03話


 ――コッ


 一歩。たった一歩の距離が、彼らにとっては死そのものだった。


 ついに耐え切れず、幾人かの生徒が意識を手放す。

 それはある意味では幸福だったのかもしれない。


 白目を剥いて泡を吹き、痙攣を繰り返す彼らが、きちんと呼吸をできているかは怪しい。しかしそれを心配する者は一人としていなかった。


 そんなことを気にしている余裕などあるはずもない、僅かでも気を抜けば自分もああなる。


 その後の仕打ちがどのようなものであれ、愉快なことにならないのは明白だ。


 故に、ここで助けに駆け寄らなかったせいで、彼らがどうなろうと知ったことではない。何よりもまず、自分が生き残らなければ話にならないのだから。



「………」



 昧弥は腹の前で腕を組み、値踏みするような視線で教室全体を一瞥した。


 感情を見せない凪いだ視線が向けられた瞬間。その部分をなぞるように体の内を通り抜けていく、硬く冷たい、刃の感触。


 肉が裂かれ、骨が断たれ、臓腑が零れる。


 これは幻影などではない。自分たちがまだ人の形を保っていられているのは、彼女の気まぐれに過ぎない。


 生々しい死の手触りを感じながら、できるのはただ祈ることだけだった。


 ――少しでも早くこの地獄が終わるように……。


 だが、この場を支配するのは神ではない。

 故に――沈黙の終わりに希望などありはしなかった。



「……誰の許しでおもてを上げている」



 脳が意味を認識するより早く、意識のある者は一斉にこうべを垂れた。


 強制されたわけでも物的に押さえつけられたわけでもない。

 それは間違いなく、自らの意思による行動だった。



「ほう。畜生にすら劣る知能でも分をわきまえる程度のことはできるらしい」



 昧弥が僅かな感心を覗かせる。しかし、それに安堵を覚える命知らずはいない。


 視界に映るのは机の天板のみ。彼女がどんな表情でいるのか、窺い知ることはできない。しかし、その声にすら匂いたつような死臭が纏わりついていた。


 声そのものが不気味という訳ではない。むしろ、女性にしてはやや低い、鉄器を打ち合わせたような声音には聞く者を惹きつける魅力すらある。


 その不可思議な魅力に、思わずとも耳を傾けずにはいられない。しかしそれを耳にした瞬間、脳髄に手を突き込まれて掻き回されるような苦痛が襲ってくる。


 耳孔を直接地獄に繋げられ、怨霊どもの慟哭を吹き込まれているような、聞いているだけで気が狂う響き。


 今すぐ耳に指を突き入れて鼓膜を破れたのなら、どれだけ救いになるか……。

 明らかに矛盾した思考であろうと、この場にそれを疑う者は一人としていない。


 しかし、それでもなお聴かなければならない。

 あの人の形をした悪意が定める、自分たちの行末を――。


 首を差しだしまま震える亡者の群れに向けて、昧弥はおもむろに口を開いた。



「――私が貴様らに望むは服従のみ……他の一切は必要ない。それ以外を許すこともない。豚の糞にも劣る貴様らを私が上手く使ってやる。

 今この時より、貴様らは私の元で私が死ねと命じたときに――死ね」


 およそ、今この場で死ぬ運命さだめから逃れられたことが、幸運とは言えないだろう。

 むしろ、これからもこの汚濁の底で息をするような地獄が続くことを考えれば、今ここで終わっておくことこそ、最後の恩寵だった。


 ――ここに沙汰は下された。


 これより先、彼らがこの教室で心から笑う日は訪れないだろう。


 深海の奥底よりなお暗く、見えぬ圧に魂を磨り潰される日々こそ、彼らの日常となるのだから……。



「――ざけんなよ」



 しかし、人はその闇が深く濃いほど、光を求めて足掻くものだ。


 誰もが慟哭を飲み込み、沈黙の海に沈んでいこうとする最中。ガタンッと床に硬い物を叩きつける、けたたましい音が教室の中央から響いた。


 多くの生徒が顔を伏せたまま、横目でそちらに視線を向ける。


「なんでぽっと出のテメェの横暴につき合わなきゃなられねぇんだ!」


 ピアスに剃り込みの入った人工的な金髪。素行の悪さを隠そうなどという気遣いはなく、むしろ前面に押しだす気概に満ちた容姿。


 横倒しになった椅子を足蹴にしている、絵に描いたような不良の姿があった。



はテメェだろうがッ! そっちが合わせるのが筋ってもんだろ、あ゛ぁ!?」



 唾を撒き散らしながら声を震わせ、食ってかかる。しかし、その声の震えが怒り故にではなく、恐怖からくるものだと分からぬはずもない。


 顔は青ざめ、膝は笑い、机に手を着かなければ立っていることすら儘ならないだろう。見るからに滑稽な姿を、しかし誰も笑うことはなかった――むしろ、彼以上に怒りに震えていた。


 ――余計なことをッ!!


 それが真の希望であったなら、あるいは彼らの心境も違ったのかもしれない。しかし、そこにあるのはまぎれもない愚物だ。


 ここは聖典を片手に愛を説けるような、場所ではないのだ。


 普段から真面に講義にも出ず、カルマへの理解を深めようとしない者にどうすれば期待などかけられようか。


 蛮勇とすら言い難い、自殺行為、いや自爆テロ以外の何物でもなかった。


 巻き込まれる側からすればたまったものではない。

 そもそも普段は教室にいることさえ稀な奴が、なぜ今日に限って一限目前からここにいるのか……。これを運の悪さと片づけるには、失うものが大きすぎた。



「どんなカルマを持ってんのか知んねぇが、使えるのはテメェだけじゃねぇんだよぉ!」



 張り詰めた空気など気にも留めず、不良は理性を振り払うように叫声を上げる。同時に彼の周りで火花が散った。

 それは空気を吸い込むように肥大していき、ついには人の頭部ほどもある大きな火球を三つ作りだした。


 ――発火能力パイロキネシス


 種なくして火を生み、意によってこれを操る。


 最も古い超能力の一つとされており、発現例は中世以前にまで遡ることができるそれは、学園においてはこう呼ばれる。



 ――火のカルマ――業火アグニと。


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