(8)恋のための約束

「一回、があが住んでる部屋、行ってみたい」


 そう言うと、彼は案外あっさりオッケーして俺をN大生御用達の学生マンションに招待してくれた。

 そこは俺のアパートに比べると大きくて立派な建物で、どことなく実家の閑静な住宅街の雰囲気と似ていた。

 があの部屋は、三階。中に案内されると、そこは俺の部屋よりも面積が狭くて……部屋のサイズのわりに歩けるスペースも狭かった。


「があ、散らかしすぎ」

「え? あー、うん。カズはわかってると思うけど、おれ整理整頓苦手だから……」


 床に授業で使っているらしい六法全書やドイツ語の教科書、講義で配られたっぽいプリント、洗濯した後なのか脱いだ後なのかわからない服なんかが散乱していた。

 はあ、とため息を吐く。何かを期待したような目が、俺の目とかち合う。


「一緒に片づけよっか」

「助かる!」


 あわよくば片づけるのを手伝ってもらおうと思っていたのだろう。があは本当は掃除が苦手ってわけではないんだけど。おそらく、掃除に取りかかるやる気を出すのが苦手なだけ。一度やり始めたら、仕事は早いのだ。

 二人で物をあるべき場所に戻し、軽く掃除もすればあっという間に綺麗になった。


「喉乾いたー。カズ、なんか飲む?」


 があが冷蔵庫を開けるのを背後からのぞき込むと、水とかコーラとかと一緒に缶チューハイが入っていた。


「お酒!」

「は? えええ? 昼間から飲む?」

「あっ、ごめん……水をください」


 つい自由にふるまってしまった。だめだめ、ここはがあの家。主を困らせすぎてはいけない。

 反省していると、があは苦笑しつつも缶をこちらに渡してくれた。


「別にいーよ、はい。確かこれ、カズがジュースみたいで好きって言ってたやつだっけか。だったらジュース飲めよっつー話だけど」

「限りなく似てるけど同じじゃないんだよ。赤ワインはぶどうジュースじゃないし、カシスオレンジはオレンジジュースじゃないし、カルーアミルクはコーヒー牛乳じゃないんだよ」

「当たり前のことを偉そうに言うな」


 俺もがあも、ジュースみたいなアルコール飲料が大好きで、カクテルとかサワーとか、そんなものばかり飲んでいる。一度お互いの母親二人に「女の子みたい」と言われたけど、男が飲んではいけない決まりはない。

 缶を開けて一口飲んだところで、どうせ酒盛りするなら何か食べたいぞという話になる。があが牛丼を二人分作ってくれた。正確には、冷凍の牛丼の具とパックの白ごはんをレンジで温めて器に盛ってくれた。吉が付く有名店の冷凍食品、普通においしい。ほかほかの肉と米と甘いアルコール飲料。舌が喜んでる。

 俺もがあも、お酒に弱いわけではない。強くもないけど。とにかく缶ひとつあけただけで潰れたりはしない。

 でも、お腹が満たされたからか多少は酔いが回ったからか、お昼寝にちょうど良い昼下がりの時間帯だからか、それが全部重なった結果なのか。気が付いたら寝ていた。

 床に寝そべってふわふわとした意識で目を閉じていると、身体に何か肌触りの良い毛布みたいなものがかけられる感覚がした。それをかけてくれた人の気配を感じ取りながら、意識が遠くなっていく。

