第10話 五年前

――どっちなんだ、わかってるんだろう


 父さんの声が右耳に残っている。


――わからないって言ったら?


 母さんの声が左耳に残っている。


――殺してやる、おまえも、あいつらも


 本当に殺せただろうか。あの父さんに、果たして誰が殺せたろう。誰も殺せないまま、ただ時間が過ぎ去るのを待つしかなかったのではないか。ならば、それを選んで欲しかった。自らそれを選んでさえくれれば、僕が殺す必要などなかったのかも知れない。


 あの日、十二歳の誕生日。僕が塾からマンションに戻ったのは夜九時過ぎ。静かにドアを開けた。チェーンロックはかかっていなかった。いつも通りに。そして奥からは口論の声が聞こえた。いつも通りに。


――どっちなんだ、わかってるんだろう


 それを聞いて、いったいどうしようというの。


――わからないって言ったら?


 そんな返答が、解答になると思っていたの。


――殺してやる、おまえも、あいつらも


 僕は玄関で服を脱いだ。静かに全裸になるとキッチンに走った。シンクの上にはナイフ立て。いつも通りに出刃包丁と果物ナイフ、そして柳刃包丁が刺さっていた。出刃包丁と柳刃包丁を両手に取って、キッチンに向けて開いたリビングを振り返る。呆然と見つめている父さんと母さんに向かって、僕は駆けた。


 最初は立っている母さんを刺した。柳刃包丁で。心臓の位置はネットで何回も何回も調べた。包丁の向きも間違っていなかったはず。母さんはすんなり動かなくなった。包丁は抜かなかったので、返り血も浴びなかった。


 次に間を置かず、父さんに振り返り、胸に飛び込むように出刃包丁で刺した。このときは包丁が肋骨に当たったけど、全身で押し込んだら骨の隙間を通って深く刺さった。でもその代わり、押しつけた顔と手に血がついてしまった。


 父さんは一瞬、僕を抱きしめたけど、すぐに死んでしまった。


 その後、僕は風呂で全身を洗い、二本の包丁の指紋以外に証拠が残っていない事を確認してから警察に電話をした。




 母屋の客間で天井を眺めてみた。板の模様が人の顔に見えなくもない。でも死神様なんて見えない。本当にそんなモノがいるのだろうか。


 まあ何にせよ、とにかくいまは様子見だ。果たして次にどんな動きに出るか。それ次第では、犯人の目星も付くだろう。


「ねえ、いずる」


 背中合わせに座る千香が、後頭部を押しつけてくる。


「いつまでここにいるの」


 もう少し、かな。


「用事が済んだのなら、早くここを出たいな。気持ち悪いもの」


 気持ちも悪いし、気分も悪い?


「うん、どっちも最悪。いずるは大丈夫なの」


 いまは好奇心が勝ってるかな。できればこの謎は解いておきたい。


「……いずるがそう言うんなら」


 仕方ない、とため息が告げている。不満も透けて見えるが、それには触れなかった。


 千香の父方の祖父は祈部豊楽の弟、それもすでに故人である。千香にとって、ここは一族の本家ではあるものの、親しみを持つほど近しくはない。それでもその縁があって僕の家と交流を持ってくれたのだから、結果的には助かったと言えるだろう。父さんと母さんが死んだとき、僕を引き取ってくれたのが馬雲の家だったのだ。


 以来、十二歳から今日まで五年間、僕は千香のアシスタントとして過ごしてきた。静かに、穏やかに、目立つ事なく。その平穏はずっと続くと思われた。けれどそれは破られ、僕はこの事態に巻き込まれている。ならば、乗り越えなくてはならない。謎を解き、己の身を守り、前に進まねばならない。たとえそのために、どんな犠牲を払ったとしても。




「戸女さん。とーめさん」


 十瑠の声に、京川戸女は顔を上げる。すかさず作り笑顔を向けるが、十瑠は布団の上で首をかしげていた。


「どうしたの、ぼうっとして」

「あ、ああ、これは失礼を致しました。このところバタバタしておりますので、疲れてしまったのかも知れませんね。お昼ご飯はもうよろしいですか」


 しかし十瑠は、それには答えない。


「そうだよねえ、二人も死んじゃったら大変だよね」

「はい、まったく大変でございます。あの、お昼は」


「六道伯父さんは行方不明だし」

「それもございますね」


 そう言うと、疲れた顔で戸女は一つため息をつき、枕元にある十瑠のノートPCに目をやった。


「……お嬢様、あの」

「ん、何?」


「そのパチョコンは、アレでございますか、何でもわかるのでしょうか」

「うーん、何でもは無理だね。よくわかる事もあれば、全然わからない事もある」


「左様ですか」


 しばし目を伏せると、戸女はまたため息をついた。


「らしくないなあ。何か調べて欲しい事でもあるの?」


 十瑠は戸女の顔を下からのぞき込む。戸女は動揺し、首を振った。


「いえいえ、別に、そのような事はございません」

「ねえ戸女さん」


「は、はい」

「言わずに後悔するくらいなら、言って後悔した方がいいと思うよ」


 十瑠の真剣な眼差し。いつの間に、こんな顔ができるようになったのだろう、生まれたときから、いや生まれる前から知っているこの子が。それは戸女にとって嬉しい驚きだった。


