冷水を浴びせてやれ(ファイヤー・ハイドラント)

 神奈川県の津久井湖を過ぎて、レースの先頭集団は国道413号線――通称『道志みち』に入る。

 富士五湖のひとつ、山中湖へのドライブルートとして有名なこの道路は、自転車で走ると凶悪なトレーニングコースに姿を変える。なにしろ、神奈川県側から山梨県側へ走る場合、約50㎞の旅程のほとんどが登り坂になるのだ。

 山中湖に抜ける峠である山伏峠を除くと、斜度がきつい登りはそれほど多くないが、稲城で経験したようなアップダウンが延々と続く形になる。自転車乗りの中にも、短くて急な坂より長く緩やかな坂を苦手とする人は多い。


 自然、先頭集団は少しずつそのサイズを小さくしていった。

 道志みちの長い長い登り坂にもかかわらず、レースが中盤に入ったことでペースが上がり、集団の速度についていけない選手が脱落しはじめたのだ。

 神奈川県にいたころは100人近くいた先頭集団は、道志みちの半分を過ぎるまでに30人前後の集団となっていた。


「シロウちゃん、調子はどうだい」


 ヒカゲさんは日本でも有数のヒルクライマーであるだけに、この程度の登り坂は苦にもならないようだった。白筋トモエとのアタック合戦を終えて消耗した体力を回復しつつある。


「大丈夫です、伊豆で登りはみっちり鍛えられましたから」


 僕も笑顔を浮かべて返す。

 これは虚勢でなく本心だ。学連レースでスプリンターとして走っていたころは登りが苦手だったけど、ヒカゲさんとマダラさんとのチーム練習は、僕の苦手克服に大きく貢献してくれていた。


「深山のスプリント力は作戦Cで重要になる。今は体力温存につとめてくれ、140kmは長いからな」


 事前に打ち合わせた三段構えの作戦の最終段階について話すマダラさん。僕もそのことはよくわかっているので、うなずきを返す。

 僕の調子に問題が無いことを確認して、ヒカゲさんとマダラさんは相談を続けた。


「じゃあ、そろそろ作戦Bに行くかい、マダラ?」

「任せておけ、山伏峠で仕掛ける」


 ドライブルートの休憩地点である道の駅を過ぎると、道志みちの登り坂はじわじわと厳しさを増していった。先頭集団の中にも、サドルから立ち上がってダンシングをする選手がちらほらといる。


 僕は後ろを振り返って『チームDTA』の様子を探った。

 白筋トモエが脱落し、ニシキとカズトの二人になったものの、動揺する気配はなかった。特にニシキの鉄面皮ぶりには、背筋に寒気すら覚えるほどだ。


(山伏峠まで6㎞――)


 道路標識を読む。マダラさんが口にしていた、レース中盤の勝負所だ。

 マダラさんも同じことを思ったらしく、静かにペースアップを開始する。序盤と同じように、巧みに他の選手をかわして集団の前方へ上がっていった。

 周囲の選手にはマダラさんのアタックに気づかない人も多かったが、僕らをマークしている『チームDTA』はそうではなかった。


「峠道でアタックすればタイム差が稼げるってか? ありきたりな手だな、オイ」


 紅下カズトがマダラさんを追った。

 筋骨隆々の大男が勢いよくペダルを踏み込むと、周囲の選手になんとも言いがたい『圧』がかかる。迫力があって、道を開けないと体当たりをくらわされそうな雰囲気があるのだ。

 自転車を操るテクニックで前方へ出たマダラさんとは対照的に、パワーで道をこじ開けて進むカズト。その動きはさすがに他の多くの選手たちの目にとまり、集団の動きが活性化した。

