第6話 探偵、刑事、そして

 三太郎は寝間着に着替える習慣がなかったのだそうだ。昨日の昼間会ったときと同じ格好で、PCの前の椅子に座って死んでいた。背もたれに体重を預けながら、首の後ろに千枚通しを刺して。


 霜松市松は開け放たれた部屋の入り口で、しばし愕然と言葉を失って立ち尽くしていたが、不意に戸女を振り返ってこうたずねた。


「入ったのは戸女さんだけかね」

「……は?」


 戸女は意味がわからず呆然としている。霜松市松は繰り返した。


「部屋の中に入ったのは、戸女さんだけかと聞いている」

「は、はい、でも私は何も」


 思わず言い訳をしそうになる戸女の言葉を、霜松市松は遮った。


「豊楽さんには伝えたのか」

「いえ、まだ」


「ならばすぐ伝えなさい。それと、警察に連絡するんだ。警察が来るまで、この部屋には誰も入れちゃいけない」

「は、はい」


 ヨロヨロとよろめきながら、戸女は母屋へと渡り廊下を駆けて行く。鍵はそれをしばらく見送ると、笹桑を引き連れ、ゆっくり霜松市松に近付いた。


「死後何時間くらいかわかりますか」


 これはいくら何でも不躾に過ぎると思ったのだろう、霜松市松はムッとした顔を向けた。


「この距離から見ただけで、そこまでわかる医者はおりませんよ」

「近くで見ればいいでしょう。医者なんですから」


「その必要はありません。こんな死に方、明らかに変死だ。触るのは監察医の仕事です。余計な事をして話を面倒にしたくない」

「こちらとしては警察に痛くもない腹を探られる方が面倒ですから、アリバイくらいは確定しておきたいんですが」


 そう言いながら開いたドアの正面にしゃがみ込むと、鍵は三太郎の死体をじっと眺めた。


「……どうかしましたか」


 問いかける霜松市松に、鍵は曖昧な返事。


「いや、どうって事はないですが」


 何だろうな。この死体、何か気に入らない。鍵はそう思ったものの、口には出さない。


「鍵さん、鍵さん」


 笹桑が隣で顔を寄せてくる。


「眼がらんらんと輝いてるっすよ」

「人を変質者みたいに言わないでくれますか」


「それに近いじゃないっすか」


 失敬な。鍵は笹桑をジロリとにらんだものの、実際のところ、この件には興味がある。何故いまなのか。どうして自分がこの屋敷にやって来たタイミングで死んだのか。もしや自分に関係があるのでは。もう一人の自分に。


「警察が来る前に、家族の話を聞いておきたいですね」


 そう言って立ち上がった鍵に、笹桑は手を挙げる。


「はい、十瑠ちゃんに話聞いて来るっすよ」

「じゃあ彼女と四界さんをお願いします」


「えぇー」


 笹桑は死ぬほど嫌そうに顔をひん曲げたが、鍵は知らぬ顔で廊下を歩き出した。


――そうたぶん、この家で誰かが死んでる


 そんな十瑠の言葉を思い出しながら。




「ようやった」


 母屋の廊下、三太郎の死んでいる離れを見渡せる場所で、豊楽はつぶやいた。


「はい」


 背後の九南は青い顔で返事をする。本当なら横になりたい気分なのだろう事は、その声でわかる。豊楽は不満げに眉を寄せると、振り返りもせずにこう言った。


「後は、探偵を自殺に見せかけて始末するだけ。その方法を考えておけ」


 玄関の方でざわつく気配がある。警察が到着したのだろう。豊楽はそちらに背を向けると、自分の部屋へと戻って行った。




 まだ運から見放されてはいないようだ。宿を午前九時にチェックアウトした後、千香の運転する車は――途中何度か危なかったとは言え――何とか無事に目的地に到着した。まったく毎回心臓に悪い。まあ、それでも夜の運転よりはかなりマシなのだけれど。


 ところが、目的地に到着した僕らは当惑した。石段の下に警官が立っていて、家に入れなかったからだ。


「何かあったんですか」


 千香は警官にたずねたが、明確な返答はない。


「ええ、ちょっとイロイロありまして。あなた、この家の方?」


 疑いを含んだ言い方が気に入らなかったのだろうか、千香は憤然と大声を上げた。


「この家の人間じゃないですけど、ダメなんですか!」

「この家の人じゃないなら、教えられる訳ないだろう!」


 思わず怒鳴り返した警官の気持ちはよくわかるのだが、これでは火に油だ。僕は間に割って入り、警官に説明した。つまり僕らはこの家の住人ではないが関係者である事、そして豊楽さんか戸女さん、もしくは霜松先生に確認してもらえばわかるという事を。




「おい、どういう事だ市松。何で兄貴が死んでる」


 渡り廊下の上で、祈部四界が霜松市松を捕まえていた。ただし、兄が死んで悲しんでいるとか、ショックを受けているとかではなく、身近で起きたビッグイベントに興奮していると表現した方が正確かも知れない。口元には笑みが浮かんでさえいた。