 しかし、それっきり戸女は沈黙する。これに十瑠も沈黙で答えた。数秒の静寂の後、戸女は思い切ったようにこうたずねた。


「お嬢様、死神様はまだ増えているのでしょうか」


 意外な問いに、十瑠は一瞬驚いた顔を見せると、天井に目をやった。そして。


「うん、昨日より増えてるみたい」


 そのとき、戸女の顔に浮かんだのは決意。


「十瑠お嬢様」

「何」


「お昼ご飯は、もうよろしいですか」

「うん、もう十分」


 戸女は膳を下げると、いつものように静かに部屋から出て行った。




 若い制服警官が二人、祈部邸の石段下にある駐車場へと、パトカーで戻って来た。昼食の買い出しである。二人からコンビニの惣菜パン二つとエナジードリンクを受け取った築根麻耶は、石段の中ほどに腰掛けた。吹く風が気持ちいい。


 すぐ下では、原樹がおにぎりにかぶりついている。その隣に立ったごま塩頭は、市警の数坂。手にはサンドイッチと缶コーヒーをぶら下げていた。


「どう思います、警部補」


 何をどう思うかは言うまでもない。築根は少し考えてから、小さくため息をついた。


「簡潔に言うなら、気に入らないですね」


 数坂の後ろから多登キラリが顔を出した。手には食べかけのあんパンと、紙パックの牛乳を持って。


「何が気に入らないんです? まだ何も出ていないのに」


 その目は興味津々、名前の通りキラキラしている。刑事になれたのは親の七光りらしいが、この好奇心の強さは良い刑事になるだろう。そう思いながら築根は微笑むと、エナジードリンクの口を開けた。


「何も出ないのが気に入らない。特に遺書が」


 それに数坂がうなずいた。


「祈部四界の遺書がない。もちろん自殺者が全員遺書を書く訳じゃないが、書かないには書かないなりの理由があるかも知れない」


 築根はエナジードリンクを一口飲むと、惣菜パンの袋を開ける。


「……逆に言えば、三太郎は何故遺書を書いたのか。あんなどう見ても怪しい遺書を」

「あの遺書のどこが怪しいんですか」


 キラリは食い入るように築根を見つめる。


「こら、多登」


 数坂が注意するが、キラリには碌に聞こえないらしい。築根は小さく笑う。


「『探偵に殺される』、何故探偵なのか。何故『鍵に殺される』じゃないのか。それは遺書を書いた人間が鍵の名前を知らなかったか、忘れてしまったから。すなわち、鍵の近しい知り合いではない。そしてこうも考えられる。書いた人間にとって重要なのは探偵である事、屋敷の中に探偵がいる事であって、鍵である必要はなかったんじゃないのか」


「つまり、あの探偵は怪しくないって事ですか?」


 そうたずねるキラリに、築根はうなずいた。


「鍵については腐れ縁でね、よく知ってるんだ。自殺を好んで取扱い、派手な事件に首を突っ込む事を嫌がる。まかり間違っても名探偵じゃないが、リスクを取る事に対しては極めて慎重だよ。殺人みたいにリスクの高い仕事を引き受けるとは、とてもじゃないが思えない」


 そして、ベーコンマヨネーズパンをかじる。


「なら三太郎と四界とでは、何か決定的に違う部分があるんじゃないのか。同じような死に方に見えて、まったく違う要因があるんじゃないのか。それは探して見つかるべきものなのか、もしくは見つからないものなのか」


 つぶやく築根を、キラリは憧れの表情で見つめた。その頬には、ほんのり赤みがさしている。数坂も石段に腰掛け、サンドイッチの封を開けた。


「警部補は、この件を自殺とは考えておられない」

「まだ決定的な確信がある訳ではないですが、個人的にはそう思っています」


「タコ焼きピックの件も」

「ええ、一連の事件ではないかと。おかしいですか」


 築根が問いかけると、数坂は少し首をかしげた。


「もしこれらが三件の、一連の殺人事件だったと仮定すると、計画的な殺人とはとても思えません。この短期間に、離れた場所で三人も殺すというのは、よほど殺人衝動の強い者が発作的に事件を起こしたように見えます。ただ」