 最近、昼間からよく寝ている気がする。しかも床で。だって気候が睡眠にちょうど良いから。床なのは、単に俺がどこでも眠れるタイプってだけだけど。

 春眠暁を覚えず。ふいに高校の現国の授業で聞いたことがあるような言葉が頭に浮かぶ。

 でもあれは、春の夜のことを言ってるんだったっけ。じゃあ昼に寝ている自分にはそんなに関係ないか……。




 目が覚めると、本当に夜になっていた。横になっていた身体を起こす。肩にかかっていた毛布がはらりと落ちた。

 薄暗い部屋を見渡すと、があはベッドの上で寝ていた。起こすか迷って、やめる。

 なんとなく、このマンションのことがもっと知りたくなった俺は、一人で部屋の外に出た。

 廊下は照明がついていて眩しい。てくてくとエレベータのほうへ歩く。あまりにも静かで、自分の靴の裏が歩くたびに擦れる音だけが耳に響いていた。

 エレベータの横に階段がある。どっちか迷ってエレベーターのボタンを押した。

 ちんと音が鳴って開いたドアの向こうには先客が一人。最近流行りの韓流っぽいイメージのメイクと髪型をした、女の人だ。ファッションも含めて全体的にあか抜けた雰囲気の、いかにも都会の女子大生っぽい人。

 俺が乗るとドアが閉まる。屋上のボタンを押してみた。すーっとエレベーターが上昇していく。

 急にスマホの着信音がした。女の人が、バッグからスマホを取り出す。


「はーい。え、うん。ほんまに? いや何言うてんの、マヨネーズに決まっとるやん! ケチャップとか絶対あかんヤツやで!」


 エレベーターが八階で止まる。女の人は通話したままエレベーターを降りていった。気取った見た目から先入観を抱いていたけれど、マヨネーズとかケチャップとか言っているのを聞くと少し親しみがわく。ばりばり関西弁だったのも手伝って、急に身近な印象になった。

 屋上でまた、エレベーターが空く。誰もいないそこに降り立って深呼吸をした。

 適度に冷たい空気が肺に入り込む。気持ち良い。

十二階建てのマンションの屋上。フェンスに近寄って見下ろすと、思いのほか地面が遠い。そういえば、こんな高い場所は滅多に来ない。自分のアパートは五階までしかないし、屋上は閉まっている。実家だって二階建て一軒家。空に浮かぶ月が近い。変な感じだ。

 カメラアプリで半月以上満月未満の月を撮る。ユキさんに宛ててその写真を送ってみたら、すぐに「?」と返信が来て、電話までかかってきた。


『山ちゃん? この写真なに?』

「空に近づいた記念写真です」

『ちょっとよくわからんけど……てかなんで俺に送って来た?』

「メッセージアプリ開いたら、一番上にユキさんの名前があったので」

『どうせなら崎元くんに送ればいいのに。写真専門だし』

「や、アドバイスが欲しいわけでもないので。……ねえ、ユキさんって、婚約してるじゃないですか」

『え? してるけど』

「プロポーズ、なんて言いました?」

『えー? 将来について長々と話し合っているうちに会話の流れで言ったから、説明しようと思うと難しいんだけど。そんな一言でスパッとしたドラマみたいなキメ台詞とかは言ってない』

「じゃあその婚約者さんと付き合うときは? なんて告白しました?」

『俺、してない。向こうから告られた』

「ユキさんの役立たず……」

『はあ? 何お前。告白すんの? 頑張れよー』


 無責任な激励とともに、ユキさんは通話を切った。

 それから少しだけ、フェンスにもたれて考えごとをしていた。考えがまとまったからそろそろ戻ろう。そう思った瞬間。視界の端でエレベーターのドアが開くのが見えた。


「いた! カズ!」


 があが、血相を変えてエレベーターからこっちに走って来た。


「起きたらいなかったからびっくりした! どこ行ったかと思った!」

「ごめんごめん。でもそんな慌てなくても俺子どもじゃないし」

「でもだって、カバンあるのに上着はないし、どこ行ったかと思ったんだよ……」


 俺じゃなくて、があのほうが子どものようにしゅんとしてそう言った。迷子になった子どもが家族と無事合流できて安堵しているような。


「こんなとこで何してたんだよ」

「マンション探検。があ、いい物件見つけたね」

「まあな。アオイが先に住んでて紹介してもらった。大学にも超近いし、寝坊できる」


 があは、俺と同じようにフェンスにもたれて無邪気に笑った。久々の屈託のない笑顔に見惚れる。

 があが俺の部屋を出ていってから見ていなかった、心の底から気の抜けた表情。再会してから俺は気まずさを感じることもなくなったけれど、まだどこか遠慮させているところがあったのかもしれない。