 マダラさんとカズトを先頭に、山伏峠に向けて、脚力を温存していた選手たちが飛び出していく。

 『パニアグア』では僕とヒカゲさん、『DTA』ではニシキが集団の中に残っている。


「よぉ薩摩ニシキ、あのカズトってやつ、筋トレとプロテインだけであのデカい筋肉を作ったわけじゃないんだろ?」


 ヒカゲさんはそう言ってニシキに呼びかけた。ニシキは鼻で笑っている。


「トレーニングで作った筋肉だよ」

「んー、まあ周囲に聞かれてもいいか? 単刀直入に言うけどよ」


 ヒカゲさんの声に怒りがこもった。


「ステロイド使ってるだろ?」


 筋肉増強剤として使われる有名なホルモンの名前を、ヒカゲさんは口にした。

 ニシキは無言のままだ。


「過去のデータを見ると、紅下カズトは『DTA』に参加してから10kg近く体重が増えている。それも体脂肪じゃなく、筋肉で体重が増えている。ある程度レベルの高いアスリートが一年で10kg筋肉を獲得ゲインするっていうこと、これがおかしくないとは言わせねえぞ」


 しっかりトレーニングをして適切な栄養と休養をとったとしても、アスリートが一年間で増やすことのできる筋肉量はせいぜい体重の10%程度だと言われる。

 人間の肉体はトレーニングに順応してしまうので、まったくのトレーニング初心者ならこの割合を超えて筋肥大することも可能だが、市民レースで上位に入賞するようなアスリートの場合、筋肉のゲイン量はさらに少なくなるのが普通だ。


 しかし、このゲイン量を飛躍的に増やす方法がある――それがステロイドだ。

 体内の筋肉生産を促すこの薬物を摂取すると、同じトレーニングをしていても圧倒的に多くの筋肉のゲインが可能になる。

 ボディビル業界では特にこの薬物の汚染が深刻で、ステロイドを摂取しているビルダーと摂取していないビルダーでは、まるで体の大きさが変わってきてしまうことが知られている。

 そして悲しいことに、筋肉を大きくし、より強いパワーを発揮する誘惑にかられてステロイドに手を出してしまう人は、自転車選手の中にも少なくなかった。


「ステロイドによる筋肥大促進は一時的なものだ。そのうちステロイドなしじゃ筋肉を維持できなくなって、薬物に依存する。お前は薬物依存のリスクをわかったうえで、チームメイトにステロイドを使わせてんのか?」


 この人は本当に医師なんだな、と僕は思った。

 ヒカゲさんの怒りは、敵対しているチームのメンバーでありながら、カズトの健康を心配しての怒りだった。

 しかし、ニシキは口元にわずかな笑みを浮かべたままだ。


「依存しないように、本人が気をつけて微量で使用すればいいだけだ」

「てめえ――」

「前にも言っただろう? 自分の運動能力を高めるために、利用できるものはなんでも利用すればいい。メリットもデメリットも使う本人が判断すべきだ」


 ニシキのその言葉は、伊豆で会った時に語っていた内容と同じだった。ニシキの思想は徹頭徹尾『自己責任でタブー無視』という考えで一貫している。

 ヒカゲさんの考えはそれと真っ向から対立するものだ。


「薬物依存のリスクを軽く考えすぎじゃねぇのか。自己責任論で片付けられるほど、人ひとりの人生は安くねぇぞ」

「リスクがあっても筋肉が欲しいなら薬物を使うべきだ」


 迷いなくきっぱりと言い放つニシキ。


「薬物を使おうが使うまいが、どうせ同じくらい苦しいトレーニングをこなさなければいけないんだ。だったらトレーニングの効果が最大限出る方を選ぶのが合理的な判断だろう? 少なくともカズトはそう考えた」


 これは、ドーピングに手を染めた人がよく口にする言い訳だった。

 トレーニングは苦しい。レースも苦しい。アスリートの人生は苦しいことばかりだ。

 ドーピングはそうした苦しみを楽にしてくれるものではない。ただ「苦しくても耐える」ことができるようにするだけだ、と。だから「苦しくても耐える」というスポーツの美点は損なわれていないのだ――と。

 ニシキが「カズトの筋肉はトレーニングで作ったものだ」と言うのは、こういう考えに由来するのだろう。

 しかし。


「クソ喰らえだな」


 これは僕の発言。

 ニシキとヒカゲさんが同時にこちらを見た。


「どうせ同じくらい苦しいなら、僕は自分で納得できるほうを選ぶ。トレーニングの効果を最大限に得るためには仕方ないんだとか、レースに勝つためにはその方が合理的なんだとか、言い訳を自分以外に求めてばかりじゃないか。カッコ悪い」


