第5話 上司に私物を壊された

「不安を煽るばかりではないかというお叱りの声があることも承知しております。が、我々はやはりお伝えしなければなりません。今日の数字が出ました。完全失業率は17.1パ」


 そこで音声が途切れた。イヤホンが耳から外れたのだ。

 どこかに引っ掛けでもしたか、身動き一つしていないのに……と訝りながら背後の地面を見ると、そこには足があった。

 軍靴。社員だ。


「何だこれは」


 歳は自分とそう変わらないように見えるその男がいきなりタメ口で言ってきて、僕は唖然としてしまった。初対面でタメ口を使ってくるのは老人だけだと思っていた。

「勤務中だぞ」と言って、男は僕のイヤホンを無造作に地面に捨て、軍靴で踏み砕いた。

 おいおい、マジか。

 安物だけど、そういう問題じゃない。


「仕事に集中しろ」

「あの、大原さんは……」

「あ?」


 男が眉を吊り上げる。

 怯みながらも僕は続けた。


「大原さんからは、片耳ならいいって言われました」

「大原には俺から言っておく。職務規程では認められていない」


 確かにそうだ。そうなのだが、いくら上司と部下でも、初対面で相手のイヤホンをもぎ取って踏み砕くなんてことが許されるだろうか。


「今は戦時中だぞ。いつまでバイト気分でいる気だ」

「いや、バイトですけど……」

「貴様、口答えするのか」

「え、でも、バイトなんで。というか、今って戦時中なんですか?」


 いつの間に開戦したのだろうか。


「領海侵犯した船舶に対し、警告なしで発砲している。これが戦争でなくて何だ。雇用形態がアルバイトだろうと何だろうと貴様が“バイト気分”でいることは許されない。国家を守る戦士であると自覚しろ」


 せん……し?

 いや、待ってくれ。そんなつもりはない。

 水平線に現れる船についてあれこれ考えはした。沿岸の漁師たちを守りたいという気持ちもあった。でも、国を守るなんて意識は微塵もなかった。

 戦士って、それで時給2000円はおかしいだろう。そもそも戦争ならいち企業が請け負っているのはおかしい。国がやることだ。

 ――などと、頭の中で反論を巡らせていると、突然「押せ」と言われた。


「……え?」

「さっさとスイッチを押せ!」

「は、はい」


 握り締めるようにスイッチを押す。

 来ていたのか。振り返った時から、目を離していた。


「今すぐその間抜けなツラを海へ戻せ」

「……」


 何だこれは。軍隊じゃないか。軍隊なら僕はやりたくない。


「今日付けでこの地域の担当になった日野だ。どうやら大原は貴様らをずいぶん甘やかしていたようだが、俺が来たからにはもうそうはいかん。徹底的に叩き直してやる。さては今まで始業時の国歌斉唱もやっていなかっただろう。明日からは必ずやらせる。歌えない者には罰を与える。予告してやるだけありがたいと思え」


 視線の先で船影が爆ぜる。

 日野と名乗った男の足音が遠ざかっていく。

 波の打ち寄せる音が今までより強く聞こえる。


(……)


 いやいや、ちょっと、待ってくれ。急過ぎる。

 確かに、規程では、始業時に国歌斉唱をやる決まりになっている。でも誰もやっていなかったし、大原さんからも何も言われなかった。

 以前働いていたスーパーでも接客用語の復唱なんて誰もやっていなかった。会社が作る“そういうの”を現場が無視するのは別段珍しいことじゃないはずだ。

 一瞬振り返り、日野が足を置いていたところを見る。白いプラスチックの欠片が散乱している。これ、僕が片付けるのか。


 ◆ ◆ ◆


 送迎のマイクロバスはすべての窓がスモークで覆われている。客席と運転席との間には仕切りがあり、乗客は今どこを走っているのか完全にわからないようになっている。

 乗り合わせるのはいつも四人。全員男で、僕はたぶん若いほうから二番目。挨拶ぐらいは交わすけれど、特に会話はしない。バラバラに乗り込んで、各々スマホをいじりながらバスに身を任せ、バラバラに降りていく。


「おつかれッス」


 髪を青く染めた少年が乗車してきて、四人揃った。静かにバスが走り出す。


「いやー、やべえッスね!」


 少年が大きな声で言った。誰に話しかけたのかわからず、僕を含む三人は少年を横目で見つつ沈黙する。


「来ました? ヒノとかいうやつ」


 声がこちらに飛んできていた。僕か。


「ああ、来ました。ヤバいですね」

「いやマジで洒落になってないですよ! 聞いてねーよっつーか、何これみたいな。ダルくないですかマジで」


 今まで会話してこなかったから、いきなりフランクに話されて多少たじろいだけれど、気持ちはよくわかる。僕も話したかった。


「いきなりあんなの、キツいですよね」

「ですよね!? はー、明日からどーしよ」

「勤務中、何か聞いてました?」


「あ、聴きます? どうぞ」と言って、少年はスッとメタリックブルーのイヤホンを差し出してきた。壊されたイヤホンのことを思い出しながら耳に当てる。

 パーカッションがこれでもかと詰め込まれた、複雑でテンポの速い曲が聴こえてきた。


「知ってます? この曲」

「いえ」

「どうスか?」

「いいですね」


 実際、好きな感じの曲だ。


「でしょ! 餓虎ってバンドなんでぜひ聴いてください。飢餓の餓に虎でガッコです」

「聞いてみます」

「自分、ドラムやってて。バイトしながら聴いてるっていうより、聴きながらバイトしてんですよ。それで全然いいって言われたから来たのに、話違ぇじゃんってなってます、今」


 なるほど。それは僕よりつらいだろう。


「僕もラジオとか聞いてました。ひたすら海見てるってできます?」

「無理ッスね、ぶっちゃけ。やれる気しないです」


 だよな。

 他の二人は会話に参加してこないけれど、どういう気持ちなのだろう。


「クソ楽で時給めっちゃいいのはわかるんスけどねー、いやー、ないわー。マジで辞めよっかな」

「他に当てあります?」

「ないですけど、まぁ探せばあるっしょ」


 そう、あるにはある。またスーパーでレジ打ちをやってもいい。ただ、時給は大幅に下がる。


「決めました。辞めます」

「え、決断早っ」

「何時間もひたすら海見てるだけって無理ですよ。何か手動かしてたほうがマシです。前はライブハウスの店番やってたんスけど、また何か音楽関係の仕事探しますよ。自分やりたいこと音楽なんで」

「偉いですね」

「いやぁ別に、普通ですけど」


 偉いさ。目的がある。

 僕が役者を諦めた分、彼には頑張ってほしい。勝手に託されても困るだろうから言わないけれど。


(目的か)


 今の僕の目的は、何だ?

 生活すること。これ以上貯金を減らさないこと。だったらこのバイトを続けるのが一番良さそうだが……さてどうしたものか。

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