「その割には証拠が出ない。出なさ過ぎる」


 築根の言葉に、数坂はうなずく。


「衝動的な殺人は、当然冷静さを欠くものです。証拠が残らない訳がない。しかしいま現在我々が手にしている情報の中で、証拠と呼べそうなものと言えば、三件すべてにあの鍵という探偵が関わっているという事実だけです」


「それが突破口になるかも知れないという点は否定しませんよ。ただ、鍵が犯人かと言われると、懐疑的にならざるを得ません」


 あんパンを頬張るのをやめて、キラリが顔を上げた。


「じゃあ常に恐ろしく冷静な人物が、衝動的に人を殺していたら」

「そりゃ、ほとんど未来から来た殺人ロボットだな」


 あっという間におにぎりを三つ食べ終わった原樹の何気ない一言は、冗談とすら言えないレベルの軽口のはずなのだが、築根の表情を重くするには十分だった。もし本当に、感情を持たないロボットのような犯人が、衝動的に殺人を続けていたら。果たしてそれを止める手段はあるのか。




 昼は中華そば。鍵としてはインスタントラーメンでも何ら文句はなかったのに、ちゃんとした麺とスープだった。そこに、真っ黒になるまでコショウをかけたのは当然。


 昼食後、満腹で横になっている笹桑を横目に、鍵はカバンからノートPCを取り出した。起動させ、いつものように業務フォルダの中の文書ファイルを開く。国田満夫の案件のために作った、書きかけの調査報告書。スクロールバーにカーソルを置き、一気にページを進めると、目に飛び込んでくる鮮烈な赤。真っ赤な文字で延々と書かれた長文。誰の仕業かは明らかである。


 毎日毎日、おそらくは深夜の時間帯に、懲りもせず飽きもせずに文章が追加されている。ほとんど日記帳と言えた。鍵はそれを読んではいるが、反応せずただ放置している。無視ではなく放置だ。毎回のように書かれている押しつけがましいアドバイスも削除したりはしない。全部キチンと読んで頭の中に入れる。しかし返事や反論を書き加える事はない。それがジョウ・クロードとの正しい距離の取り方だと考えていた。


 だがいま、鍵は文字を打ち込みたくて仕方ない。看過できない文字列があるからだ。妻が死んだときについた嘘を思い出せ。赤い文字はそう書いていた。


「嘘なんかついていない!」


 そう叫びたい気持ちを必死で抑える。何のつもりだ。何故いまになって、このタイミングで妻の死を持ち出すのか。やはり妻の死にはこいつが絡んでいるのか。むくむくと湧き上がる疑惑が胸を圧迫した。


 だが、果たしてそうだろうか? 鍵は頭に上った血を下ろすかのように天井を向いた。


 解離症には解離性健忘という病態がある。通常なら忘れるはずのない重要な事柄を忘れてしまい、記憶に空白が生まれてしまうのだ。もし、自分が何かを忘れているのなら。そして、その事実をジョウ・クロードが知っているのだとしたら。


 赤い文字は嘘を正せとも、説明しろとも言っていない。思い出せというのだ。何を思い出せというのか。自分が何を忘れているというのか。もし自分があのとき嘘をついたのだとしたら、その事実を忘れ去っているのだとしたら、それは何だ。そして何故いま思い出す必要がある。


「鍵さん、どうしたんすか。そんな怖い顔して」


 呑気な笹桑の声に我に返り、ノートPCを閉じた。


「お仕事いいんすか」


 不思議そうな顔の笹桑に、鍵はぎこちない笑顔を返す。


「いや、まあ別に、ははは」

「……もしかしてエッチな動画とか」


「見てません」


 真顔でそう答えた。




「やられたわ、あの小僧ども」


 九南の部屋。豊楽はドアを背に、立ったまま憤然と言葉を口にした。怒鳴り声を上げなかったのが不思議なほどである。九南はなだめるように、大きな体を折り畳んで豊楽の顔をのぞき込んだ。


「ですが、まだいずるたちが犯人と決まった訳では」

「他に誰がおる」


 低く唸るような声に、九南は思わず直立不動となる。それを見て舌打ちをする豊楽。


「ダメ推しのつもりか。もう勝ったつもりでおるのか。だがそうは行かんぞ。この家を、祈部の名を、ここで絶やさせてなるものか」


 吐き捨てるようにそう言うと、豊楽はドアを開けて外に出て行った。

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