昔に戻れるのなら(タイム・マシーン)

 ここまで全力を振り絞ったスプリントはいつ以来だろう。

 少なくとも、学連レースではゴール後にまったく体が動かせないなんていう経験をしたことはなかった。

 今は本当に指一本も動かせなかった。富士山五合目駐車場の冷たいアスファルトが心地よい。


 ――とはいえ、周囲の気温は一桁台だ。

 このまま倒れていると体が冷えてしまう、と思いはするのだが、息を整えるだけで精いっぱいだった。


 僕の様子を見かねた大会医療スタッフが駆け寄ってきて、肩を貸して立たせてくれた。なんとか自立できたものの、両脚がガクガクと痙攣していた。

 レース出走前に預けていた防寒着を受け取って着込み、駐車場に設営されていた待機テントの中に転がり込む。


 テントの中は暖房が効いていて暖かった。

 そして先客が居た。二位でゴールしたニシキだった。


(気まずいこと、この上ないな)


 宣戦布告どおりやっつけることには成功したので、できることならもう関わり合いは持ちたくない相手だった。

 ただ、テントの外は寒い。


「座ったらどうだ」


 逡巡していたら、ニシキの方から話しかけてきた。仕方がないので少し離れた位置のパイプ椅子に腰掛ける。

 無言で時間が流れる。

 ひとまず、大会スタッフの方から受け取ったホットココアをすすった。下山して表彰式が終わったら、麺のコシが強いことで有名な富士吉田市の名物、吉田うどんが振る舞われる予定らしい。それは楽しみだった。


「なにを考えてるんだ、お前は」


 僕がなにも話そうとしないので、ニシキがまた口を開いた。吉田うどんのことを考えていた、とは言えず、しばし考え込む。

 現実社会では悪人をやっつけたとしても、その悪人と世間話をしなければならないシチュエーションがあるらしい。それは知らなかった。

 が、そんなのんきな雰囲気は次のニシキの発言で吹き飛んだ。


「満足か? 市民レースごときで優勝して」


 ――さすがに聞き捨てならないセリフだった。ホットココアを飲む手を止める。


「市民レースなんてのは、俺みたいなちょっと練習した程度の選手でも、薬物を使って簡単に勝ててしまうようなレースなんだよ。くだらねえ、低レベルな、クソレースだ」


 へらへら、といった感じの捨て鉢な笑いを浮かべながら、市民レースを罵るニシキ。

 それが負け惜しみであることはよくわかる。だが、そのニシキ自身が、ついさっきまで全身全霊で走っていたレースじゃないか。

 そのレースに対してこの発言は、もはや怒りを通りこした感情しか湧いてこなかった。


「ニシキさん――哀れですね、あんた」


 僕の呟きに、ニシキの顔色が変わった。構わず続ける。


「自分で自分を褒めることができない人なんですね。だから市民レースを荒らしまわって、市民レース界にすごい選手が現れたぞって、他人から褒めてもらわないと気が済まなかったんだ」


 今度はニシキの動きが止まる番だった。僕の言葉は痛いところを突いたらしい。


「僕は一年前にあんたに負けて良かったと思う。負けたレースからも、たくさんのものが得られたからです。友人や仲間、期待に応える覚悟、薬物を使わずに戦う決意――」


 僕は椅子から立ち上がった。


「あんたは今日、なにも得られなかったんですか? ニシキさん」


 背を向ける。

 そのままテントから出ようとしたところで、後ろから嗚咽を漏らす声が聞こえてきた。


「俺だって――俺だってなあ」


 ちらり、とニシキの方を後目に見る。大粒の涙をぼろぼろとこぼしていた。


「昔に戻れるのなら――薬物なんて使わずに、大学卒業後もプロを目指して――」


 それ以上、僕から彼にかける言葉は無かった。

 外は寒かったけど、我慢してテントを出る。



 ちょうど、後続の選手たちがゴールし始める時間帯だったらしい。

 四位でゴールしたヒカゲさんは膝の調子が悪化したらしく、三位のマダラさんに肩を借りて立っていた。


「よぉシロウちゃーん、やったらしいじゃねえか」


 相変わらずヒカゲさんの口調は明るくて安心する。


「よくやったな、深山。誇りに思うぞ」


 マダラさんにそう言ってもらえることは、本当に光栄に思う。


「ありがとうございます。皆のおかげで、最初にゴールすることができました」


 深々と一礼。

 ヒカゲさんとマダラさんは声をあげて笑っている。


 ――ふと思いついたことがあり、僕は二人に訊ねてみることにした。


「ところで、市民レースの表彰式ってどんな感じなんですか?」

「ありゃ? ひょっとしてシロウちゃん、市民レースで優勝するの初めてか」


 僕はうなずいた。いくつものレースで優勝したことがあるヒカゲさんやマダラさんとは、だいぶ感覚が違うみたいだ。


「ヨーロッパの自転車レースみたいに、シャンパンかけはしない」

「いや、そりゃ流石にシロウちゃんも知ってるだろ、マダラ」


 マダラさんの真面目な返答に呆れるヒカゲさん。


「まぁ、シロウちゃんの実力ならこれからもいろんなレースで表彰台に上がれると思うぜ。それとも、学連レースに戻って専念するかい?」

「両方、出場し続けようと思っています」


 ヒカゲさんのその問いに、僕は笑顔で答えた。


「市民レースが、大好きですから」



(完)

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ロール・オーバー・ドーパーズ! 姫野西鶴 @saikaku_alone

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