第9話 太ると何が困るのか
アプリで家計簿をつけ始めた。食費がかさんでいることはわかったけれど、もう少し実体に迫ったほうがいい。
つけ始めて3日で気づいた。食生活を変えるしかない。賞味期限が迫った見切り品でも、野菜や肉は高い。先輩が言っていた通り炭水化物中心にすれば食費はかなり削減できる。
見切り品が駄目なのは惣菜や弁当も同じ。特に弁当は高い。特段豪華でなくても元値は1000円を超えている。米と一緒に容器に詰めただけのものにそんな金は払えない。
バイトの昼飯は今まで行きがけのコンビニで買っていたのを改め、簡単な弁当を自分で作っていくことにした。1個300円のおにぎりを平然と買っていたのが信じられない。なぜ高いと思わなかったのか。
いや、高いとはきっと思っていた。
(信じていたんだ)
大丈夫なはずだと。
最低賃金のバイトでコンビニ中心の食事をしていても、生きてはいけるはずだと。
少なくとも役者をやっていた頃、周りはそうだった。
割のいいバイトをして、スーパーで見切り品を買うようにすれば、金は貯めていけると信じていた。
日本はちゃんとした国だから、非正規でもとにかく働いていれば、人を養うのは無理でも、自分一人生きていくには事欠かないと――偉い大人たちが何か上手いことやってそういう風にしてくれているものと、長い間思っていた。
そうではないとわかった以上、切り詰めるしかない。
(切り詰める……と言えば)
実家に戻るのが一番だ。この一人暮らしに深い意味はない。戻ってしまえば家賃が丸ごと浮く。
でも、まぁ、待て。
残高はまだ60万以上ある。食費を節約すれば減るのは食い止められるはず。最悪、50万を切ってから検討すればいい。
食事や風呂の時間を自分の一存で決められる快適さが意外に捨て難いというのもある。何より、深い意味はないけれど、自分にとって前進ではあったのだ。こんなところで退がりたくない。
「本日は社会経済学者の高階先生にお話をお伺いします。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「早速ですが、完全失業率が19%を超えるのはいつ頃になると……」
夕飯、ネット番組を見ながら、もやし炒めを頬張る。
やはりもやしだけでは味気ない。ニラとか、少しでも豚肉があれば……いや、ダメだ。こういうのは最初が肝心。質素さに自分を慣らしていかないといけない。
酒はやめられればいいのだろうけれどそれは無理なので、今まで無頓着に缶飲料を買っていたのをやめ、紙パックの焼酎を廉価品の炭酸水で割ることにした。貧乏臭いが、気づいたのだ。自分は貧乏なのだと。時給2000円は高給じゃない。
◆ ◆ ◆
もやしには一週間で飽きた。
もちろんレシピは探せば色々ある。が、もやしはもやしだ。味付けがどうであってもあの食感というか存在に飽きた。
キャベツや納豆、豆腐などにも、近々飽きるだろう。
食事がつまらないと、生活全体に張りがなくなるということがわかってきた。グルメという自覚はなかったが、今までなんだかんだ食事を楽しんでいたらしい。
食べるのが楽しくないなら、作るのも別に面白くはない。自炊をすると決めた時は新しい趣味の一つになるかと少し期待していたのだけれど、食材の縛りがキツ過ぎてただの作業としか感じられない。
(つーか、太った)
若干、腹が出てきた。筋肉が減った。体全体が弛んでいる。
おかずが物足りない分、炭水化物の摂取量が自然と増えた。そこを食べなければいいのはわかっているのだが、食べないと次の食事のことばかり考えてしまう。
太ると何が困るのか。
鬼嶋先輩がいつかフリーになった時に付き合える可能性が下がる。痩せた男が好みと聞いてはいないけれど、僕自身、たるんだ体の男が魅力的だとは思えない。
そう、先輩がどうこうより、自分が嫌なのだ。
役者は引退した。もう人前に立つことはない。それでも、役者時代の習性が僕に「太るな」と言っている。
僕の演技を覚えている人間なんてきっと何人もいないだろう。近々ゼロ人になる。役者として爪痕一つ残せなかった。凡夫だった。
でも、努力はしていたんだ。これが商売道具だから、見せ物だから、だらしない体になってはいけない。
未練があるわけじゃない。もう舞台には立たない。ただ、舞台に立ち得る肉体があの世界で得た数少ない財産だった。これを失うと、いよいよ自分が駄目になってしまうという強い予感がある。
(道は二つ)
太るまいという強い意志で、口に入れるものを減らす道が一つ。頑張ればいつか慣れるだろうけれど、健康維持の要である「品目数」が、倹約生活ではどうしても確保できない。不健康な痩せ方になる。
ならばもう一つの道しかない。
稼ぎを増やす。より時給の良い部署に異動する。希望者募集のポスターが出ていた。勤続半年以上の条件は満たしている。
監視員から、撃ち方へ。今後はダイレクトに人を殺すことになるが、時給は3000円に跳ね上がる。
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