 三太郎の部屋の周りでは鑑識が証拠を収集し、刑事たちは家族に事情を聞いている。現場を仕切っているのは市警の刑事、数坂かずさか修平巡査部長。ごま塩頭の短髪で、額の皺が深い。五十五、六歳というところか。キビキビと手際よく指示を出している。優秀な叩き上げなのだろうが、そういうのに限って目をつけられると厄介だ。とりあえず捜査が一通り終わるまで三太郎の部屋には近付かないでおこう。そう考えた鍵が背を向けたとき。


「ちょっとあなた」


 口調は丁寧だが、強引さが見え隠れする女の声。小さく舌打ちして振り返った鍵は、その視線をぐっと下げなければならなかった。


 身長は百五十センチほどか。大きなクリクリとした眼が、良く言えば印象的だ。肩までの髪を後ろで二つに結び、紺のスーツには着られている感がある。さすがに二十歳は超えているのだろうけれど、中学生に混じっていてもわからないかも知れない。


「この家の方に伺いました。あなた、探偵ですってね」


 女は真面目な顔でそうたずねた。だが何というか、子供が無理矢理に大人ぶっているように思えて、鍵としてはかなりむずがゆい。


「えっと、あなたは」


 すると小さな女は一瞬だけ警察手帳を開いて、身分証をチラリと見せると引っ込めた。


「市警の多登たのぼり巡査です」

「いやいや、いまのじゃわからないでしょう」


 多登巡査のムッとしたふくれっ面。子供か。鍵がそう思っていると、目の前に改めて警察手帳が突きつけられた。身分証には写真と名前がある。


 多登キラリ。


 職業を考えれば、いささか説得力に欠ける名前かも知れない。まったく刑事になるなど親は反対しなかったのだろうか。鍵のその思考を読み取った訳でもあるまいが。


「何よ、そんなにキラキラしてないでしょ!」


 そうわめいて手帳をポケットに戻し、なお膨れる。名前にトラウマでもあるのだろう。


「それで何か用ですかね、刑事さん」


 刑事扱いされて、ちょっと機嫌が直ったのか、キラリは鼻息も荒くこう言った。


「事件解決にご協力ください。あなたの知っている事を教えて」

「私が知ってる事なんて、ほとんどないです。昨日ここに来て依頼を受けたばっかりなんですから。何かあるなら、こっちが教えて欲しいくらいですよ」


「じゃあ、その依頼の内容を教えてください」

「それはこの家のご主人に聞いてもらえますか。依頼された私が喋っていい話じゃない」


「それを教えられる範囲で」

「いや、その範囲を勝手に決められないって事なんですが」


 迷惑そうな顔で、のらりくらりとかわす鍵に、キラリはイライラをつのらせた挙げ句、指をさした。


「あなた、怪しい!」

「何が。どこが。何の容疑ですか」


 と、そこにキラリの背後から声がかかる。


「多登巡査、何してる」


 見れば数坂が立っていた。キラリは振り返りながら、なおも鍵を指さす。


「数坂さん、この人怪しい」


 何も言わずに近付いて来ると、数坂はキラリの頭にゲンコツを落とした。


「痛たあい!」


 涙目で頭を押さえるキラリをにらみながら、ため息をつく数坂。


「迷惑かけてすまんね。まだ刑事になって日が浅いんだ、勘弁してくれ」

「いや、別に迷惑ってほどでは」


 ここで絡まれては厄介だ。鍵が「それでは」と離れようとすると。


「ところで、アンタが探偵ってのは間違いないのか」


 やはり絡まれた。まったく何て事だと言いたかったが、それを口にすれば余計に食いついてくるのは目に見えている。鍵は可能な限り平静を装って振り返った。


「ええ、まあ確かに探偵ですけど、それが何か」


 すると相手は親しげな微笑みを浮かべて一歩近付いてくる。しかし鍵は知っている。刑事の笑顔など碌な物ではないという事を。数坂はたずねた。


「亡くなった三太郎氏とは以前から?」

「いえ、昨日初めて会ったんですが」


 嘘をつく理由はない。話して構わない事は正直に話す。警察相手なら、その方がトラブルは少ない。だが、そのとき数坂が見せた態度に鍵は引っかかった。刑事はこう言ったのだ。


「本当に間違いないかね。勘違いじゃなく」


 これはどういう事だろう。人が死んだ現場に部外者の私立探偵がいれば、目立つのは間違いない。怪しむのも理解はできる。だが、何で自分と三太郎が知り合いだと思ったのか。何故そこにこだわったのか。それを鍵は一瞬で考え、無難な答を返した。


