「残念だけど良いことだけじゃあないんだよ。会いたくとも会えないときは切ないし、他の男をねたんでしまうこともある。そういうときはとても苦しい」


「苦しいならば やめないの?

 楽しくないのに やめないの?」


「やめられないんだ、恋というのは」


 日はとうに暮れて、彼らの頭上には星空が広がっていた。風歌姫ハルピュイアには見慣れたものだが、若者にとってはいつも見る夜空よりも広く、近く感じられた。だからついたくさん話してしまったのだろう、と彼は心の中で言い訳した。


「すっかり遅くなってしまった。申し訳ないけど、この寝床を一晩借りられないだろうか? 夜が明けたら自分で山を降りるよ」


 風歌姫ハルピュイアは彼の言葉に、ふるふると首を横に振った。


「風で送るわ 花摘む人

 すてきな恋のおはなしと

 かわいい子兎のお返しに

 小さな峰雪も溶けてしまう」


 言われた若者が手元を見れば、摘んでしばらく経った峰雪草がぐったりして見える。若者は風歌姫ハルピュイアに向かって頭を下げた。


「僕ばかりごめん。また今度会ったときには君の話を聞かせてくれる?」


 そう言われた風歌姫ハルピュイアは、はたと風を呼ぶ口をつぐんだ。『また今度』、そうか、この人とは『また今度』があるのだ。最初にまた会えるか尋ねられたときには何とも思わなかったのに。『また今度』があるのが、何故だか嬉しい。


「きっと きっとよ 花摘む人

 また今度いらっしゃい

 地に生える雪が 空から降る雪に埋まる前に

 だから今は 目を閉じてお別れ」


 その歌に呼ばれた風が、若者をまた風車の元まで運んでいった。

 満天の星空の下に、風歌姫ハルピュイアは一人。彼女の長い髪を風がかきあげて、青草がさやさやと揺れる。彼の座っていたところはまだ温かい。風歌姫ハルピュイアはその寝床に横たわって、布きれでできた子兎を翼でくるむように抱えた。急に心に隙間ができたような気がして──子兎がそれを埋めてくれる気がして。

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