「ここはきっと、があにとって本当のホームになるね」

「カズにとってはアウェイ?」

「住んだらホームになるかもね」


 ちょっと困った顔をされたから、慌てて「住まないよ」と付け足した。

 実際、住めばホームになると思う。俺は案外、があほど繊細ではない。ここを訪れた数時間前こそ緊張していたけど、もうすでにこの場所に親しみを覚え始めている。さっきの関西弁の女性に遭遇してから、一気にリラックスした気分になった。でも、俺はあのアパートに帰る。

 一緒に住むとか、そういう前と同じようなことをして、またぐちゃぐちゃになりたくない。そんながあの不安がびりびりと伝わってくるから。


「カズ、ピアノが置ける部屋じゃないと無理だもんなあ」

「そうだね。ここ、大きさ的に入らないかも。あと騒音クレーム来る」

「だな。あ、でも知ってる? ペット可なんだぜ」

「そうなんだ? 飼うの?」

「飼わねえよ。世話できる自信ねーもん」


 おれはおれのことだけで精一杯。があが呟く。それから少しのあいだ、どちらも沈黙していた。近くの道路を自動車が走り抜ける音が聞こえる。それ以外はただただ静かな、三月の夜。

 俺は心を決めて、唇を一度舐めてから隣を見た。


「俺、があに言いたいことがある」

「……なに」

「次……の秋くらいに、留学行くと思う」

「へー。どこ?」

「イギリス。一年くらい。向こうの音楽学校の推薦もらった」


 すげー、とがあが言う。すごいでしょ、とおどけて言い返す。


「ピアノ、好きだから。頑張って来る」

「うん。応援してる」

「ありがと。……でも俺、ごめん。欲張りだから、があも好き」

「……」


 その場の空気が張り詰める感覚がした。さっき舐めた唇が、もう乾いている。


「があがまだ俺のこと好きでいてくれるんなら、恋人になりたい。俺と付き合ってほしい」


 口の中も、からからだった。それでも言い切ると、があは迷うように俺から目をそらした。

 正直、いいよと言われるのかふられるのか見当がついていなかったけど、これはふられるのかもしれない。


「カズ」

「うん」

「おれも、カズが、好きだけど。前みたいになるのが怖い。カズがピアノやってるのが悪いんじゃないんだよ。なんかこう、同じ場所で一緒に生活してるはずなのに、カズだけ急に有名になったから、知ってるのに知らない人みたいに見えて、イライラして。そんなことでイラついてもしょうがないの、わかってんだよ。おれとカズは違う人間だし、お互いについて知らないことがあるのは当たり前だし。おれが音楽のことわかんないみたいに、カズはおれがやってたサッカーとか、おれが専攻してる法学とか、詳しくないって」


 言いたいことは、わかる。なんだかんだでずっと隣で育ってきたから、お互いに相手のことをすべてわかっている気になりがちだけど、そんなわけがないのだ。それをたまにふと、思い知らされる。

 があが初めて髪を染めた日。俺の知らないがあの友人関係の影響で彼がそんな行動をしたことに、寂しくなった。

 俺がピアノのコンクールの日。があもサッカーの試合で、お互いが打ち込んでいるものが違うことに、戸惑った。

 一緒にいるのにどうして同じになれないのか。どうしてすべてを共有できないのか。無意識に、ずっと、そんな不可能でバカみたいな疑問を抱いていた。

 一つ一つが些細なことだったからやり過ごすことができたのに。秋以降、一時的に俺はがあの幼なじみじゃなくて、ピアニストだとか音大生だとかの顔でいなきゃいけない時間が増えたから。本当に急激にそうなったから。があは疑問の綻びを繕いきれなかったんだと思う。