「調べてもらえば、すぐにわかると思いますが」


 それでも疑わしげな表情を隠しきれない数坂は、急に話題を変えた。


「……あんた、タコ焼きピックの自殺は知ってるよな」


 思わず鍵の眼が動いた。


「タコ焼きピック?」


 何だそれは。そう言えば、昨日一昨日は新聞を読んでいない。そんな話題があったのだろうか。鍵はスマホを操作した。


「知らんのか。タコ焼きピックで自分の首を刺して自殺した酔狂なヤツがいるんだよ。ネットでは笑いものにされてたがね」


 数坂の顔をチラチラと見ながら検索すると、記事はすぐに見つかった。死んだ三十八歳の男の名前は書いていない。だが、マンション名には覚えがある。同じマンションで立て続けに自殺が起こったのでなければ、これはおそらく国田満夫だ。


 国田満夫が死んだ事は知っている。自殺か他殺か判断しづらい死に方をした事も、築根麻耶に聞いた。だが、その具体的な内容までは聞いていなかった。所詮警察案件である。そんな事に興味はなかったからだ。


 けれど、いまその内容が問題となっている。国田満夫の死に方は、祈部三太郎のそれとそっくりだった。


 これは偶然か?


「あんた、どうしたね」


 鍵の表情の変化に気付いた数坂が、さらに疑わしい目で見つめる。そのとき。


「数坂巡査部長」


 母屋の方向から、若い制服警官が近付いてきた。数坂は一瞬腹立たしげな表情を浮かべて答える。


「何だ。何かあったか」

「はい、ここの関係者という二人連れが門の下に来ておりまして、家の者にたずねたところ関係者で間違いないとの事なのですが、母屋に通してよろしいでしょうか」


 数坂は数秒考えた。


「名前は聞いたか」


 若い警官は、手にしたメモに目を落とす。


「はい、馬雲千香と八乃野いずる、と名乗っています」


 鍵は隠した。心の動揺を必死で押し隠した。何故ここに馬雲千香が来るのだ。数坂はまた探偵を疑わしげに見つめたが、足早に母屋の方に歩き出す。


「よし、とりあえず通せ。多登、おまえも来い」

「えーっ、でも」


「いいから来んか!」


 首根っこをつかまえて、引きずるようにキラリを連れて行く。後に残された鍵は、呆然とその背を見つめていた。


 これは偶然か?


 いや、そんなはずはない。いくら何でも、こんな偶然など有り得ない。だとしたら誰の作為だ。馬雲千香か、それとも他の誰かか。鍵は走り出したい気持ちを押さえながら、ゆっくりと歩き出す。いま行かねばならない場所は一つ。祈部六道の部屋。




「大伯父様、お久しぶりです」


 千香が畳に両手をついて頭を下げた。祈部豊楽は一段高い場所で、うんうんとうなずく。


「遠いところ、よく来てくれたの。元気そうで何よりだ」


 笑顔ではあるものの、いささかやつれた感が見える。息子が自殺した事を考えるなら、それも当然なのかも知れない。


「いずるも立派になったな。両親の面影がある」


 ご無沙汰しております、と僕は脚に手を置いて頭を下げた。いかにも好々爺といった風に豊楽は微笑んでいる。ここだけを見れば、まるで善人だ。何をしに来たとは聞かない。ここに来たがるのは当たり前だとでも思っているのだろうか。


「三太郎さんの件、聞きました。急な事で残念です」

「うむ、まったくだ」


 豊楽は千香にそう答えると、しばらく言葉を探した。


「……あやつには脆いところがあるとは思っておったが、こんな最期になるとはな。しかし遺書を残しておるのだ。余程の覚悟だったのだろう」


 遺書があったのですか。思わず僕はたずねた。千香が横目でにらんでいるが、口に出てしまったものは仕方ない。豊楽は気分を害した様子もなく、こう続けた。


「使っておったコンピューターの中にな。投機に失敗した事、会社の金を使い込んだ事、もう逃げ切れんと思ったと書いてあったらしい。そうだな、刑事さん」


 豊楽が僕らの後ろに声をかけた。振り返ると、中年の男と若い女の二人の刑事が並んで正座している。ごま塩頭の中年が答えた。


「ええ、それで間違いないです」


 他の事は書いていなかったのですか。僕の問いに、中年の刑事はちょっとムッとしたような顔でこう言った。


「捜査上の秘密は言えんよ」


 つまり何かが書いてあった訳だ。そこで僕は、続けてたずねた。キーボードの指紋は本人の物でしたか、と。


「いま鑑識が確認中だ。何が言いたいのかね」


 素人が口出しをする事に、ましてこんな小僧に口を出されたのが不愉快だったのだろう。刑事はあからさまに不満げな顔を見せた。いえ、あまりにも驚いたので、つい。僕はそう話すと、再び豊楽に向き直った。こちらは相変わらずニコニコ微笑んで、これといって動揺した様子もない。


 千香が話題を変えた。バイオリンを持って来たので披露しましょうか、と言い出して豊楽に苦笑いされていたようだが、そんな会話の内容はもう僕の頭には入らない。


 これはまた随分と面白そうな事件じゃないか。人の気持ちも知らないで。僕は心の中でそうつぶやいた。

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