第13話 消費税がまた上がる
山を下りて帰宅し、登山靴を脱いだ時、ソールがだいぶ減っていることに気付いた。
登山靴のソール交換は何万とかかる。だから父親からは「貼り替えするぐらいなら新品を買ったほうがいい」と教えられていて、今まではそうするつもりだった。
けれど、ゆうべの山小屋での騒動で、僕の気持ちは山からだいぶ遠のいていた。
あんなことは完全にイレギュラーで、滅多に起こるものじゃない。小屋泊でなければ基本的に会話すらない。なのに、変わった人間とたまたま遭遇したという些細な一件が僕を、
(もういいか……)
という気持ちにさせていた。
先輩が家に来るようになった時点でだいぶ覚めてはいた。そこへあの一件、さらに、続けるには大きな出費がかかると来れば、これはもう引退せよという啓示と解釈できる。
役者を辞めた時と違って、別に誰に宣言する必要もない。ただ靴を新調しないだけだ。道具も別に処分しない。災害時には相当役立つはずだし、いつか気が向いたらまた再開してもいい。
◆ ◆ ◆
駅前のコンビニが潰れた。
このご時世、24時間営業や長い賞味期限に価値を見出す人は少ない。スーパーが賑わい、コンビニは全国でみるみる減っている――とニュースで言っていた。
飲み屋がいくつも入っていた雑居ビルも空きフロアが目立つようになってきた。僕もそうだが、頻繁に外食をする余裕なんてない。稽古帰り、必ずと言っていいほど飲んで帰っていたのが信じられない。
炊き出しの列は日に日に長くなり、ハローワークの駐車場は満杯で路駐まで発生している。
そんな中、消費税がまた2%上がるという。
時給3000円だから今のところまだやっていけるが、
(あくまでも今のところだ)
そう思うようになってきた。
状況が好転する兆しが見えない。
2000円が大して高給ではなかったように、3000円もいずれそうなり得る。
それに、大原さんのおかげで辞めずに済んだけれど、またいつ仕事の環境が変わるかわからない。外敵がある限り潰れることはなさそうに思えるが……いや、そもそも民間が発砲しているのは異常事態ではないか。是正されたら僕は一転、無職になる。
コンビニや飲み屋が減ったということは、未経験OKの求人も減っているはず。
今のうちに何か、手を打ったほうがいい。困窮すると判断力が鈍くなる。
「バイトしない?」
と、先輩に持ちかけられたのは、ちょうどそんなことを考えていた時だった。
「やります」
「即決? 無職なの?」
「いや、今のも続けますけど。兼業アリですか?」
「アリだけど。てかそろそろ今何の仕事してんのか教えてよ」
「内緒です」
「なんでよー」
先輩にはそろそろ言ったほうがいいだろうか。
あるいは、両親に説明しているのと同じように、パチンコ屋で働いている設定にするか。あれなら今まであまり言いたがらなかったのも筋が通る。
いや、嘘はやめよう。先輩は勘がいい。すぐにバレる。
「どういうバイトなんですか?」
「私の奴隷になりなさい」
「はい?」
「うちでバイトしない?」
「先輩、社長だったんですか?」
「会社組織でも社長でもないけどまぁ幹部だね」
「そんな偉い人だったとは」
「そうなのよ。偉いのよ」
「で、仕事内容は?」
「えーとね、尾瀬くん」と言って、先輩はほんのり鋭い目をした。眼光を抑えようとしたけれど若干漏れてしまったような目だ。「一応、念のため聞くんだけど」
「はい」
「自衛隊派遣には反対だよね?」
(!)
来たか。
山小屋で打ち切りになった話題、まさかここでその続きをやることになるとは。
「反対です」と、変な間を開けないようにとりあえず答えたけれど、本音を言えばよくわからない。
「戦争」には確かに反対だけれど「今後の米豪韓合同軍事演習への自衛隊派遣」に対して賛成か反対かは決めかねている。賛成派の「何もせずにただ守ってもらう気なのか」という主張にも頷けるし、反対派の「武力行使への道を踏み出してはならない」という主張もわかる。日本はこれからどうすべきなのか、突き詰めて考えてこなかった。僕が考えたところで決定に影響が及ぶわけではないから。
「あー、良かった! ちょっとドキドキしちゃった」
わかりませんと正直に言っていたらどうなったのだろう。
あるいは、すでに撃っていますと言ったら。
恋人――ではないのか? 何でもいいや――と、政治信条的な話ですれ違いを感じたのは初めてだ。
世の恋人たちはどうしているのだろう。あらかじめ確認してから付き合うのか?
「それが関係するバイトなんですか?」
「うん」
「海自の戦艦を撃つ仕事とか?」
そういうのだったら慣れてはいる。
「んなわけあるかい!」と言って先輩は笑った。「戦争反対のために戦争してどうすんのよ」
「ですよね」と言って僕も笑っておいた。
危ない。つい際どい冗談を言ってしまった。
「デモに参加してほしいのさ」
「デモ?」
「デモンストレーション。行進」
「わかりますけど、バイトを使うんですか?」
「そりゃね、自分の意志で参加してくれるのが一番なんだけど、最近は警察に荒っぽい止め方されたり、賛成派が石投げてきたりしてまあまあ危ないから、リスクの対価としてバイト代出すことにしてるんだ」
「なるほど」
「次の日曜、正午から2時間で5000円」
「そんなにくれるんですか?」
時給2500円なら監視員より高い。
誰が払っているんだろう。まさか先輩のポケットマネーではないだろうけど。
「どう?」
「やります」と、即答した。この流れで躊躇するのは変だ。
すでに何度も発射スイッチを押しているのに、自衛隊派遣反対のデモ。
ねじれている。
僕は一体、何を考えているのか?
(金だ)
金のためだ。
最初からそう。
仕事内容に対して強い意志はない。
国際情勢は知らんけど金をもらえるからスイッチを押している。
それと同じように、金がもらえるから、デモに加わる。
何もおかしなところはない。
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