第7話 ただの見張りを6時間
「では、配置につけ」
日野の低い声に、全員が靴を鳴らし、敬礼する。
一度目は敬礼が揃っていないと言われ、まさかの斉唱からやり直しになった。
全員、萎縮している。僕もだ。
高校の数学教師を思い出す。ヤクザのような男だった。数学の授業は普段ふざけてばかりの奴も含め全員静かにしていた。人を支配するには怖いのが一番いい。
昨日まではダラダラとバス乗り場へ向かっていた足が、一様にキビキビとしている。
今や給料をもらうことではなく、日野に怒鳴られないことが第一の目的になった。言われた通りにしていれば怒鳴られない。ついでに給料ももらえる。
こうして人は兵隊になっていくんだろうな。祖国を守りたいなんて気持ちはなくてもいい。
「徴兵する」
と、事前に言われれば猛反発が起こるだろう。
けれど、ある日“突然”、強面の軍人がやってきたら、一般市民はたとえ頭数で圧倒していてもまず逆らえない。銃を持てと言われたら持つことになる。一小隊作るのはきっと難しくない。
地下の駐車場でバスに乗り、運ばれていく。日野の目はもうないのに、どことなく緊張した雰囲気が続いている。
さぁ、問題はここからだ。
国家斉唱は別にいい。歌うぐらいで思想が歪むわけじゃあるまいし、ただやり過ごせばいい。
純然たる見張り。何の暇潰しもなしで6時間。耐えられるだろうか。
無理だ。
辞めよう。
帰りのバス、僕は頭の中で「無理だ」と「辞めよう」を繰り返していた。
開始15分で悟った。とても耐えられない。もう20分は経っただろうと時計を見たらまだ15分だった。
音楽やラジオを聞きながら座って海を見ているだけで時給2000円――今までがおかしかったのかもしれない。美味過ぎる。イヤホンなしでも、こんな簡単な作業で時給2000円なら十分美味いかもしれない。
でも、僕には無理だ。
考えることは、山ほどない。目下、辞めるなら次のバイトをどうしようという悩みはあるが、検索もできないから考えたって仕方がない。
船影は滅多に現れない。今日は6時間で1隻だけだった。1隻も来ない日もある。
ひたすら、海。海。海。波の音。風。空。
日頃、ハードな頭脳労働をしている人には良いリフレッシュになるかもしれないが、僕はこれが仕事なのだ。リフレッシュを通り越して無になる。脳の皺が消える。
賢ぶるつもりはないが、あんなことを毎日続けていたら完全なバカになってしまう。
もう現時点で軽くバカになっていて、新しいバイトを検索する気力が湧かない。延々と「無理だ」「辞めよう」を繰り返している。
とにかく逃げなければ。
今すぐ辞めたいと言っても2週間は続けなきゃならない。耐えられる気がしないけれど、耐えるしかない。気が狂ってしまったらその時はその時だ。
バスを降りて、すぐに電話をかける。
「▪️▪️▪️▪️▪️センターです」
「▪️▪️▪️地区の監視員の尾瀬と申します」
「尾瀬さん、お疲れ様です」
「退職したいんですが」
「……いつ頃をご希望でしょうか?」
「最短でお願いします」
「では、あと1ヶ月続けていただけませんか?」
「法的には2週間でいいはずですよね」と、僕は強気に出た。電話口の人の声が優しそうだったから強気に出られたというのは正直ある。申し訳ないが背に腹はかえられない。「2週間で辞めさせていただきます」
「……すみません。尾瀬さん、後ほどこちらからお電話させていただいてもよろしいでしょうか?」
「わかりました」
電話を切る。
負けるものか。
何と言われても絶対に辞める。
辞めるのは労働者の権利だ。
◆ ◆ ◆
折り返しの電話がかかってきたのは、まだ荷物の片付けが終わっていない新居で、次のバイトを検索している時だった。
「はい、尾瀬です」
「お疲れ様です。大原です」
前の店長だ。店長ではないが。大原さんは「店長」という感じがする。
「お疲れ様です」
「聴きましたよ、尾瀬さん。お辞めにやりたいそうで」
「ええ、まぁ」
大原さんが担当のままなら続けたかった。でも、そんなことを言われても向こうも困るだろう。
「それで、ちょっと相談なんですけど……」と言われ、身構える。誰が説得してきても折れてたまるか。僕はもう辞めると決めたのだ。「勤務中は、その、今まで通りでいいようにしますんで、続けていただけませんか?」
……ん?
「今まで通り、というのは……?」
「その、要は、今まで通りです。日野が担当になる前の状態と言いますか」
なるほど。イヤホンをしていていい、ということか。電話でもそうハッキリとは言えないのだろう。
「……」だったら、話は変わってくる。
「国家斉唱はきちんとやっていただかないとですけど、勤務中に関しては、まぁ、大丈夫なようにします。実は、いろんな人からいっぺんに辞めたいと言われて困ってるんですよ」
「そうだったんですか」
「いきなり軍隊みたいなことやらされたら皆さんびっくりしますよね。日野が担当になると聞いた時からこうなるような予感はしてたんですが……」
「ええ……」
「日野はご覧の通りあんな感じですけど、上から言われれば逆らえないので、根回ししておきます。あのね、尾瀬さん。これ誰にでも言ってるわけじゃないんです。尾瀬さんだから言ってるんですよ。あなた素質ありますから」
え? 「素質って、何のですか?」
「もともと、続かない人が多いんです、この仕事。メンタルをやられてしまうみたいで」
「……」
「尾瀬さんは全然平気でしょう。僕にはそう見えましたけど、違いますか?」
「いえ、まぁ、メンタルは別に平気です」
「ほら、やっぱり素質ありますよ」
「だって、殺してないですから」
「ええ、そうです。あなたは知らせてるだけ。病んでしまうほうがおかしいんです。繊細過ぎる人が多いんですね、最近は」
「……」
「とにかくそういうわけですから、もうしばらく続けていただけないでしょうか?」
「……わかりました」
「ああ、良かった! じゃあ今後とも、よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします。わざわざありがとうございました」
「いえいえ、それじゃ、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
電話を切ると、画面は新しいバイト探しの検索結果に戻った。もう必要ない。ブラウザを閉じる。
とりあえず、良かった。未経験OKだとやはり安いバイトしかない。イヤホンをしていていいなら今の仕事は最高だ。
「……」
素質があると言われた。
何の?
人殺しの?
違う。そんなこと言われてない。
殺してないんだ。何度も言わせるな。
スイッチを押したら人が死ぬけど、僕は殺してない。
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