 ドーピングを『悪』として拒否する僕の精神は、結局ここをスタート地点としていた。努力に言い訳をつける生き方がカッコ悪い。


「よく言った、シロウちゃん」


 マダラさんが声をあげて大笑いしている。

 ニシキは仏頂面で、僕たちの考えとはあくまで平行線のままだった。


「好きに言え。カッコ悪かろうがなんだろうが、勝たなければなにも得られない世界がレースというものだ」


 僕たちとの会話を切り上げ、前方に向き直るニシキ。

 その視線の先を追うと、山伏峠でアタック合戦を繰り広げているマダラさんとカズトの姿があった。


「どうしたぁ、『最強市民レーサー』さんよ。もう息切れしてるようじゃ、筋肉が足りてないんじゃないか」


 カズトがマダラさんの背後に張り付き、アタックを阻止した。

 背後の位置をとられたまま加速を続けるのは、ライバルに無償で風よけを提供してしまうことに等しい。この状態になったら一度アタックを諦めて集団に戻るのが通常の判断だ。

 が、マダラさんはそれに構わずペダルを回し続ける。


「ゴテゴテと筋肉をつけるのは嫌いなんだ。俺は本業がスポーツインストラクターなんでね、ステロイドで作った筋肉は美しくないと思っている」

「なんだ、ジムの先生なのかよ」


 ふん、と鼻を鳴らすカズト。


「だったらよく知ってるだろ。筋肉量の少ないやつは、筋肉量の多いやつには敵わないってことをな!」


 猛然とペダルを踏み込み始める。

 大柄な肉体の全重量をダンシングでペダルに伝えることで、急加速してマダラさんを置き去りにしてみせた。

 数メートルのギャップを生んだところで脚を止め、ニヤニヤと笑って待ち受けている。


「どうだ、この加速力。俺は『DTA』に入ってから圧倒的な量の筋肉をゲインし、以前とは比べ物にならないパワーとスピードが出せるようになった」


 勝ち誇るカズトに対して、マダラさんは淡々と一定のペースで峠道を進む。


「だからどうした?」

「あんたは仕事とトレーニングを両立するためにストイックな生活を送ってるんだってな? 朝起きてトレーニング、仕事に行って毎日同じメニューの食事で栄養補給、帰ってきてまたトレーニング。ご苦労なことだぜ」


 カズトは大げさな身振りで呆れた様子を伝えている。


「あんたの年齢じゃ、それだけ頑張ってもパフォーマンスの維持が精一杯だろ? かわいそうだなあ、俺は去年と比べてこんなに成長できたってのによ」


 それは見えすいた挑発ではあったが、加齢の影響というのは、アスリートにとって無視できない要素であるのは確かだ。

 同じように努力しても、若くて初心者であればあるほどフィジカルは成長しやすい。自転車競技は比較的スポーツ選手の現役寿命が長いほうではあるが、それでも多くのプロ選手が三十代後半を迎える前に引退していく。市民レーサーでも四十歳を越えて活躍し続ける人は稀な存在だ。


