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 花火の音が遠く、鈍く、ここまで届く。

 車列は相変わらず動かない。どこかに花火は上がっているはずだがビル群に阻まれて夜空にはそのわずかな痕跡さえ確かめられない。連続的に繰り出される炸裂音だけが、空虚に僕たちの鼓膜を震わせる。

 始まっちゃったね。

 彼女はささやくようにいう。その声音にはほとんど感情らしきものがこもっていなかった。淡々と、ただ事実のみを伝えている。

 間に合わなくてごめん、と僕はいう。彼女はちいさく笑った。先生のせいじゃないよ。まっすぐに手を伸ばし、透明ななにかを支えるようなポーズを取って続きをいった。わたしがいけないんだ。わたしが、拒まれているから。プラスティックで出来たわたしには、夏祭りも、花火も、みんな、過ぎたるものだったんだよ。

 だから君はプラスティックじゃない。

 僕は感情的に反発する。声を出したあと、そのトーンの強さに自分でも驚いたがなにか言葉を足して語調をやわらげるようなことはしなかった。彼女もすこし驚いたふうだった。でもすぐにまた冷笑的な表情を取り戻して静かにいった。それはね、先生。もっとちゃんとわたしのことを見ないからだよ。私の本質を知れば、知るほど、わたしのからだがプラスティックで出来ていることを理解できるようになる。

 そして彼女は小物入れから携帯電話を取り出し、ほそい指で画面を操作し始めた。彼女が携帯電話を持っていることは意外だったし、いままでの長い車中でも、一度もそれを取り出すことはなかったはずだ。どことなく落ち着かない気分でいる僕に、彼女は目を合わせて笑いかける。先生、目だよ。わたしの目をもっとよく見てよ。わたしの目が一番、プラスティックみたいだっていわれるんだよ。

 目? 僕はあわてて視線をそらす。そしてつぶやく。別に、そうは思わない。

 ちゃんと見ないから。

 ちゃんと見ているよ。僕はまた自然と語気を強め、そしてすこしだけ間を置いてから言葉を続ける。ちゃんと見ている。だから知っている。君の目はねこの目に似ているんだ。プラスティックなんかじゃない。

 ねこの目? 彼女は面白そうに繰り返す。わたしの目は、ねこの目に似ている?

 言葉に詰まって、僕はただちいさくうなずく。彼女の笑い声が届く。先生がわたしのこと、どんなふうに見ていたのか、なんとなくわかる気がするね。

 車列が動き出す。ゆっくりと、前進と一時的な停止を小刻みに繰り返しながらも風景がすこしずつ進んでいく。間近の建物が視界から消え、遠い案内標識がすこしだけ手前に引き寄せられる。やがて、前方の老朽化した雑居ビルの影から半かけの花火が唐突に顔を見せる。半円に並んだ光の粒が拡大して闇夜に散る。すこし遅れて音が届く。

 でもそれは一年前のわたしだよ。姿を見せた花火にはひと言も言及せず、彼女は話題を戻す。わたしの目がねこの目に似ていたとしても、それはこの町にいた一年前のことだよ。いまはもう違う。先生はまだいまのわたしの目をじっと覗き込んでいない。以前のわたしの姿を、頭のなかで思い浮かべているだけ。思い出のなかのわたしを見ているだけなんだ。先生がいま見ているのは、わたしじゃない。〈ねこの目の女の子〉なんだよ。

 反論を試みようと視線を向ける僕の眼前に、彼女は携帯電話の画面を突き出す。

 車の流れがふたたび止まる。僕は差し出された携帯電話を手に取り、その画面を見る。表示されているのはニュースサイトふうに粗雑に作られたまとめサイトのウェブページ。画面上部の記事タイトルに目を通す。〈またも中国、驚愕の食品偽装の実態! 密輸されたプラスティック米102袋が押収される!〉

 面白いよね。窓の向こうを見つめながら他人事のように蕾雨はいう。デンプンを整形するためにプラスティックを混ぜているんだって。びっくりだ。まさに可塑性というやつだね。なかなか精巧に出来ているみたいで、ぱっと見は区別がつかないらしいよ。もちろんからだにいいはすがない。こんなものを食べていたら、からだがプラスティックになっちゃうのも、無理はないよね。でも。