「最近、やっと落ち着いてきた気がするんだ。一緒にいる時間も減ったし、知らないことやわからないことがあるのは当たり前だってやっと思えるようになったっていうか。友だちってのはそういうもんかって。でもそれ、カズは友だちって言い聞かせてるから。恋人とか……おれとカズだけの特別な関係を作ったら、なんかまた、イライラが暴走しそうで怖い」

「……があ」

「怖い。どうしたらおれたちは、上手くやれる?」


 どうしたら。今までみたいな近すぎる距離にいるのは良くない。きっとまた駄目になる。俺たちは他人であることを自覚しなければいけない。今のように。友人でいたいなら今のままでいい。

 だけど恋人として上手くやるには、どうすれば。そんなのわからない。

 空を仰ぐと、相変わらず半月以上満月未満の月が俺たちを見下ろしている。さっき写真を撮ったときと同じように。


 遠距離恋愛で関係が壊れかけたという、ユキさんのことを思い出した。全然関係ないのに、部活と広瀬両方欲しいと言った美蘭の顔も思い出した。

 俺の好きな人はわがままを全部のんでくれる広瀬くんみたいな人ではない。もっと何かを拗らせた、おおらかに見えて繊細な如月楽だ。

 素直に欲しいと願うだけの時期は、きっととうに過ぎている。

 不安定を安定に変えるもの。例えば、婚約。それは一生一緒にいる約束。ユキさん、あなたのやり方、少し借ります。


「楽。あのね」


 ちゃんと名前を呼ぶと、があの背筋がぴんと伸びた。何を言われるのかと不安そうな顔をされて、こっちまでその感情が伝染しそうになる。


「約束する」

「……やくそく?」

「があを愛する約束。俺たちは同一人物じゃないから。離れた場所で別々のことをしていたり、別々の人間関係があったり、お互いの言ってることや、やってることで知らないことや理解できないこともあると思う。があが音楽のことわかんないって言ったみたいに。でも、どんなことがあっても。どこにいても。何をしていても。俺はがあのことが好きで、大切で、一緒にいたいって思ってる。そうやってずっと如月楽のことを考えてるよっていう約束」


 その約束をするということが、俺にとってがあと恋人になるということだ。

 何も言わないのにわかり合っている気になって一緒にいて体を繋げたりもして、でもいっぱい不安にさせるみたいな以前の関係とは違うという宣言。


「こんなことで、があのイライラがマシになるかわからないし、上手くやれるかはやってみないとわからないんだけど……どう、でしょうか」


 があはずっと、何を考えているのか読み取れない顔でじっと俺の言うことを聞いていた。俺が話し終わっても、しばらく黙っていた。

 その間、俺は、心臓が止まっているような心地で突っ立っていた。

 春の風が屋上を通り抜ける。俺より少し長くて少し明るいがあの髪が、その風に流されて揺れた。

 カズ、と名前を呼ばれ、彼の髪から目に視線を移す。ほぼ同じ高さにあるその瞳は不安げにゆらめいていたけれど、ちゃんと俺の瞳を捉えていた。


「ん」


 目の前に小指を出された。


「え?」

「約束、してくれるんだろ」


 ワンテンポ遅れて、指切りげんまんだと気づいた。止まっていた心臓が動き出す。


「おれも、約束してみる。山田和臣を愛してみる」

「……うん。ありがとう」


 そっと自分の小指を絡めたら、きゅっと拘束を強くされる。細い指一本だけなのに、不思議と強固なその繋がり。

 見ているとなぜか安心する。俺は、があに顔を近づけてキスをした。

 ほんの数秒のこと。顔を離すと、があは触れ合っていた唇から俺の感情が伝染したみたいに、ほっとしたような穏やかな笑みを浮かべていた。


 大丈夫。きっと俺たちは上手くやれる。恋人として。強く繋がったこの指みたいに。





第五章「山田和臣」終

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