 だが、スポーツインストラクターであるマダラさんにとっては、そんなことは百も承知であるらしい。


「お前は『成長』ということを頭から勘違いしているようだな、筋肉ダルマ。パワーの大きさなど、自転車競技の一要素に過ぎない」

「お前はそのパワーにねじ伏せられているだろうが!」


 二人は筋肉に対する考え方が正反対のまま、山伏峠のピークへと差し掛かった。

 位置関係は変わらず、マダラさんの背後にカズトが張りつく形だ。

 マダラさんはそれでもアタックをやめなかった。二人の間に少し差が生まれようとするたびに、カズトが距離を詰めることの繰り返しが続く。


「往生際の悪いやつだな! このままゴールまで行くつもりかよ?」

「それは無理だな」


 山伏峠を登りきったところで、マダラさんは後ろを振り返って不敵に笑う。


「お前がついてこれないからな」

「減らず口を!」


 二人はそのまま山中湖への下りに突入した。

 50km以上かけて登ってきた道のりが、ここで急な下り坂に変わる。神奈川県側の斜面が緩やかなのに対し、山中湖側はきつい斜面で、自転車の速度が一気に上がっていった。

 マダラさんは下り坂でもペダルを回す脚を止めない。空気抵抗を減らすためにハンドルの下部を持ち、低い前傾姿勢を保っている。

 カズトがそれに続く。

 レース先頭を走る二人の速度は、時速70kmに達しようかというほどになっていた。


「――うおっ」


 カズトは小さく声を上げた。自転車の速度が上がり過ぎていて、路面のわずかな凹凸でハンドルが取られそうになる。

 さらに、峠道らしい急カーブの連続。

 自転車を傾けるとタイヤがグリップを失いそうになった。

 安定したフォームで下り坂を加速しながら走るマダラさんとはあまりにも対照的で、二人の距離はどんどん開いていった。


「この野郎、待ちやが――」


 距離が離されたことに焦ったカズトは、加速しようとしてミスを犯した。

 路面への注意不足。

 カーブのアウト側にたまった路上のゴミの中には、鋭くとがったガラス片なども含まれている。注意深い自転車乗りならその上を走ることはしない――しかし時速70kmでの走行中では、その存在に気づくことは難しかっただろう。


「なにっ――」


 前輪の空気が一瞬で抜け、横滑りを始める。

 パンクだ。

 コーナーを曲がっている途中なのに、本能的にブレーキをかけてしまう。


 後ろから見ていても鮮やかなほど、前輪を起点にして綺麗に一回転したカズトの大きな身体は、山中湖の斜面に広がる草原地帯に投げ出された。


「落車発生!」


 先頭集団の選手たちが自主的に注意喚起のかけ声を上げた。路上に転がったカズトの自転車に乗り上げないよう、ハンドサインでも呼びかけがなされている。

 その横を通過しながら、僕は倒れたカズトの方を見やった。

 この周辺の柔らかい土の上でなら大怪我はしないだろう、というマダラさんの見込みどおり、カズトはすでに上半身を起こしていた。自分になにが起こったのかを把握しようとしているようだ。

 怪我はしなかったとしても、彼の自転車は前輪がパンクしているうえに、転倒したときの衝撃でフロントフォークが歪んでいる。このレースへの復帰はもう不可能だろう。


肉体フィジカルの強化だけが成長ではない。自転車を乗りこなす技術スキルを磨くことも、それ以上に重要な成長だ」


 下り坂が緩やかになり、山中湖畔に出るT字路でスピードを落として集団に戻ってきたマダラさんを、僕とヒカゲさんはガッツポーズで迎えた。

 マダラさんは軽く片手をあげて答えながら、ニシキに向かって言い放つ。


「ニシキ、お前はチームメイトにもっと自転車スキルを教えておくべきだったな」


 トモエに続き、カズトもレースから脱落し、『チームDTA』はニシキただ一人になった。快進撃を続けていた『チームDTA』の燃え盛る炎に消火器ハイドラントを浴びせかけることに成功したと言っていいだろう。


 しかし――ある程度予想できていたことだが、やはりニシキに動揺は見られなかった。


「あいつはパワートレーニングばかりに夢中で、ハンドリングやブレーキングはちっとも練習しなかったからな。自分が安全に走れる速度の限界すらわからないでレースに出ていたのだから、自業自得だろう」


 その口調は冷たかった。ヒカゲさんが憤然として食ってかかる。


「おいてめぇ、チームメイトの心配もしねぇのかよ」

「これも前に言っただろう? トモエもカズトも、ただのペースメーカーだと」


 美しい山中湖畔の光景とはうらはらに、サングラスの奥のニシキの目にはドス黒い光が宿っていた。


「俺のチーム名はDon’t Trust Anybody誰も信じるなの頭文字からとっている。俺は俺以外を信じていない――誰一人な」


 まったく衰えていない気迫と闘志。

 そのニシキの様子を見て、『ツール・ド・日本一』の激闘はこれから始まるのだ、という予感を感じずにはいられなかった。

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