 蕾雨レイユゥ

 僕は大きな声を上げ、抑揚もなく繰り出される彼女の言葉を遮る。言葉は止まったが相変わらず蕾雨はそとを見つめたままだった。短い沈黙が下りた。いいしれない不快感を押し殺して、僕はいう。レイユゥ。君は本気でこんなくだらない記事を信じているわけじゃないんだろう? こんな記事がまるでデタラメだってことくらい、君にはわかっているはずだ。それが君流の皮肉であろうと、なんだろうと、そんないい方で気味が虚偽に加担するのは、僕には受け入れられない。やめてくれ。お願いだから、やめてくれ。

 虚偽かどうかなんて関係ない。蕾雨は素早くつぶやく。ちいさく息をつき、言葉を続ける。大事なのは、それを信じたいひとたちがいるということ。ねえ先生、それが多数派であればあっという間に浸透して、事実になる。真実なんて追い出される。だから問題は、わたしが多数派に入り込めなかったこと。排除される側にしかなれなかったこと。それだけのことなんだ。ねえ先生、わたし別に強くはないんだよ。そのことを先生はよく忘れる。わたしになにかを期待するのは間違っている。排除されて、拒まれて、祝福されず、どこにも居場所がなくて孤立する。それがわたしなんだよ。

 僕がなにか口を開こうとした瞬間、蕾雨はさらに致命的なひと言を加える。先生、わたし、来月には大連に引っ越すんだよ。だから先生とはきょうでお別れなんだ。

 突然のその知らせに、言葉を失い彼女の横顔をただ見つめる。そんな僕に対し、蕾雨は口の端につめたい笑みさえ浮かべて淡々としゃべり続ける。親の仕事の関係、ってやつだね。きゅうに決まって、夏休みが終わらないうちにもう出発。準備なんて全然出来ていないよ、わたしは日本語しかしゃべれないのにね。你好、謝謝? それくらい。ああ、でも、食糧事情については予習しているよ。プラスティック米に気をつけろ。でもまあ、プラスティックのからだには関係ないか。

 レイユゥ!

 だからわたしをもっとよく見て。蕾雨は助手席から身を乗り出して僕のすぐ間近まで顔を寄せる。先生、わたしをもっとちゃんと見て。いまのわたしをちゃんと見て。わたしの目はほんとうにねこに似ているの? いまもそうなの? 想像のなかだけじゃなく、幻想のなかだけじゃなく、ちゃんと目のまえのわたしのことを見て。プラスティックに似ていないのか、どうか、自分の目で確かめて。わたしが欲しいのはなぐさめなんかじゃなくて、真実なんだ。先生がわたしに提示してくれる真実なんだよ。

 蕾雨の顔はすぐ間近にあった。まっすぐに僕の横顔を見つめていた。

 僕は長く息を吐いた。肺のなかのものを、全部そとに出してしまうかのように。そしてゆっくりと顔を向ける。摩滅された花火の音が遠く連続的に響き始めた。僕は短く息を吸い、まるで深淵でも覗き込むように眼前にある蕾雨の双眸を見つめた。吸い込まれるようなその瞳に、なにかを探り当てたいと僕は思った。真実を。いまここにいる彼女のなにかを。そして。

 そしてひやりと湿った感触が唐突にくちびるに触れる。

 なにが起こったかを理解したときには、蕾雨の顔はもう離れていた。ひっかかった。蕾雨は真顔でそういった。僕は思った。プラスティックだ。この目はまるでプラスティックで出来ているみたいだ。それは不快な想起ではなかったし、人間味の欠如を意味してもいなかった。蕾雨の目はただプラスティックに似ているだけでそれがなにかを暗示しているわけではなかった。もちろん僕は、その発見を伝えるつもりはなかった。そんな余裕さえなく、ただひたすら、あの一瞬に触れたものの感触をただ思い起こすだけだった。表情を変えずに蕾雨は尋ねた。どう、先生。プラスティックの味はした?

 プラスティックの味はしなかった、と僕は呆然とした顔のままつぶやいた。視界の先に花火は次々と打ち上げられる。蕾雨はちいさく笑いだした。小刻みな振動は、でもやがて別の種類の痙攣へと変わる。ちいさなその肩は、感情的に細かく震え始める。

 最高潮に達した花火は夜空のごく限られた一角を鮮やかに幾重にも塗り固めていた。遠い音、遠い光の連続。きっとすぐ間近では目も眩むほどの明るさなのだろう。声も聞こえなくなるほどの轟音なのだろう。そんな烈しさは、ここには届かない。

 だから僕の声はまっすぐ届く。なにかにかき消されたりはしない。

 僕は静かに口を開いた。




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プラスティックアイ あかいかわ @akaikawa

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